ツンデレ治療師は軽やかに弟子との恋に落ちる……のか?(タイトル詐欺)

第1話 いつもの日常

 まだ少し空気が冷える朝。温かいベッドの隙間から金色の髪が散らばっている。

 現実と夢の狭間を貪っているクリスはウトウトと夢を見ていた。それは、ついこの前の出来事だった。




 朝、いつも通り治療院研究所へと歩いている途中。滅多に人が通らない道で反対側から白髪の老人が軽く手を上げて挨拶をしてきた。


「やあ、気持ちが良い朝ですな。これから治療院研究所へ行かれるのですか?」


 深いシワが気難しい印象を与える老人は、若い時に英雄の称号を授かった根っからの軍人であり、今は老将軍としてご意見番のようなことをしているガスパルだった。

 そしてクリスのことを師匠と呼ぶ自称弟子のルドの祖父でもあった。


 朝の散歩の途中の軽い立ち話といった雰囲気のガスパルに対して、クリスは何を考えているか分からない無表情のままで頷いた。


「そうだ」


「クリス殿の治療師としての腕前は評判が高いですからな。愚孫ルドがいろいろと迷惑をかけているようで、申し訳ない」


「魔法での治療方法を教えることも仕事の一つだ。貴殿が気にかけることではない」


 クリスの不遜な態度にもガスパルは不機嫌になることなく穏やかに話を続けた。


「それならありがたい。ところでルドが治療院研究所に入ってもうすぐ一年になりますが、治療師になれそうですかな?」


「そうだな……まだまだ未熟なところが多いが最低限の治療はできるから、治療師試験は合格するだろう」


「それは良かった。試験の合否に関わらず、ルドは一年したら……」


 ガスパルの言葉の内容にクリスは驚くことなく軽く頷いた。本人から直接聞いたことはなかったが、なんとなく察していたことだったからだ。


「……そうか。こちらとしては何も問題はない」


「それなら良かった」


 その後は当たり障りのない会話をしてクリスはガスパルと別れた。


 ガスパルは散歩の途中という状況を装ったが、ガスパルの家がある位置から考えて、この時間にこの道で偶然会うとは考えにくい。このことをクリスに言うためだけに朝早くから、わざわざここまで歩いて来たのだろう。


 どうして、そんな面倒なことをしたのかクリスには理解できなかったが、こうして改めて言われて意外と堪えたていたらしい。

 少なくとも、こうして夢で反芻するぐらいには。




 クリスが布団の温もりを感じながら微睡みを堪能しているとノックの音が響き、そのままドアが開いた。微かな足音とともに紅茶の匂いが漂ってくる。


「おはようございます」


 他人からは落ち着いた心地よい声と評価されているのだが、今のクリスは夢見が悪かったため、その声が不機嫌に拍車をかけた。


 無言のまま布団から顔だけを出したクリスに、この国では珍しい黒髪、黒瞳をした執事が微笑む。

 女性のようにも見える整った顔立ちは見目麗しく朝から眼福な光景なのだが、クリスの眉間からシワが消えることはない。


 執事のカリストは、そんなクリスの様子を気にすることなくカップに紅茶を注いだ。


「今朝は少し冷えましたので、スパイスを加えました」


 クリスは渋々ベッドの上に座るとカップを受け取った。

 湯気が上がる紅茶にそっと口づけると、シナモンの香りとピリリとした刺激が走る。温かな液体が体の中を通り抜ける感覚にクリスの体から自然と力が抜けていく。


 その背後ではカリストが鼈甲の櫛を取り出していた。そのまま爆発している金髪を梳かすと、鼈甲の櫛が通った後の髪の色が茶色へと変わっていく。


 これが、いつもの日常。

 そう、ルドがいなくなっても何も変わらない。むしろ前の生活に戻るだけ。気にする必要はどこにもない。ないはずなのだが……


 クリスがぼんやりと紅茶を飲んでいると、金髪から茶髪に変わった髪を質素な紐で一つにまとめたカリストが声をかけてきた。


「着替えを置いておきますが……手伝ったほうがよろしいですか?」


 からかいを含んだ言葉にクリスは紅茶を一気に飲んでカップを突き出した。


「必要ない。すぐに食堂に行くから朝食の準備をしていろ」


「はい」


 カリストが優雅に一礼して退室する。クリスは治療師の証である黒い詰襟の服に袖を通すと白いカフスを持って食堂へと移動した。




「おはようございます」


 クリスが食堂に入ると茶色の髪のメイドがにこやかに挨拶をした。テーブルの上には焼きたてのパンや焼きベーコンのスクランブルエッグ添えが並んでいる。


 クリスが椅子に座ると挨拶をしたメイドのラミラが野菜スープを置きながら訊ねてきた。


「失礼ですが、最近眠れていますか?」


 クリスが野菜スープを飲みながら聞き返す。


「なぜだ?」


「お肌の調子がよろしくないように見えます」


「……」


「犬となにかありましたか?」


「ブッ……」


 野菜スープを吹き出しかけたクリスにラミラがハンカチを差し出す。クリスは口を拭きながら、すぐに澄ました表情を作って言った。


「なにもない」


 確かにルドとは、なにもない。ルドの祖父ガスパルには言われたが、本人ルドはそのことを知らない。


 食事を再開したクリスにラミラが疑うような視線を向ける。


「そうですか? その様子ですと近いうちにカルラが犬に直接探りを入れますよ?」


 カルラとは赤茶の髪をした一児の母でもあるメイドだ。カルラはルドに好印象を持っているらしく、ぐいぐいと話しかけてはクリスとの接点を作ろうとしている。一応、メイドらしく節度は保っているが、なかなかに押しは強い。


 クリスはラミラの視線から逃げるように顔を逸らしてパンを口に入れた。


「なにもないのだから好きにすればいい」


「ですが、そうしたらカルラはクリス様の様子がおかしいと犬に言いますよ? それを聞いた犬が心配して鬱陶しいほどまとわりついてくると思いますが?」


「むしろ、それがカルラの狙いじゃないのか?」


 この一年。傍から見ていても分かるぐらいカルラはクリスとルドの仲をどうにかしようとしていた。気付いていないのは色事に鈍く、クリスのことを男と思い込んでいるルドぐらいだ。


 そもそも、この国では『女は魔法が使えない』というのが常識である。治療師として魔法で治療をしているクリスを普通は女性と思わないし、クリス自身も男装をして男として過ごすようにしている。


 そしてルドは根底にある女性恐怖症が原因なのか、頑なにクリスを男だと自分で思い込ませている節があった。

 カルラはその思い込みをなんとかしようとしているのだが、なかなか上手くいかないらしい。いろいろと作戦を立てては玉砕している。


「そうでしょうね」


 ラミラがあっさりと肯定する。クリスは呆れたようにため息を吐いた。


「女性恐怖症の犬は一生あのままのような気がするがな」


 それでしたら、クリス様も一生このままのような気がしますが?


 と、ラミラは思ったが口には出さなかった。にこやかな笑顔を浮かべたまま空いた食器を下げる。


「それに犬は心配するかもしれないが、鬱陶しいほどまとわりついてくることはない」


 最初の頃は忠犬のごとく尻尾を振ってクリスの身の回りをグルグルしていたこともあった。

 だが時間が経つにつれて、徐々に距離を開けるようになっていた。それこそ微妙な、ちょっとした距離のため他人が見たら分からないが、クリスはそれを感じ取っていた。


 クリスが食事をしていた手を止めて紅茶が入っているカップを眺める。


「そもそも、あいつがいるべき場所はここではない。いるべき場所に帰って、さっさと所帯を持つべきなんだ」


 どこか気落ちしたようなクリスの声にラミラが青色の瞳を細める。


「そうですか」


 表面では納得したように会話を終わらせたが、ラミラはこのことをカルラに伝えて、なんとしても犬に探りを入れるように仕向けようと決めた。

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