紙とペンと焦げた指

木船田ヒロマル

先輩の部屋に残っていたもの

「分かってくれとは言わない。


 でも、こういうことだったんだ、という言い訳というか、説明というか、何か後始末みたいなものは残して置きたいんだ。



 初めは『匂い』だった。


 いつものようにクソ怒られて、コンビニの弁当とペットボトルの烏龍茶を持って帰って、溜息を吐きながらアパートのドアを開けた時、ふわっと臭った。その、煙のような匂いが。最初は、隣の奴が変な香水にでも凝りだしたのか、下の爺さんが蚊取り線香でも炊いてるのか、単に疲れてるのか、と気にしなかった。

 俺は泥のように疲れていたし、他人のもののような身体を狭い風呂で洗って、観てもいないバラエティをテレビに映したままモソモソと出来合いの弁当を食べ、横たわって寝るのが精一杯だったからだ。


 翌日もクソ怒られた。

 重元。あのブレブレクソ上司。言ったことがクルクル変わるんだから指示通りになんかできる訳がない。全ての分岐が怒られに向かっていると分かっていながら、上司なもんだから無視もできない。


 またボロボロになって、吐きそうになりながら帰って来て、ドアを開けると同じ煙のような匂いがした。また隣の奴か、下の爺さんか。どっかの不良物件グループみたいに、天井裏で部屋が繋がってんのか?


 部屋を見回すと気になる事があった。

 出しっ放しだったはずの弁当のゴミが綺麗に片付けられ、飲みかけだったペットボトルの烏龍茶が冷蔵庫に収まっている。昨日はクタクタで、テーブルの上にそのままにして倒れるように寝たように思ったが、無意識に片付けていたのだろうか。


 鉛のように重たい曇り空。息をしても空気が薄い。ドアを一歩踏み出してすぐ思わず『帰りたい』と呟く。

 重元が受付の早瀬と不倫してると噂になってるそうだ。何を今更。早瀬が弁当持って重元の部屋に行くのを俺は何度も見ていたし、重元の車の助手席に早瀬が乗って何処かに行っていたって話は半年も前に部内の共通認識だったろ。死ねクズ。


 家に帰るとまた煙の匂い。

 いや、これは『お香』だとその日初めて気づいた。フレグランスや虫除けじゃない。近所の家に仏壇でもあるのか、確かに仏前の線香の匂いだった。

 何日も流し台に放置してあったコーヒーカップが洗われていて、ポタリポタリと垂れていた水道の蛇口もきっちり締められていた。

 無意識に洗った? いや、そんなはずはない。戸締りを確認したが、何処かが開いているようなことはなく、盗られたようなものもない。そもそも、盗られる貴重品なんてないんだけどな。こっそり侵入して、家事をしてくれる泥棒なんて、聞いたことがない。


 駅までの道で吐く。ハンカチで口を拭って、そのハンカチは駅のゴミ箱に捨てた。

 受付では早瀬がキラキラ笑顔で挨拶していて、また吐きそうになった。

 クソクソクソクソクソ死ね死ね死ね死ね死ね。


 帰って来て入る前に施錠を確認したが、やはりドアはきちんと鍵が掛かっている。

 また線香の匂い。

 今度は、部屋の雑誌が纏められて、簡単に掃除がされていた。

 窓にもベランダにも鍵が掛かっていたし、クロゼットや天袋を開けてみたが、誰かが潜んでいるようなことはなかった。

 冷静に考えれば、気味悪がって然るべきところなんだろうが、俺はまあクタクタに疲れていたし、半分どうでもいいような気持ちで、半分なんかありがとうみたいな気持ちで、そのままにしてその日は寝た。


 雨。濡れた靴下が気持ち悪い。早瀬の挨拶も。目の前でパクパク口を動かして馬鹿にしたような笑いを浮かべる重元も。いつまで続くんだろうこんなこと。早く終われ。早く。


 長い長い長い一日が終わり、帰って来てアパートの前まで来た時、俺は一つ実験を思いついた。


 足音を消し、スパイのようにそーっと階段を上がって、音を立てないよう慎重にドアの鍵を回し、素早くドアを開けた。


 暗い部屋の中、『何か』が驚いたような素振りで振り返り、ほどけるように闇に消えた。俺は、ドアを開けた姿勢のまま、息を呑んで固まった。姿ははっきりとは見えなかったが、女だ、と思った。ふわっ、と線香の匂いがした。


 

 朝。クソ。こいつ死なねーかな。だけの一日。


 俺は花を一輪買って帰った。

 アレは人ではないだろうが、こんな俺の部屋を片付けてくれたし、なのに昨日はちょっとした思い付きから驚かしてしまったから、お礼とお詫びのつもりだった。

 しかし、まだ居てくれてるだろうか。昨日の実験で驚いて、去ってしまってないだろうか。


 自分の部屋だが、入る前にノックする。

 部屋に入ると、微かに線香の匂い。俺はほっとした。


 ──あの


 俺は誰もいないはずの部屋に話しかけた


 ──昨日は、ごめん。部屋、片付けてくれてありがとう。これは……お詫びとお礼。


 花屋の店員に勧められるままに買ったブバリアだかバブリアだかって名前の白い花の一房を、俺は背の高いコップに活けて、テーブルの真ん中に置いた。

 線香の匂いが、少し強くなったように感じた。



 エグゼマネが来て重元を褒めて行った。俺からみたら人としてクズなのに、上のモンの評価はいい。奥さんが鬱病だという。そうだろうなコイツと暮らしたりしたら。早瀬もわかれや。次に鬱病になるんお前やぞ。


 ドアを開けると線香の匂い。

 俺はこの部屋で一人暮らしし始めてから初めて『ただいま』と言った。


 翌日。俺何日連続で勤務中に休憩取ってねえだろうな。部下に休憩取らさないのは違法だぞ犯罪者野郎。違法な管理しか出来ない無能人間の分際で偉そうに説教垂れてんじゃねえ不倫クズ男が。


 家に帰って、ただいまを言って、線香の匂いに包まれて夕食を食べることを楽しみにしている自分を意識した。

 夜中に悪夢を見て泣きながら目覚めた。

 電話に出たら、誰かが怒って喚いている。俺は謝るが、その誰かは怒るばかり。その内、電話の音はあちこちから鳴り始めて、そのどれが怒声と罵りを俺に投げつけて──。


 真っ暗な部屋で目覚めると、涙を流していた。

 線香の匂いがする。


 ──なあ。


 俺は、彼女に話し掛けてみた。


 ──なあ、そこに居るのか?


 ぴしっ、と木が軋むような音がして線香の匂いが強くなった。

 

 ──もっと、近くにいてくれ。


 俺は匂いが強く香る方に手を伸ばし、その匂いを胸いっぱいに吸い込んで、眠りについた。眠りに落ちる直前、伸ばした手に自然じゃない空気の流れみたいなものが巻き付いたように感じた。


 出勤。入り口で重元と早瀬が談笑していた。俺は挨拶したが無視された。ああ、俺だってあんたたちの声なんて聞きたくないし、顔だって見たくねえ。説教。嫌味。正解なんてない質問。こいつマジで死なねーかなという思い。会社のトイレで吐いた。もう嫌だ。もう……嫌だ。


 俺は決心した。


 俺は彼女の所に行く。


 彼女が何か、彼女の所に行ったらどうなるのか、正直分からん。


 でも、そうしたいんだ。

 もしかしたら、今より苦しい目に、長い時間会い続けるようなことになるかも知れない。


 彼女だって、今は優しくしてるだけで、悪魔のような何かかも知れない。


 でも、いいんだ。それでも。

 今より。ここより。


 だからさよならだ。


 世間は、俺がおかしくなって失踪したと扱うかもしれん。まあ、彼女と一緒になったあとに、他の奴がどう思おうが、俺のことがどう扱われようが、俺は全然構わない。


 つまり、そういうことだ。

 取り憑かれて狂を発した?

 そうかもな。

 けど俺は、俺を救ってくれる、俺を分かってくれる彼女とずっと一緒にいたい。

 その為なら、どんな対価も惜しくない。


 分かってくれとは言わない。


 でも、こういうことだったんだ、という言い訳というか、説明というか、何か後始末みたいなものは残して置きたいんだ。


 下手な文章で済まない。


 迷惑掛けるかも知れないが、許してくれ」


 と、書かれた紙と、ペンと、焦げた指。


 


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紙とペンと焦げた指 木船田ヒロマル @hiromaru712

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