書いて記すは人の生

三条 荒野

書いて記すは人の生

 人とは真っ白な紙であるが、同時にペンも持ち合わせている。接した誰かに、あるいは見つめ直した己自身に、限られたインクを費やして、思う何かを書き記す。書かれた自分が誰かの一部になる事だってあるし、その逆もまた然り。

 無論、紙もまた有限で、書き込める量が限られている。大切な内容はでかでかと記される。逆にどうでもいい事は、雑な字で書かれては、乾かぬうちに消されるのだろう。


 人の生とは有限で、挙句いつ終わるとも知れぬもの。インクを使い切れぬまま、余白を埋め切る事もなく。その命を終えるなど、きっとありふれてた事の筈だ。

 だから人は残したがる。己という紙を、あるいは誰かに書き込まれた自分を。永遠と見紛う時の中で、消えたくなくて。忘れられたくなくて。残したくて。今日も今日とてペンを取り、自分や誰かに書き記す。




「という持論から、『死にゆく妻を忘れまいと、かき集めた情報を一心不乱に記録した結果、己の境界と大目的を見失い、ただ自己の複製と保存に取りつかれて暴走を始める狂気の夫』の話を思いついたんだが、どうだろうか」

「酷ぇ話だなそれは」


 そんな俺の感想を「いい話になるぞぉ、絶対」と妙に自信満々に言い張る先輩に、思わず溜息が出た。どうしてそう悪い方向に転がしたがるのだ。感動する話にできそうなのに、何故そうしない。悲劇や不幸を書きたがる。偏り過ぎだ。

 不満げな俺の顔を見て、先輩は口を尖らせる。


「私だってさ、死ぬまでに何かを遺したい訳じゃん。自分が存在した証って奴をさ。その為には自分らしさで、私の色で盛大に色付けしておかないとね」

「遺すのならばせめて触れた人が良い気分になれるものにしましょうよ」

「……そんなに悪かった? さっきの話」

「客観視できていないとは相当ですね……」


 納得のいかない先輩、唸る。無邪気な顔で笑うくせに、思いつく内容は決まってあんな感じだ。「そこわざわざ陰鬱にする必要ある?」って展開を頻繁に持ち出す。俺はその都度苦言を呈するのだが、先輩はその都度唸るのだ。


「死んでも誰かの思い出として遺りたいって気持ち、わからない? 例え肉体が死んだとしても、精神が誰かの中で生き続ける、みたいなさ。そう思えれば、慰めくらいにはなりそうじゃない。私は作品でそれを成したいのよ。さっきの話の夫も同じでさ。妻の記録と己の記録がごっちゃになっちゃって、妻とも自分とも呼べなくなった何かを、誰かに遺すべく手当たり次第に襲い始めるの」

「生きてる人が死んだ者を想ってそう望むのならば構わないですけど、死ぬ奴が一方的にそう思ってるだけだとしたら、図々しいにも程があるかと。それと、夫と妻との境が曖昧になる理由が薄いですね。普通は記録するなら自分の記憶力だけじゃなくて、それこそ紙たるノートやら、今なら電子メモなんかを用いますから。"人は紙とペンである"という前提だけに頼るのは弱いかと」

「手厳しいなぁ……」


 先輩は顎に手を当て、視線を落とした。考え事をする時の、いつもの仕草だ。



 初めて先輩に作品を見せられた時、当たり障りのない感想を言った。緩く褒めて一切貶さなかったのだが、それなのに何故だか不満げな顔をしたので、その場で改めて本音をぶちまけた。

 俺は素人で、専門家じゃない。だが素人なりにも好き嫌いは言える。書いた人の思いや考えなど知らずに、自分の価値観だけに沿って好き放題に言える。その時の俺もそうした。だって煩わしかったから。

 だが、先輩は嫌な顔ひとつしなかった。どころか「次も、その次も君に見せに来る」とまで宣言し、ひとり歩き去っていったのだった。

 あの日の後ろ姿は、今もなお覚えている。


 先輩はふと、顔を上げた。しかし視線は天上を見上げている。何か思いついた時にする仕草。この後には良い改善案やら悪い思いつきやら、今まで様々なアイデアを提示してきた。だが今回、俺の方へと向き直ったその顔には、「こんなの思いついたんだけど、どうだろう」という、反応を待ちわびるいつもの笑顔はない。何か神妙な、不安げな、硬直した顔持ちで俺の目を見て問うた。


「もしも私が死んだなら、君はどうするの?」


 アイデアではない。質問だった。

 この顔には見覚えがある。子供の頃、"死んだらどうなるんだろう"という答えのない疑問を前にして不安になった事があった。その時に鏡で見た自分の顔だ。死んだらこの顔はどうなってしまうのだろう。家族は? 学校は? 世界は?

 親はその時、俺に何と言っただろうか。覚えていない。

 ただ、先輩に対しては、そんなガキに言って聞かせる子供騙しの気休めなど必要ないだろう。今まで通り、思った事をそのまま言ってやればいい。それが先輩に求められている俺の役割だ。先輩の瞳から目を逸らさぬまま、すぅと一度息を吸って、答えた。


「そんな悲しい事言わんでください」


 この言葉以外、何も思い浮かばなかった。何もだ。

 人が死んだら、やる事なんて大体は決まっている。それに沿って何をするかを、俺と先輩にあてはめればいいだけの事。

 なのに、その初歩たる"先輩の死"の段階で受け入れられない。その先を考える事を拒んでいる。

 誰が? 俺が。

 俺が? 俺が。

 なるほど。

 無理もない。


 先輩の顔が赤くなっていく。だが、不安げな影は消えて、口が引きつって妙な笑みを浮かべている。視線を落として、右手で髪の毛を弄りながら、もごもごした口調で聞き取り辛い声を発した。


「ちょ、ちょっとその返しは、ずるいんじゃないかな……」

「誰かに遺してもらおうだなんて甘ったれた考えは捨てて、己の実力で刻み込んでください。それができるようになるのは、いつの事になるやら知りませんけど」

「辛辣な物言い! 君の本心はどっちなんだい!」


 相反する発言ではなかった筈だ。

 どちらもが俺の本心だ。俺以外の誰かに遺そうとするのは、そりゃあもっと努力しない事にはね。


「紙もインクも有限ですから、もたついてる暇はないって事ですよ」


 その言葉に、先輩の顔が引き締まる。若干だけど。目的を新たにしたのだろう、いつも俺に作品を見せに来る時と同じ顔だ。最早見慣れた顔だけど、何度見ても見飽きない。ついついこちらも胸躍りそうになってしまう、そんな顔。


「なるほどね……その発言、挑戦と受け取った! 私が卒業するまでに、君という紙の裏表の隅々まで、私のペン書きで埋め尽くしてやる! 覚悟しておくんだな!」

「そして俺は境界を見失い、我を忘れて書き込まれた先輩と混ざりあった別人に変貌するんですね」

「…………酷ぇ話だなそれは」


 あなたの考えた話のオチですよ、それ。

 俺が笑うと、先輩も笑った。

 そんなたわいもない今日の出来事は、いつも通り、俺の紙へと刻まれた。

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