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ヴルーヘル学院には『王子様』がいる。
透き通る金糸のような髪に、サファイアのような瞳。
長い手足に、誰をも魅了する中性的な顔立ち。
足音を立てずに廊下を歩く様は、まるで一輪の白き薔薇のよう。
目の前で女性が躓けば、彼はさっと手を伸ばし、甘いマスクと甘美な声でこう囁くのだ。
「怪我はないかい、お姫様」
その瞬間、どこからともなく黄色い声が上がる。
『王子様』の名は、セシル・アドミナ。
十七歳になった公爵令嬢、セシリア・シルビィの仮の姿である。
◆◇◆
「うーん。なんで、こうなっちゃったかな……」
セシルもとい、セシリアは学園にある温室のベンチで、ガラス張りの天井を見上げながらそう零した。
隣には一歳年下の義弟、ギルバートが腰掛けている。
校舎のはずれにある温室には二人以外の姿はなく。『王子様!』と女生徒から追いかけ回される彼女にとって、そこは学園内唯一の安息の地となっていた。
「私はただ、目立たずひっそりと学園生活を過ごしていきたかっただけなのに、なんで『王子様』だなんて……」
「それは、姉さんが馬鹿だからでしょ」
「うぐっ!」
バッサリと切り捨てるような言葉の刃に、セシリアの胸は抉られる。
セシリアにいじめられて陰気で根暗な青年に育つはずだったギルバートだが、出会ってから十二年経った現在は、毒舌な上に生意気な青年に育っていた。ゲームの中のようにいじめていないのだから当然と言えば当然なのだが、もう少し可愛く育ってもよかったのに……と思ってしまうセシリアである。
ギルバートは睨みつける義姉に全く怯むことなく、むしろ呆れきったような視線を向けた。
「今朝だって『怪我はないかい、お姫様』って、何あれ。あんな歯の浮くような台詞、よくポンポンと出てくるよね」
「いやだって、私が本当は女だって気付かれるわけにはいかないでしょう。だったら、普通の男の人よりも男らしく振る舞うのは当然じゃない!」
「あれが『男らしい』……?」
「私の前世、十八年間の乙女ゲーム人生において、最も女性にウケが良い男キャラがあれよ!」
「……原因はそれだよ」
ギルバートは再びぴしゃりとそう言い放った。
セシリアの前世、神崎ひよのは乙女ゲームが大好きな高校生だった。
彼女はお小遣いの殆どを乙女ゲームに費やし、足りなかったらバイトをしてまでゲームを買い漁るような人間だった。暗かった夜空が白み始めるまでプレイするのなんて日常茶飯事で、休日などは部屋にこもって出てこないなんていうのはザラ。
部活もおしゃれもそれなりにこなしていたけれど、やっぱり趣味としては乙女ゲームが一番好きだった。
『ヴルーヘル学院の神子姫3』もひよのが当時やっていた乙女ゲームの一つである。
「で、本当に姉さんが神子候補に選ばれるわけ? 確かに今代の神子様はもう長いし、力も衰え始めてるって聞くけどさ。姉さんが清廉潔白な乙女の代表である神子候補に選ばれるだなんて、天地がひっくり返ってもあり得ないと思うんだけど……」
「え、ギルって私のこと嫌い?」
「んーん、大好きだよ。ただ、姉さんみたいな粗暴で抜けてる人間には神子なんて大役、務まらないんじゃないかなぁって思っただけで」
「義弟の評価が辛口っ!!」
笑顔を浮かべるギルバートに、セシリアは両手で顔を覆った。
『ヴルーヘル学院の神子姫3』というゲームは、その名の通り『ヴルーヘル学院の神子姫』シリーズの第三作目である。
この世界には、人々を守り導く『神子』という存在がおり、彼女の発言は国王でさえも無視できないほどとされていた。
平民出身の主人公リーン・ラザロアと、公爵令嬢セシリア・シルビィは、その次代の神子の座をかけて、このヴルーヘル学院で競い合う――これが、このゲームの大まかなあらすじである。
「私も選ばれないなら、選ばれない方がいいって思ってたんだけど……」
「なに、そのもう手遅れな感じ」
「一昨日の夜、胸のあたりに薔薇の痣が浮かび上がってきたんだよねー」
セシリアが言わんとしていることが分かったのか、ギルバートは頬を引きつらせながら「あー……」と漏らした。
神子候補になった人間にはある特徴が現れるとされている。それが花の模様の痣だった。
ゲームでは主人公であるリーンが、自分の手の甲にスノーフレークの痣が浮き出ているのを見つけるところから始まる。そして翌日、転入先のヴルーヘル学院で自分が神子候補に選ばれたことを知るのだ。
リーンが転入してくるのは、おそらく今日だ。なのでリーンの手の甲には、昨日の夜に痣が浮かび上がっているはずである。
「じゃ、姉さんが神子候補なのは、もう確定なわけだ」
「そうなの! ――ということで、フォローお願いします!! もう本当に、ギルだけが頼りなの!! おねぇちゃんに平和な未来をっ!」
「あぁ、もう、わかったから! ちょっ、抱き着こうとしないで!!」
子供のころのように安易に触れ合おうとしたセシリアを、ギルバートは頭を掴んで止める。恥ずかしかったのか、彼の目じりはほんのりと赤い。
主人公の敵役となるセシリア・シルビィの末路は悲惨なものだ。基本的にどのルートでも死ぬことになる。ノーマルルートでも、恋愛エンドでも、バッドエンドでも、それは変わらない。変わるのは死に方だけである。
だから、セシリアは男になることにしたのだ。基本的に男は神子になれないし、男になることでセシリアはモブキャラに徹することができる。――といっても、本当に男としてこれから生きていこうというわけではなく、ゲームの舞台である全寮制の貴族学院で男子生徒として目立たず、ひっそりと過ごしていこうということなのだが……
しかし、セシリア一人でできることには限界があった。
あらかじめ学園に手を回したり、病弱なふりをして社交界に出なかったり、父親の仕事を手伝い、いざというときに使えるお金を貯めたり、無駄に大きな胸をさらしで素早く隠す練習をしたり、自らの髪で密かにカツラを作ったり……
記憶を取り戻してからの十二年間でそういう準備は出来たが、学院の男物の制服を怪しまれずに手に入れることや、仮の身分を用意することは彼女にはできなかった。
なので、セシリアは義弟のギルバートに協力を仰いだのだ。
いきなり『前世』とか『ゲーム』とか言い出した義姉を笑うことなく、『じゃ、俺は何をすればいい?』と切り返してくれた彼には、いくら感謝してもしきれない。
口は悪いが、本当に義姉想いの義弟だ。
抱き着いてきた義姉を押し返し、ギルバートは咳払いをして表情を整えた。
「それよりも、今日なんでしょ。リーン・ラザロアが編入してくるの」
「そのはず。ゲームでは確か、『高等部の入学式から一週間後』ってあったから。もし、今日じゃなくても誤差は一日か二日ぐらいじゃないかしら」
「じゃぁ、早く教室に戻っておいた方がいいね。姉さんのクラスに転入してくるんでしょ? 遅れて入って目立つのは避けた方がいいんじゃない?」
「あ、うん。でも、そろそろ……」
セシリアがそう顔を上げた瞬間、学園の至る所に設置されているスピーカーから放送がかかる。それは、学生は至急全員講堂に集まるようにとのお達しだった。
予定がきっちり決まっている学院内で、こんな風に放送を使い全生徒を集めようとするのは珍しい。普通ならば、前日になにかお触れがあるものである。
「これってもしかして始まった感じ?」
「うん。多分ね」
青い顔で頬を引きつらせるセシリアを励ますように、ギルバートが肩を叩く。
「ま、行ってみよう。隠れていても何も始まらないし……」
「そうね」
二人はベンチから立ち上がり、そのまま温室を出た。
そんな彼らの後姿を見つめる一つの影――
「ふふふ、ギルバート様みぃつけた」
可愛らしい声を跳ねさせながら、彼女は二人の後姿に熱い視線をぶつけていた。
薄い唇は楽しそうに弧を描いており、その手元には何を書き記しているのか分厚いノートとペンがある。
「あぁ、やっとこの日が来たのね。すごく、すごく、待ち遠しかったわ」
悦に入るようにそう言って、彼女は自身を抱きしめる。
その頬は桃色に染まっており、興奮のためか瞳にはうっすらと涙の膜が張っていた。
少し癖のあるピンク色の髪の毛に、長い睫毛に縁どられたルビーのような大きな瞳。
リップなど塗ってなくとも自然と赤みを帯びている小さな唇に、男性の庇護欲を誘うような華奢な体躯。
彼女の名は、男爵令嬢リーン・ラザロア。
ゲーム『ヴルーヘル学院の神子姫3』のヒロインである。
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