私の読者

桜森湧水

第1話

 空白の原稿用紙を埋めていく。

 

 右手には万年筆。


 二十歳の誕生日に彼女からプレゼントされた。


 彼女は私が小説を書く音が好きなのだ。


 だから私はずっと使い続けるだろう。


 彼女がそばにいてくれる限り。


 ペン先を何度も変えながら。





「よし! 書けたぞ!」


 私の大きな声に、妻はハッとしてイヤホンを外した。

 ラジオ放送が彼女の楽しみだ。

 執筆中は私の気が散らないようにイヤホンで聴いている。


「おつかれさまでした」


 妻は微笑む。

 朗らかな表情からは期待が感じられた。

 今回のは自信作だ。

 きっと彼女も楽しんでくれるだろう。


「ありがとう。さっそく聴くかい?」

「ぜひ、と言いたいところですが、私、お腹が空きました」


 気付けば外は茜色に染まっていた。

 時計の針は5時を回っている。


「もうこんな時間か。先に晩飯の支度をするか」


 私は立ち上がり、妻と共に台所へ向かった。





 妻は私にとって唯一のだ。


 作品なんて呼べる大層なものではないが、私は短編小説を書く。


 初めて妻に披露した頃は、まだ付き合ってもいなかった。

 小説のことをうっかり口にすると、彼女は聞かせて欲しいとせがんだ。

 仕方なく原稿を読み上げる間、彼女は目を閉じていた。

 まるで、物語の風景を思い浮かべるかのように。


「とっても素敵です!」


 にんまりとほほ笑んだ。

 子供みたいだ。

 その日から、彼女は私のたったひとりのファンになった。





 彼女との出会いをきっかけに、私の作品作りの方法は大きく変化した。

 それまでは誰かに読んでもらうことなんて気にしていなかった。

 だが、彼女に読み聞かせることが習慣化すると、そうは言っていられない。


 どんな物語を綴り、どんな世界を表現すれば彼女が楽しんでくれるか。


 それこそが私の作品作りの根幹となった。





 毎日、原稿用紙10枚程度の短編を書いた。

 仕事の日も、休みの日も必ずひとつは仕上げた。

 そうして、夕暮れか夜に妻に語り聞かせた。


 彼女は必ず、私の作品の良いところをひとつ挙げる。

 悪いところは言わない。

 非常に気に入った時だけ、興奮した様子であれこれ感想を述べる。


 喜んで感想を言いたくなるような作品を書いてやろうと奮起した。





 何年もそんな生活を続けていたある日、甥っ子の結婚式に呼ばれた。

 そこで、彼が出版社に勤めていることを知った。

 私は大して興味を惹かれなかったが、同席していた妻が私の作品を売り込んだ。

 それがきっかけとなり、私は短編集を出版することになった。


 まさかの書籍作家デビューだ。


 書き貯めてきた大量の作品の中から、オチやどんでん返しの効いた妻好みの作品がピックアップされた。

 本が仕上がるまではずいぶん時間がかかったが、妻は毎日楽しみだったようだ。


 ようやく出版されると、「本屋さんに行きましょう」と誘いだされた。

 新刊のコーナーに私の短編集はあった。


 枯れ葉のような色合いの渋い装丁は、甥っ子曰く、「香嵐渓の紅葉をイメージした」のだそうだ。

 表題のとなりには、彼と妻が相談して決めたペンネームがあった。

 ペンネームなど、私にはどうだっていいのだ。

 自分の本、という感覚が全くしない。


 なんだか居心地が悪いので帰りたいと思った時、妻が隣の客に話しかけ始めた。

 少年だ。まだ中学生くらいだろうか。


「ねぇ、もし良かったらこの本を読まない? とっても面白いのよ」


 なんと妻は営業を始めた。

 手に取っていた本を勧めたのだ。

 これには流石の私も大慌てで止めた。


「突然、すまないね。びっくりしただろう」

「あ、はい。いえ……」

「その本はね。この人が書いたのよ」

「こら、やめなさい」


 私は少年に頭を下げ、逃げるように書店を後にした。





 幸か不幸か、短編集は悪くない売り上げだったらしい。

 甥っ子が電話をかけてきた。

 ずいぶん興奮していた。


「無名の新人の短編集が売れるなんて異例ですよ!」


 私を煽てた後、編集長に売り込んだ手柄を自慢し、最後に「長編を書いてみませんか?」と尋ねてきた。


 長年、短編小説を書いて来たが、長編を書き上げたことはおろか、書こうと思ったことすらなかった。


 何故なら、私の短編はだからだ。


 妻は目が見えない。


 彼女にとっての、日々のささやかな楽しみ。


 それが私の作品の存在意義だった。






「書いてみたらいいじゃないですか」


 妻は言った。


「長編を書きながら、毎日短編を仕上げるのは無理だよ」


「別に毎日書かなくてもいいんですよ。書いてくれたら私は一番に読みますけどね。でも、せっかくのチャンスなんだから新しいことに挑戦してみては?」


「この歳で新しいことに挑戦かぁ……」


「何を臆病風に吹かれているんですか。これまでだって連作短編は書いてきたんですからね。なんとかなりますよ」


「簡単に言ってくれるなよぉ」




 結局、妻に押し切られるようにして、私は長編に着手した。


 執筆は難航した。


 短編と長編を書くことはまるで違うのだと思い知らされた。

 何度も担当の編集者と打ち合わせをし、甥っ子にも相談に乗ってもらった。


 だが、妻は内容を知ることを頑なに拒んだ。

 ラジオ放送や落語を楽しんでいた。




 短編の読み聞かせをする習慣が途絶えてずいぶん経った。

 短編集の出版から一年近く経つ頃、ようやく決定稿が仕上がった。

 私と妻の半生を脚色したコミカルな大衆小説だ。

 出版に当たって、私はひとつ我儘を言った。


 オーディオブック版も制作して欲しい、と。


 作品の内容と合っていると、制作が決まった。

 キャスティングは出版社に任せた。

 妻に報告すると、とても喜んでくれた。


 


 しばらくして、完成した本が送られてきた。


 表紙には、柔らかいタッチで描かれた主人公とヒロインの姿。

 表題のとなりにはペンネーム。

 2冊目を手にしてようやく、自分の作品が世に出ていると実感できた。


「どんな感じですか?」


「とてもいいよ。優しい気持ちになる表紙だ」


「そう。それは良かったですね。じゃあ、サインしてください」


「サイン?」


「そうですよ。最初のだもの。特別なサインをしてください」


 妻からもらった万年筆を取り、真新しい本を開いた。

 感謝の気持ちを綴ろう。

 筆の音が止むと、妻は昔と変わらず、にんまりと微笑んだ。




「さあて、一年も待たされました。また、あなたの物語を聞かせてください」


 私はゆっくりと、本を読み、彼女に聞かせる。

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