若き日の信虎 鮮烈、飯田河原の戦い

あさひな やすとも

第1話 信虎七尺五寸の大太刀を奮い 自ら敵陣に突っ込む


「申し上げます! 今川勢凡そ一万数千、釜無川を北上しつつあり!」

 伝令が息を切らせながら、敵の動きを伝えてきた。

「大儀じゃ! 下がって休むがよい!」

 武田信虎が伝令に命じた。

 躑躅ヶ崎館の大広間では諸将が床机に座って信虎の下知を待っている。

 鼻は高く、目は大きく気品に満ち、鎧に身を包んでいなければ京の教養高き貴族に見える顔立ち。

 それを覆い隠すように鋭い虎の様な眼つきで周りを睥睨する。

 十二年前に信縄が亡くなり、家督を僅か十五で継ぎ当主になった。

 当時は信虎ではなく、信直という名であった。

 まだ若輩の信直が家督を継いだ事に不満を持つ親類、国衆が反旗を翻した。

 戦の経験が殆どない信直など一撃で斃して見せると思っていたのだろう。

 その思いとは裏腹に信直は戦に強かった。

 ある合戦では自ら手勢の先頭に立ち七尺五寸の大太刀を振るい、敵の大軍の突撃し敵を多く討ち取ったという。

 討ち取った敵の首は多い時で一回の合戦で七十八にも達したことがあった。

 十四年前の永正五年の坊峰合戦で叔父の油川信恵と戦った際には信直の手勢は僅かに七百しか集まらなかった。

 家臣、国衆の多くが信恵に付き、その数は三千に達した。

 数を頼りにする信恵方は烏合の衆で統率が取れないのに対し、信直の手勢は少数ではあるが、良く訓練されており

 精鋭であった。

 当時本拠にしていた川田館を出撃し、敵方の拠点である勝山城を夜襲して数倍の敵を殲滅した。

 この時、信直は自ら先頭に立ち長巻を振るって敵を次々と切り伏せた。

 敵兵一千五百、油川信恵、岩手縄美、栗原昌種など諸将を討ち取り大戦果を上げ戦いに勝利した。

 討ち取った諸将の娘などは乱取りの対象になり、信直の家臣だけでなく、戦功のあった雑兵の慰め者になった。

 力こそ正義、逆らう者は薙ぎ倒す。

 元々は教養高く大人しい少年であったが、裏切りと戦の日々が信直を猛き虎へと変貌させた。

 そして甲斐国を統一すると名前を信直から信虎へと変えた。

 自ら敵を喰らう虎になるという決意の表れであった。

 甲斐国を統一したのも束の間、今度は隣国の今川家の重臣である福島正成が一万五千という大軍を引き連れて国内に乱入するという事態が起きた。

 今川勢の進撃は凄まじく、一気に躑躅ヶ崎の喉元である釜無川にまで迫っていた。

 これを撃滅をしようと、信虎は触れを出し手勢を集めたが、僅かに二千数百という有様であった。

 長い国内戦で多額の戦費を浪費し、兵力を集められなかった。

 そのような逆境の中で戦に強い信虎を慕って集まった手勢が二千数百集まったのは奇跡と言っても良かった。

 床机に座る者の中には板垣信方、甘利虎泰、横田高松、小幡虎盛などの歴戦の武者が居る。

「御屋形様、兵力に劣る我が軍、此処は籠城するが上策に御座いまする」

 信虎よりも年上で適切な助言を与えてきた信方が口を開いた。

「左様、板垣殿が仰せの如く籠城が上策、兵糧の備蓄も万全で御座いまする」

 先代からの重臣の甘利も籠城策に賛同した。

 だが信虎は不敵な笑みを見せ、

「何を申すか、敵を背に籠城などできようか、ここは打って出る!」

 断固とした決心を示した。

 これに異を唱える者はなく出撃と決した。

「何、案ずる出ない、要害山城に幾千という篝火を焚くのじゃ! 敵方から見れば万の手勢が集まっているように見えよう、そこで夜明け前に

 一気に攻める! 霧の中では敵も油断をしておろう」

「承知仕った! では早速、某が」

 板垣が床机を立ち、要害山城に向かった。

 要害山城は本拠地である躑躅ヶ崎館の後方三町ばかり後方にある詰め城であった。

 今回の戦では信虎の奥方である大井夫人が万一に備えて避難していた。

 夫人は信虎の身ごもっていた。

「早速、出陣の支度を致せ! 逐次、敵の様子を知らせるのじゃ! 急げ!」

 諸将は一斉に立ち上がり出陣の支度に向かった。

 深夜、信虎の手勢は篝火を焚かず、音を控えながら釜無川沿いを北上していた。

 進軍中の信虎の下に放った乱波が敵軍の位置を知らせて来た。

「申し上げます」

「苦しゅうない」

「敵は飯田河原で屯しておりまする」

「大儀じゃ」

 乱波は敵情を知らせると、再び飯田河原の方向へと去っていった。

「聞いたか。敵は飯田河原に居る、此処からはそう離れていない」

 轡を並べる重臣甘利虎泰に話しかけた。

「今頃、敵は油断をしておりましょう、夜明けとともに一気に」

「うむ」

 既に周りは濃い霧に包まれていた。

 二町ほど進軍すると、煙の臭いが鼻に突く。

 濃い霧に包まれているが対岸に煌々と燃える火が視認できた。

 信虎軍は陣形を整え終えると、夜が明けるのを待った。

 日が昇り、周りが明るくなり始めた。

 信虎は馬を下り、采配を振り下ろした。

 采配を投げ捨て、七尺五寸の大太刀をの抜き、信虎自ら敵陣に向かって駆け進む。

 手勢は一斉に対岸の今川勢を目掛けて突撃を開始した。

 大きな水音と共に喚声が響き渡った。

 自慢の七尺五寸の大太刀の切れ味凄まじく、一度に三人の首を薙ぎ、周りに血の雨を降らせた。

「儂が甲斐の国主の信虎じゃ! 腕に覚えのあるものは掛かってこい!」

 大音声で敵を挑発するが、戦場を暴れる信虎に勝負を挑もうとする武者など一人もなく、動揺するばかりであった。

 敵を斬り伏せる活躍を見せる総大将の姿を見て士気が大いに上がり、信虎軍は寡兵にも関わらず敵軍を押しまくった。

「敵は撫で切りじゃ! 情けは無用じゃ!」

 信虎は叫ぶ。

 大太刀を振るい戦う顔には笑みすら浮かんでいた。

 まるで玩具を与えられ無邪気に遊ぶ童のようであった。

 戦いは一方的に進み、壊乱した今川勢が我先にと逃げ出したのだ。

 平家の富士川の戦いを彷彿とさせた。

 挙げた首は三千にも及んだ。

 河川敷に本陣が設営され、そこで首実検が行われた。

 諸将が床机に座り挙げた首を検分していた。

 家臣、足軽などが討ち取った首を信虎の前で見せるのだ。

 信虎は酒を飲みながら満足そうに首を眺めていた。

「勝ち戦の後の笹は美味いのう!」

「さすがは御屋形様に御座いまする。戦にかけては天下無双にございますな!」

 虎泰が言った。

「いや、本日の戦では儂は三十余りの首しか挙げておらん、五十は獲りたかったのう」

 信虎は謙遜して言った積りであろうが、その言葉に家臣は戦慄を覚えた。

 御屋形様に逆らえば恐ろしい目に合う。

 一瞬、家臣の顔が凍り付いた。

 邪魔者はまるで一寸の虫でも殺すかのようだ。

「敵の首を獲るは、まるで男を知らぬ女子を犯す様で病みつきになるわ!」

 そう言うと酒を飲み干し大笑いした。

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