昨日の俺は

池田蕉陽

第1話 昨日の俺


 親友を殺してしまった。計画的にそうしたわけではない。取っ組み合いになり、俺は我を忘れて正俊まさとしを締め殺してしまったのだ。


 気づいた時には、俺の目の前に生気を感じさせない正俊が横たわっていた。




 事の発端は正俊と居酒屋へ飲みに出掛けたことだった。中学校からの連れで、前まではよく一緒に飲んでいた。


 最初はお互いに仕事の調子や愚痴を零していた。それは大変だな、と俺は慰めたし正俊もそうしてくれた。溜まっていたストレスから一気に解放されて最高の気分だった。


 それがだんだん雲行きの怪しい方向へと話がずれ始めたのだ。酒が進んでいたせいもあるのだろう。お互いの頭に血が上り始めたのはある女の名が会話に出てきてからだった。


「お前に香織かおりは渡さない」正俊はカウンター前の壁に目を向けながら、ビールジョッキを片手に言った。


 香織とは俺と正俊が大学生時代に知り合った女だ。俺も正俊も彼女のことを愛していた。大学を卒業し就職した今、俺は香織と結婚を前提に付き合っている。それは香織が正俊ではなく、俺を選んでくれたからだ。


 それから半年して今日、正俊に飲みに誘われたので、彼は香織のことが吹っ切れたんだなとばかり思っていた。だが、そうではなかった。正俊は新たな宣戦布告をしてきたのだ。


「渡さないもなにも、あいつは俺の女だ」


 俺は言い切った。事実だからだ。


「香織が好きなのはお前じゃない。俺だ。今香織はお前と付き合っているが、彼女の頭の片隅には俺がいるはずだ」


「わからないな。どうしたらそういう考えに至るんだ。あいつは正俊でなく俺を選んだ。それは俺の方が好きだったからに決まってるだろ」


「本当にそう思ってるのかよ」


「なに?」


 俺がそう聞き返すと、正俊はビールジョッキをカウンターに置いた。そして俺の目を見た。


「香織は両親に言われて仕方なく結婚を前提にお前と付き合ってんだぜ」


 胸の奥から何かが込み上げてくるのを俺は感じた。それは怒りと焦りが混じった灰色の感情だった。


「そんなわけないだろ。根拠の無い嘘をつくな」


 俺の声は無意識に荒がっていた。周りの視線が集まっているのは分かっていたが、俺はそれ所ではなかった。


「嘘なんかじゃない。俺になくてお前にあるものはなんだ? いってみろ」


 すぐに答えが出なかった。だが、中学生の時の記憶を探ってみると、それはすぐに見つかった。


「金か?」


「そうだ」と彼は力強く頷いた。


「俺の実家と比べてお前の所は金持ちだからな。香織の両親はその点を視野に入れて、お前と交際するよう勧めたんだ。それで香織は仕方なくお前と付き合う羽目になった。本当は俺の事が好きなのにだ」


「香織が正俊のことが好きだなんて分からないだろ」


「分かるさ」


 正俊は口の端を上げてみせた。それが余計に俺を不安にさせた。


「どうしてだよ」


 俺は恐る恐る訊いた。正俊は遠慮なくこういった。


「実は昨日香織と会った。彼女は告白してくれたよ。本当は俺の事が好きだったって。でも両親には逆らえなかったと。お前と付き合ってても俺の事が忘れられなかったと。だから二人で逃げることにしたんだ。もしお前がそれに抗うってなら……」


 最後まで聞かないうちに俺の体は勝手に動いていた。俺は握った拳を渾身の力で正俊の頬にめり込ませる。正俊はそのまま椅子から吹っ飛んだ。


 それから俺達は表に出て裏路地に行き、大喧嘩が始まった。がむしゃらに殴り続けた。向こうも俺を殺すんじゃないかくらいの勢いだった。


 だが、死んだのは正俊の方だった。


 それが分かった瞬間、何故か得も言われぬ安心感が生まれた。その後、すぐに自分がした行いに気づいて全身から汗が滲み出てきた。酔いは完全に冷めていた。


 やってしまった。早くここから逃げないと。そんな意識が働いた。


 俺は慌てて路地を出ようとする。しかし、すぐに俺は足を止めた。人がいたからだ。暗くてわからないが、紺か黒の背広を身にまとっている。髪は男にしては少し長め。彼は俺の不安を他所にニヤリと笑った。


「今あなたは後悔の念に取り憑かれていますね?」


「え……?」


 いっその事この男も殺してしまおうかと思ったが、男の言葉で俺の殺意は薄まった。


「あなたは親友の正俊さんを絞殺してしまったことを後悔してますよね」


「どうして正俊を……」


「それは今はいいじゃないですか。それよりどうなんですか?」


 男の意図が全く掴めなかった。だが、今はこの男に返答した方がよさそうだった。


「は、はい。してます」


 そういうと、男はニンマリと笑った。それが不気味であった。


「それは良かった。あなた運がいいですよ」


「どういうことですか?」


「こういうことです」


 男は懐から紙とペンを取り出した。紙はメモ用紙、ペンは黒ボールペン。何の変哲もない二つだ。


 俺は首を傾げていると、男は説明を始めた。


「これは魔法の紙とペンです。この二つを使うことによって、あなたは過去にタイムリープすることが出来ます」


 思わず俺の鼻から息が漏れた。


「からかうのはよしてくれ。舐めたこと言ってるとあんたも殺すぞ。俺はもう既にやっちまってるんだ。あんたを殺したところで何も変わらない」


「私はふざけてなんていません。疑うより先に試した方が賢明ですよ。ほら」


 そういって男が強引に紙とペンを渡してきた。俺は渋々受け取る形になる。


「やり方は簡単です。そのペンで戻りたい西暦年と月と日、そして何時何分何秒をメモ用紙に書いて頂くだけです。それであなたはその時間にタイムリープすることが出来ます」


「ふん。そんな訳ないだろ」


「じゃあ試してください」


 温和な表情を浮かべているつもりなのだろうが、男の目は細く妖怪をイメージさせられた。上と下のまぶたの隙間から覗く瞳はエメラルドで、目が合うと意識が吸い込まれそうになる。


 俺は慌てて男から目を逸らし、左手に紙、右手にペンを持つ。とりあえず言うことを聞かなければ、そう思った。そうしないと今横に倒れている正俊のようになる気がしたのだ。


 戻りたい時間。最初に思い浮かんだのは居酒屋に入る前だったが、それでは根本的に解決しないなとなった。


 俺はメモ用紙に『2019年3月14日16時00分00秒』と書く。俺の記憶が正しければ、四時五分くらいに正俊から飲みに誘われるメールが届くはずだった。


 書き終えて既に十秒が経つ。何も起きないじゃないか、そう口にしかけた時、光が俺を襲った。眩しすぎるそれは思わず瞼を閉じてしまう程だ。それでも微かに光が漏れてきて、その中にあの男が笑って立っているのが見えた。男は口をパクパクとさせて何か喋っている。しかし何を言っているのか聞こえない。


 その光景を最後に今日の俺は終わった。




 俺は家にいた。香織と同棲しているアパートだ。炬燵こたつに足を入れてみかんの皮を剥いてた途中のようだ。


 俺は何度か瞬きした。さっきの光景と今視界に映っている見慣れた室内を比べ合わせている。


 夢ではと疑った。俺は試しに自分の頬をつねってみる。痛みを感じない。それにこれが夢だったとしてもどっからが現実なのかも正直わからない。


 俺は異常な出来事に混乱していると、机に乗ってあるスマートフォンが鳴り響いた。手を伸ばしそれを取ると画面を開く。正俊からだった。


『明日、久しぶりに飲みに行かないか?』


 そうだ。俺は昨日、これを見て意外に感じたのだ。半年ぶりの連絡だったこともあるし、香織のこともあってぎくしゃくしていたからだ。


 俺は改めて今の状況を把握しようとする。どうやら俺は本当にタイムリープしてしまったらしい。信じられないが、このメールの記憶が俺に残っている以上偽りだと断定できない。あの男の正体も気になるが、今はするべきことがあった。


 俺は正俊にメールを返信しようと画面に指を走らせる。


『悪いが正俊とは一生会わない』


 俺は一瞬ボタンを押すのを躊躇ってしまったが、余計な思考を振り払うように頭を振って画面をタップした。


 これであの過去、いや未来の現実は訪れない。俺が殺人犯になることもないのだ。


 安堵感で心が満たされる一方、正俊の真っ青な顔が頭を過ぎった。必然的に心もかげり始めた。


 正俊は俺を裏切った。昨日、つまり今日に香織と会ったという嘘までついて俺から彼女を奪おうとしたのだ。


 そう言えば香織はどこにいっているのだ。勿論昨日のこの段階でも家に彼女はいなかったが、その時は大して気にもしなかった。


 しかし、居酒屋でのあの話を聞いてしまったからには嘘だと信じていても気になってしまう。


 確か香織が帰ってくるのは夜の九時過ぎだったはずだ。俺は辛抱強く待つことにした。




 香織が帰ってきたのは七時を回ろうとした時だった。俺は少しおかしいなと思った。タイムリープする前の昨日は九時過ぎに帰ってきたからだ。よく映画とかでは言動一つ変えるだけで未来も少し変わってくると言うが、正俊へのメールの返信の内容を変えただけでそうなるだろうか。なるとすれば正俊と香織が関わって……


 俺はそこまで出かかっていた考えを振り払った。


 それから俺は香織の「ただいま」を待った。だがどうしたことか、一向に彼女がそれを発しようとしない。それもあの時と違うかった。そもそも香織がそれを言わないのも珍しかった。


 リビングに香織が現れて、俺は彼女を見た。だが、彼女は前の彼女ではなかった。顔が生きてないのだ。というより何かに怯えている様子なのだ。


「おい、どうした」


 俺のその声にも反応しない。さらに俺が声をかけようとした時、香織が口を開いた。


「ごめんなさい。ごめんなさい。こうするしかなかったの」


 香織の手に包丁。


「私と正俊さんが幸せになるために、どうか死んでください」

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