紙とペンと灰皿
土田一八
紙とペンと灰皿の使い方
ソビエト連邦の首都モスクワ。
コードネーム セルゲイ イワノフは今日も祖国の為に反ソ反革命分子を取り締まる職務に励んでいた。極東時代にもらった労働英雄3回はダデではない。清掃作業員に扮して喫煙所の清掃をする。
セルゲイは辺りを確認すると灰皿をばらして中に仕込んである盗聴器からカセットテープを入れ替える。そして何事もなかったかのように元通りにして、受け皿から吸い殻を回収してきれいにする。
回収したカセットテープは監視報告と突き合わせて身元を特定し、真夜中に容疑者を確保する。そして自白するまで厳しい取り調べをする。ロシアの芸術も場合によっては辞さない。
後はおざなりの形式裁判によって無実の罪である国家機密漏洩罪で懲役10年を喰わらすのが普通であった。
これは祖国ソビエトの為である。
「初めまして鈴木さん。モスクワにようこそ」
「こちらこそ小林さん。よろしくお願いします」
空港で2人は会釈を交わすと小林さんの車へと移動する。ところが路上の駐車スペースに停めていた車はなぜか取り締まりに遭っていた。
「おい、そこの中国人お前の車か?」
いかつい顔の警官が親指で指差す。
「すみません。旦那。すぐに移動します」
「誰が移動していいと言った?」
いかつい顔の警官は右手を出す。鈴木はパスポートを出せという意味だと思っていた。
「旦那。少々お待ちください」
小林さんは助手席のダッシュボードからボールペンを何本か鷲掴みにして取り出し、それを警官に渡す。
「今度からは気をつけろよ」
警官はボールペンを内ポケットにしまうと、表情を変えずにそう言って立ち去ってしまった。
「どうなるかと思いましたよ」
「とりあえず荷物はトランクに入れてください。すぐに出発しますよ」
それから車に乗って宿泊先のホテルに向かう。
「鈴木さん。ソ連ではペンは必需品です。警官からいちゃもんつけられたらボールペンを渡せばどうにかなります」
「はあ。これって共産党シンパの方が見たら失望するでしょうね」
「ハハッ!すでにそういう方は何人も知ってますよ。ブレジネフが書記長になってからは特にね」
「そうですか…」
発展途上国での駐在経験が豊富な鈴木さんはソ連も発展途上国と変わらないなと心の中で思った。(口にすると危険な為。それこそボールペンでは済まないだろう)
横浜港。ナホトカ行きのソ連の貨客船が停泊していた。
「こんなに大量のちり紙、どうするのですか?」
中村技師はちり紙がぎっしりと収められたコンテナを見て、日本での仕事が完了して帰国するソ連の監督官スハロフ氏に質問した。中村技師は慣れたが、何とも2等3等合造客車の表記みたいな苗字である。
「普通に我が家で使いますよ?」
スハロフ氏は真顔で答えた。
「はあ。そうですか…」
中村技師は絶対にそんな事はないと心の中でそう思っていた。
それから10年近い年月が経ち風の便りで、スハロフ氏が大抜擢されて、モスクワで大出世をしたという話を中村技師長(技師から昇進)は聞いた。
「あの時のちり紙のおかげだろう」
と独り言を言った。後で聞いた話では、ソ連のトイレ事情はあまりよくなく、トイレットペーパーはおろか便座がないケースが普通で、おまけにとても汚い為特殊技術が身につくそうだ。
シベリア抑留経験者の先輩から、ソ連人はお尻を拭かないという信じられない話を聞いた事があった。それは単にトイレットペーパーがなかったからだと思うのだが、貴重品扱いだったらしい。それにひきかえ、日本人抑留者は普通に使っていたというから奇妙な話であった。
「ちり紙が貴重品とは大したことがないな」
それからペレストロイカが始まるとあっという間にソ連は地図から消滅してしまった。
コードネーム セルゲイ イワノフは勤め先が解体されるとツテを頼って日本で家族と共に暮らしていた。
「あの盗聴器が役に立つとはな…」
彼は今でも盗聴器に感謝している。そしてその盗聴器は今でも本来の機能を使って愛用している。
小林さんは鈴木さんが帰国した後、ソ連当局にスパイ罪で逮捕された。彼は懲役25年の刑に処せられ、シラカバの木を数える生活をする羽目になった。しかし、その後の消息は不明である。当局の記録によれば、最初の冬、拷問の後遺症で凍死したとだけ記されていた。
スハロフ氏はソ連国鉄の大幹部となった後、ソ連邦解体のどさくさで財をなし、ロシア有数の大実業家となった。そして政権を後押しして不動の地位を築いた。後年招待された中村社長(技師長から抜擢)はモスクワでスハロフ氏と再会し、お互いの栄達をたたえ合った。中村社長はスハロフ氏にあの時のちり紙について質問してみた。
「あの時のちり紙は役立ちましたか?」
「ダー」
スハロフ氏は笑顔で肯定した。
完
紙とペンと灰皿 土田一八 @FR35
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