紙が無い!!

豊原森人

紙が無い!!

 電車が駅に着いた瞬間、ぼくはすぐに電車を降りると、つとめて身体に刺激を加えないよう、ゆったりと人垣を縫って、それでも幾分かの早足でもって、トイレへと歩を進めて行きます。もちろんその間、キュッと力を入れている肛門が決して緩まないように細心の注意を払いながら、やがてホームの階段を下りてすぐのところにあったトイレに、忍者の如きすばやさで駆け込むと、そのまま個室で、都合五分ほど我慢した便意を、盛大に解放しました。

 いったい、今朝食べた、一昨日の残りのカレーライスがいけなかったのでしょうか。通学途中の電車内で、不意にぐるぐると、腸内から警戒警報にも似た轟音が響きわたると、途端に我慢ならない便意が全身を駆け巡り、ぼくは額に汗を滲ませ、軽い中腰状態のままスクールバッグを握り締め、アワ立つ肌の気色悪さに歯を食いしばりながら、次に停まった駅で用を足そうと、決心を固めたのです。


 ところが、そうしてひとまず出すものを出し、ハァ、と息をついてから、それでも遅刻ばかりは避けたいので、とにかく尻を拭いて、学校に向かおうと思った瞬間、トイレットペーパーの上蓋が、斜め四十五度という、何とも不吉な角度に下がっているのを見やると、途端に全身の血の気が引きます。この駅のトイレは、替えのペーパーが入ったホルダーが上側、ないしは横にあり、レバー一つ操作すれば、新しい紙がセットされる、という、大抵の公共施設、商業施設のトイレに採用されている型ではなく、昔ながら、と言うべきか、金属で作られたホルダーが一つ存在するのみで、しかもざっと個室内を見回してみたところ、予備の紙を置いておくような棚やケース類は、まるで見当りませんでした。


 まさか。


 上蓋を上げてみると、トイレットペーパーは、申し訳なさそうな風情で、綺麗に芯の部分のみを残していました。

 この展開に、ぼくは人生最大級の焦りを感じ、さてどうすればいいのか、脳をフル回転させて考え、まず、今紙が無いこの状況を、外に伝えるべきだという結論に至ると、すぐに鞄を開いて、ノートとペンを取り出そうとしました。

 しかし――いわゆる置き勉、というのをしているため、ノート類を含め、ペンで何かを書けそうな物は、全て我が高校の、ロッカーの中に置いてきてしまっていることに気づくと、ぼくはいよいよ、油性ペンだけを握り締め、途方に暮れてしまうのでした。

 しかし、ここで思いがけない、神の声にも似たひらめきを生みだしました。もともと重度の花粉症を患っているので、今日明日から、花粉が飛散し始めると、今朝の情報番組で知ったぼくは、家を出る前に、ポケットティッシュを、制服のブレザーのポケットにねじ込んでおいたのです。すぐに、救助船に出くわした気持ちで、おろしたてのそれを一枚、丁寧に取り出すと――それを広げ、紙が無く、どうか替えのペーパーを渡してくれないか、という旨のメッセージを、遭難して無人島に辿り着いた漁師が、空き瓶に救いを求める手紙を詰めて、海へ流すような思いで、トイレに入ってくる人の気配を感じるたびに、個室のドアの隙間から、ペラペラの、インクが滲みに滲んだそれを、差し込むのです。

 ですが、当然、個室の隙間からチラチラ紙が見えるに過ぎないので、誰も気づいてくれていない様子でした。次第に、遅刻が現実味を帯び始めてきた頃です。ようやく、誰かが小用を足し、手を洗って出て行くところで、何か不自然に立ち止まるのを感じ取ると、すぐにペーパーを、より強く、フリフリと助けを求めるように振り、ついでに、恥も外聞も無く、

「すみません、お願いできませんか」

 か細く懇願します。すると、そのペーパーを受け取ってくれた、当然姿も見えないその人が、隣の個室に向かう気配を感じ、これにぼくは、助かった! と心中で叫び、泣きたくなる様な思いで、扉の向こうに立っているであろう、その人に最大級の感謝と賞賛を送りました。

 そして、ようやく待望の、分厚いトイレットペーパーが、個室の上の隙間から投げ込まれ、お礼を言おうとした瞬間――


「……イヤ、紙あるじゃん」


 失笑交じりに、ノリ突っ込み気味で、そう呟いてから、親切なその人は、ぼくが懸命に書いたペーパーのメッセージも投げ入れてくれたのです。

 ぼくはバカみたいに唖然としていましたが、再びポケットにしまっていたそのポケットティッシュが、尻を拭くのに十分な量が詰まっていることを思い起こして、あまりにも冷静さを失っていた自分のカッコ悪さと、必死にペンでもって助けを求めるメッセージを書いていた滑稽さに、いっそこのまま紙と一緒に流れていきたいような思いで、尻を拭きあげ、逃げるように、トイレを後にしました。


 その後、学校に辿り着き、ホームルーム中の教室に飛び込んで、ギリギリ遅刻したことについて、担任の先生に軽くしぼられてから、席に着いた時――やはり花粉がひどいのか、ちょっとグズグズし始めた鼻をかんだ際、そのポケットティッシュが、水に流せるというタイプのものだったことに気づいたぼくは、先の羞恥心に追い討ちをかけられたような塩梅で、再び襲ってくるあまりの恥ずかしさに、頭を掻き毟るのでした。

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紙が無い!! 豊原森人 @shintou1920

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