56:赤の襲撃者
夜中。
ふと愁の目が覚める。酒を飲んだわけでもないのに膀胱がきつきつになっている。
鳴子を下に置いてそっと外に出る。小部屋から少し離れた茂みに用を足し、戻ろうとしたところで――足を止める。
ぬるっと――まるで床から這い出たかのように、音もなく後ろから襲いかかってくる影。
しかし愁には見えている。
覆いかぶさってくる敵へ、振り返らずに回し蹴りを叩き込む。
相手がくの字に折れて吹っ飛ぶも、靴底を擦りながらダウンを避ける。多少は効いたのか、げほげほと腹を押さえて咳き込む。
「……なんか用っすか?」
輪郭で誰かはおおよそ見当はついている。彼が背筋を伸ばして顔を上げる。
さらりとした赤い髪、涼しげなアイドルっぽい面立ち。
キャンプ地にいたあのイケメンだ。センジュトライブ所属、名前は、確か――。
「……ああ、クレ・イズホさん」
「……憶えててくれて光栄です。すごい蹴りですね、アベ・シュウさん」
にこりと笑うクレ。爽やかな笑顔が今は不気味だ。
「なんのつもりっすか? 冗談ですって動きじゃなかったっすよね?」
「完全に背後をとったつもりだったのに。一瞥もせずに精確な迎撃。ちょっとびっくりしたけど、それが君の強さってことだよね」
「答えになってないんだけど」
クレは足を止め、荷物を草むらに放り投げる。マントを脱ぎ、さらにはジャージの上着も脱ぐ。
「アベさん。僕とお手合わせ願いたい」
「は?」
「昨日……ひと目君を見たときから、たまらなかった」
「お?」
クレ青年はまっすぐに愁を見据え、言葉を続ける。
「君は、あの場にいた誰よりも強かった。あの双子や老人もなかなかの手練だったけど――君には彼らにはない、いやこれまで会ってきた他のどの狩人にもない、特別ななにかが備わっている。僕にはそれがわかった。正直肉も酒も味なんか憶えちゃいない。僕のすべてが君にそそられていた」
「お、おお……」
そっちかと思ったらそうではなかったのでほっとする。言い回しが怪しいことに代わりはないが。
あの集団の中で愁が一番高レベルであると見抜いていたらしい。しかもチートな秘密も薄々勘づいている。あの場にオオカミ野郎がいればまた違ったかもしれないのに。
クレはよどみない動作で肌着まで脱ぎ捨てる。上半身が露わになる。
「ちょ……うおお……」
そこには豊満なバストがある。が、「お、女っ!?」――などというイベントは発生しない。
上背は百七十五センチの愁とほとんど変わらない。だが剥き出しになったその身体は、隆々とした筋肉の山脈を湛えている。はちきれんばかりに盛り上がった胸筋、仮面ライダーかというほど割れた腹筋、ぶ厚く重なった三角筋と上腕二頭筋。その中性的な顔立ちとははっきり言って不釣り合いなマッチョボディーがそこにある。
両肩にタトゥーが彫られている。右側は狩人のエンブレムっぽい、左側はおそらくセンジュトライブの領章だろう。
「て、手合わせって……」
「そのままの意味だよ。試合、試し合い。つまり互いの強さと技量を全部使って、相手を倒したら勝ち」
「いやいや、意味はわかるけど……」
アオモトととったスモーが思い出されるが、それとはまた違うようだ。
「別に命のやりとりをしたいわけじゃないんだ。ああ、アベさんは殺すつもりでやってもらっていいよ。僕としては、アベさんが動けなくなったら勝ちってことでいいから」
「いやいや、だからそれをやる意味が……」
クレはふっと苦笑いし、頭を掻く。
「そうだね……君からしたら、僕と戦う意味はないでしょう。だけど、ここはメトロで、いついかなるときも戦いの火蓋は切られることを待ち望んでいる。それは人間同士であっても同じことだよ」
「ちょっとなに言ってるかわかんないです」
ノアの話を思い出す。センジュトライブは独自の文化を持つ部族で、領民みんな武術を修めていると。求道者タイプというか「俺より強いやつに会いにいく」系の周りの迷惑を考えないタイプだ。どこかの関取とかぶる。
「そうだね……それなら、君に戦う理由をあげましょう。君が勝てば、僕の持つすべてを差し上げます。この荷物も、貯金も、実家の天井裏に隠したエロ本も。僕自身の命も含めて、僕の裁量でどうにかできるものすべて」
「ほ、ほう……」
荷物より貯金よりエロ本というワードが頭蓋骨の中で乱反射する。
「その代わり、僕が勝ったら……僕と付き合ってほしい」
頭蓋骨の中に放り込まれた新たなワードが脳みそにしみこむまで時間がかかる。
「え、なんすか?」
「付き合ってほしいと言ったんだ……彼氏彼氏として……」
「うん? うん?」
イケメンは真顔のまま、しかし頬をほんのり染める。
「……ぶっちゃけ、一目惚れです」
愁は深く深く息を吸い、万感の思いをこめてさけぶ。
「そっちかと思わせてそっちじゃないと思わせてから結局そっちかよ!」
そして思う。そっちのエロ本いらねえ。
***
若干混乱しているので、状況を整理してみる。
簡潔に言ってしまえば「ガチの人に『俺が勝ったら俺と付き合え』という少女マンガの王子キャラみたいなケンカを挑まれている」。オウジだけに。やかましいわ。
相手はクレ・イズホ。推定レベル50の手練。武術家集団センジュトライブの狩人で、そのガチムチな体型からしてなんらかの武術を修めていそうな気がする。
愁が勝った場合、クレの所持品や彼自身など、彼のすべてを受けとることができる。やや特殊なエロ本も。
クレが勝った場合、愁自身が彼のものになる。
「すいません、お金もエロ本もいらないんで勝負したくないです」
当然の権利主張。
「いや、それは困る。僕は君と立ち会いたい。そして勝った暁には付き合って……突き合いたいんだ……」
「後ろのほう『突く』だったよね今の」
と、隠れ家の蓋が外され、ノアとタミコがひょこっと顔を出す。
「シュウさん?」
「アベシュー?」
起こしてしまったようだ。というかこの騒ぎで獣が寄ってこないとも限らない。むしろ今ならそれを望むところではあるので【退獣】は使わないでおく。
「……どうしたんですか……こんな夜中に……」
「……オトコふたり……あやしいにおいがプンプンりす……」
「……いや……その……」
鋭いタミコ。弁明のしようもないが決して愁自身のせいではない。クレへの憎しみがますます募る。
「起こしちゃったね、可愛いお仲間さん。でも僕のタイプじゃないんだよなあ」
「でしょうね」
クレは赤い前髪を掻き上げ、ふふっ、とイタズラっぽく笑う。
「女の子二人を前にして、リーダーの君が勝負から逃げるつもりかい?」
「いやいや、そんな挑発には乗らないから」
「君が背中を向けた瞬間、僕はもう一度襲いかかるよ。どうする? どこまで逃げられるかな?」
反論に詰まり、シュウは頭をガリガリと掻きむしる。
道理が通用しない人間にはなにを言っても無駄だ。
「うっぜえ……もうお付き合いさえなければ受けてもいいやって気になってきた……」
はっきり言って嫌だ。得るものはない。
こいつの個人資産に期待はしていないし、特殊なエロ本はもっといらない。
それでも災厄というのは時として都合などお構いなしにやってくる。
そのときできることは――これでもかというほど抗ってやることだけだ。
(後悔させてやるわ。二度と絡んでこようと思わないくらいに)
(なにかあっても不慮の事故だ。俺の良心は痛まない)
「ほんとかい? いやもう、一度立ち会ってくれたらそれでじゅうぶんさ! そのあとのことはじっくりお互いのことを知り合って……先っちょだけでいいから……」
「結局突く気満々じゃねえか!」
性愛の対象が同性だろうと別に問題はない。心は自由だ。
それはともかくやっこさん、なかなかの変態のようで恐れ入る。
「シュウさん……どうなってるんですか……?」
「アベシュー……なんかそいつキモいりす……」
女性陣の視線が痛いほどだ。
「なんかわかんないけど、こいつと戦うことになった……万が一だけど、俺が負けたら……そこのドア閉めて耳ふさいでてね……」
二人とも頭の周りに「?」を浮かせたままだが、愁は目線を切って臨戦態勢をとる。
「まあ、百パー俺が勝つけどね」
普段はここまで強気なセリフを使わない愁だが、願望もこめて宣言しておく。
――クレの様子が豹変する。
顔中に恍惚とした笑みを貼りつけ、自分の身体を抱くように二の腕を握りしめている。
そして、がばっと腕を広げ、天井を仰ぐ。
「み、み……み・な・ぎ・っ・て・き・た・ね・え!!」
ずずず、と彼の白い肌に赤と青の曲線が浮かび上がる。全身を走る刺青のような――。
「シュウさん、【剛力】と【俊応】です! 気をつけて!」
なるほど、これがバフ系の菌能を使う印か。【剛力】は筋力アップ、【俊応】は反射速度アップだったと記憶している。その効力はアオモトのときに体験済みだ。
となると、〝騎士〟系統か〝闘士〟系統の可能性が高い。仮に別系統の上位菌職だとしても、接近しての肉弾戦を望んでいるのは間違いなさそうだ。
「あーもう。めんどくせえ」
こいつはもう止まらない。
戦うしかない。勝つしか道はない。
「――死んでも恨みっこなしな」
愁は覚悟をかためる。
自分の身を守るため、そして未来と尊厳を守るため。ぎゅっと尻を引き締める。
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