幸せの涙

白川 慎

第1話

気が付いた時には親はなく、独りぼっちだった。孤児院で親に捨てられたり、親が死んだりといった似たり寄ったりの子供たちの中で育ち、誰に説明されたわけではないが自分も捨てられたのだろうと漠然と理解していた。王都からはかなり離れた田舎の教会に併設された孤児院で、面倒を見てくれたのは年の行ったシスターだった。常時5人ぐらいの仲間とともに10年を過ごし、周りが住み込みでの仕事について行く中、私はそのままシスター見習いとしてそこを引き継ぐために残ることに決めた。面倒を見てもらう側から見る側へと立場が変わり、毎日がとにかく慌ただしく過ぎて行った。王都から聞こえてくるような華やかな楽しみはなかったが、もともと流行も娯楽も興味はなかった。巣立って行った仲間たちが時折いろいろな形の焼き菓子や、綺麗な彩色の施された置物などを土産に持って来てくれ、それを楽しむだけで十分だった。


それはあまりにも突然だった。いつも通り夜明けとともに起床し、午前中の礼拝を終え、そろそろ昼食の準備をと思っていると地響きが教会の石壁を揺らした。同時に外が悲鳴や怒号で騒がしくなり、何が起きたのかわからないまま窓から外を見ようとしたところで突然地面が大きく揺れ、そのまま床に転んでしまった。何を思う間もなく建物の崩れる音以外聞こえなくなり、私はどこからかも判別できない降り注ぐ瓦礫にその場で身を丸めた。


いつの間にか気を失っていた。気がついた時には揺れは全く感じず、あたりは静まり返っていた。いくつか大きな破片が当たってからだのあちこちに痛みはあったものの、何とか教会の外へと這い出ることができた。そこで目にしたのは先ほどまでとは変わりはてた光景だった。教会は瓦礫の山と化し、周辺の民家も倒れたり崩れたりしている。大量な土砂がそれらの中ほどまでを覆い尽くし、それを見てやっと地震が起きて山が崩れ、飲まれたのだと理解した。


大声を出してみても誰からも返事は返ってこなかった。痛む足を引きずりながら土砂の上を進み、動かなくなった隣人を見つけるたびに気力が失われて行った。助かった人たちはすでに避難してしまったのだろう。空を見上げれば昼前であったはずがすでに日が傾きかけている。一人取り残されてしまったことに気付くのにそう時間はかからなかった。


そこからに記憶はなく、気がついた時にはどこかの家のベッドに寝かされていた。ぼんやりしていると一人の男性が入って来て、草むらの中に倒れていたのだと教えてくれた。ここは隣の集落の男性の家で、今までにない地震があり、この集落に被害はなかったものの周辺の様子を探りに来た男性に運よく見つけてもらったらしい。打撲や裂傷で当分は身動きが取れそうにない私をこの男性、ノーリャは慣れない様子でありながらも看病してくれた。数日してこことは別の集落に私と同じ集落にいた人たちが避難しているのがわかったが、教会の神父やシスター、そして子供たちは誰一人助からなかった。歩くことすらままならなかったし、一緒に暮らしていた人たちが皆いなくなってしまったこともあり、ノーリャはそのまま私を家に置いてくれた。少しずつ動けるようになるにつれ、家の事を手伝い始めた。もともと教会でやっていたことであり、10人近くの食事の用意や洗濯などから比べればたいしたこともない。


ノーリャは穏やかでとても人に気を使う人だ。年は私より4つ上の19歳。ご両親は共に病で亡くされていて、1つ年下の妹さんがいる。妹さんは去年近くの別の集落の男性と結婚して今はそちらに住んでいる。ご両親が残してくれた田畑を耕し、それで生計を立てているそうだ。見た目は良くも悪くも普通。からだは大きくもなければ小さくもなく、ノーリャ曰くどこをとっても平々凡々。それでも私は優しく穏やかな彼の微笑はだれも真似できるものではないと思った。


「あっ!!」

地震からもうすぐ30日が経とうとしていたその日、食器を棚にしまおうとしていて手が滑ってしまった。何とか落とさずに掴むことができたが、驚きのあまり床にへたり込んでしまった。

「…声、が。」

ノーリャの家で目を覚まして以来、ショックのせいで出なくなっていた声が出たのだ。リビングに居たノーリャにも聞こえたらしく、転びそうになるほど慌てた様子で走って来た。

「ロナ!?」

へたり込んでいる私の姿にさらに驚いたらしく、私のすぐ前に膝をついて何があったのかと心配そうにのぞきこんでくる。

「声が、出るの。」

久しぶりすぎて違和感があるし、掠れてはいたものの何とか言うことができた。ノーリャは驚いて、そして本当に嬉しそうに顔を緩ませた。

「よかった!よかったな!」

まるで自分のことのように喜んでくれ、私もほっとして力が抜けた。声が出ないとわかった時は目の前が真っ暗になった。医師にはしばらくして心が落ち着けば出るだろうとは言われた。ノーリャが何とか身振り手振りで私が言いたいことを理解はしてくれていたが、このままずっと声が出なかったらと考えるととても不安だった。

「ありがとう。」

優しい微笑を浮かべるノーリャに声が出るようになったらまず伝えたかったことを声に出した。見ず知らずの私を家に置き、悲しみや恐怖に涙を流すたびに静かに寄り添ってくれた。もう大丈夫だと、涙が止まるまで優しく抱きしめてくれた。

「助けてくれて、ありがとう。」

ずっと伝えたかった言葉を繰り返すとノーリャはにっこりと笑ってくれた。


あれからもうすぐ10日が経つ。怪我が治るまで、声が出るようになるまでとノーリャに言われるがまま置いてもらってしまったが、そろそろ自分の身の振り方を考えなければならない。夕食の支度をしながらやはり少し先の集落にある教会にお世話になれないか相談しに行ってみるしかないかと考えていると、ノーリャが帰ってきた。いつもよりかなり早い帰宅だが、何かあったのだろうか。

「お帰りなさい。」

火にかけていたスープを一旦おろして急いで玄関に行き、コートを脱いでいたノーリャに声をかけると穏やかで優しい笑顔を浮かべてただいまと返してくれる。

「ロナ、こっちに来て。」

ノーリャは急かすようにリビングまで私の背中を押して行き、ソファに座らせた。彼もすぐ隣に座っていつになく緊張した顔で真っ直ぐにこちらを見る。

「ロナ。僕と、結婚してくれないか?」

ノーリャの言葉を頭の中で反芻し、数秒おいて火がついたように顔が熱くなる。何か言おうにも一言もまともな言葉にはならず、はくはくと口を動かすと、ノーリャの顔も真っ赤になっているのに気付いた。

「これを、受け取ってほしい。」

そう言って手のひらほどの大きさの箱を差し出された。ノーリャが僅かに手を震わせながら箱を開けると、綺麗な銀細工のブローチが収められていた。この辺りでは求婚するときに贈られるもので、求婚を受けるのであればそれを左胸に付ける。結婚式や何かの行事の時にも必ず付けるもので、教会で何度も輝くブローチを胸に付け、幸せそうに微笑む花嫁を見てきた。

「…私で、いいの?」

生まれすらわからないし、もちろん身寄りもない。財産も何もない私などノーリャにとっての負担にしかならないだろう。

「ロナと、これからもずっと一緒に居たい。」

ノーリャはさらに顔を赤くしつつ、それでも真剣な顔で私を見つめた。

「ロナと居る時間がとても穏やかで、幸せなんだ。妹が嫁いでから一人で過ごしてても全然寂しいなんて思ったことなかったけど、ロナが家で待ってるって思うと一人じゃないってすごく幸せで。君が声が出せるようになって、出て行ってしまうって思ったら居てもたってもいられなくて。急すぎるってわかってる。でも、僕は、君と居たい。」

うっかりすれば聞き逃してしまいそうなほどの小さな声で、愛してる、と言われれば、もう涙を止めることはできなかった。

「私も、ノーリャが好き。ずっと、一緒に居たい。」

涙でノーリャの顔は歪んでしまっていてよく見えないが、何とか声に出すとぎゅっと抱きしめられた。

「よかった。」

嬉しそうな、ほっとしたようなノーリャの声に心がふわりと温かくなる。生まれて初めてうれしくて、幸せで、涙が止まらなかった。

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