東窓の書斎
鈴木 千明
〝書く〟ことに必要なもの
少年は本が好きだった。特に、父親の書く小説が大好きだった。そして、それを生み出す父親を、とても尊敬していた。
東窓の書斎には、大きな椅子がある。茶色い革製の椅子だ。少年がもっと小さい頃には、そこに乗って背もたれにしがみつき、父親がゆっくりと回してくれる遊びが好きだった。
少しだけ成長すると、その遊びよりも、椅子に座った父親が小説を書く姿を眺めていることの方が、好きになった。物語を紡ぐ時、父親は旅をしているのだ。机に向かいながら、無限に広い世界を見ていた。椅子に座りながら、無限に続く道を歩いていた。そして、出来上がった小説を真っ先に読む少年も、ベッドの上で無限に高い空を飛ぶのだ。
いつしか少年は、こう思うようになっていた。自分も彼のように、人の心を揺さぶる物語を書きたい、と。
いつも開けたままになっている父親の書斎の扉を叩き、自分の存在を示す。
右手に見える東窓の枠を、太陽が越えようとしていた。
背中を向けて座っていた父親は、ゆっくりと彼の世界から戻ってくる。ノックに応じようとする父親のこの姿を見る度、少年は少しだけ申し訳なさを感じていた。ペンを置き、椅子ごと半回転した父親は、少年を見て微笑んだ。彼は今どんな物語を創っているのか、少年はとても気になったが、その気持ちを抑える。
どうすれば小説を書けるのか、父親に聞くのが一番良いと、少年は考えた。とりあえず、書くために必要な道具を貰おう。そして、何かヒントも得ようと思い、扉を叩いたのだ。
「
そう言うと、父親は机の上から、1枚の紙を渡してくれた。罫線すら入っていない、真っ白な紙だ。
「
そう言うと、父親は引き出しの中から、1本のペンを渡してくれた。何の変哲も無い、黒のインクが出るペンだ。
「
そう言うと、父親は少し笑って、少年を優しく抱きしめた。身体を離して、少年の肩に手を置く。
「
父親の髭が笑う。少年の大好きな物語を紡ぐ父親の右手から、彼の小説を読んだ時の暖かい気持ちが流れ込んでくる。少年はそう感じた。
「
父親はそう言って、少年の頭を撫でた。笑い返した少年に、父親は小さな椅子を持ち出し、机の一部を空けてくれた。
南の空へ進んだ太陽の姿はもう見えない。しかし、変わらず部屋の中に光を届けていた。
親子は特に言葉を交わさず、自らの創り出した世界を表現していく。
太陽が西の地平線を溶かし始めた頃、父親は静かに、横に視線を遣った。紙には確かに、少年の世界があった。まだ形を成す前のピースたちが、暗くなり始めた部屋の中で、光って見えた。
東窓の書斎 鈴木 千明 @Chiaki_Suzuki
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