第一部

1‐1

 埼玉県川口市。人口およそ六十万人のこの街は荒川を隔てて東京都と隣接するベッドタウンだ。

川口市内の小学校に通う明智あけちれいの家はJR川口駅からほど近い住宅街にある。


 3月22日土曜日。春の日差しが気持ちのいい午後を伶は妹の舞と一緒に川口駅前のファミレスで暇を持て余していた。


「ねぇねぇお兄ちゃん、こっちとこっち、舞が着るならどっちがいい?」


舞はここに立ち寄る前に本屋で購入した女児向けファッション誌のページを伶に見せて、水色のワンピースと赤色のワンピースを指差した。

伶は携帯型ゲーム機でゲームをしながら妹が見せてきた雑誌を一瞥する。


『どっちでもいいんじゃない?』

「よくないよぉ! いっちばん可愛くて目立つお洋服にしなさいっていつもママが言ってるもん」


“ママ”の単語に伶の眉が上がる。あんな女はお前の母親じゃない……何度も口から出かけた言葉を炭酸の抜けたコーラと共に飲み込んだ。


明日はあの女が舞を連れて東京まで買い物に行くらしい。もちろん伶は一緒には行かない。

あの女にとっては舞は自分の思い通りになる着せ替え人形でしかない。あの女が舞を心の底から愛しているとは伶には到底思えなかった。


「帰ろうよぉ。ここにいるのもうヤダ」


 二人がファミレスに入ってから1時間弱。伶の腕時計の針はまだ午後4時を過ぎたところだ。


『まだダメ』

「なんでぇ?」

『まだ早いんだよ』


 何がとは言えなかった。言いたくなかった。それは4月に小学5年生になる伶が抱えるにはあまりにも重すぎるもの。


 駄々をこねる妹をなだめてその後もファミレスに居座り続けたが、20分が限度だった。

今日は舞が楽しみにしている少女アニメ、フラワープリンセスの放送日。放送時間の5時までに家に帰りたいと懇願する舞に根負けして、伶は重い腰を上げた。


 舞と手を繋いで家路を歩く。伶の通う小学校前の前を通り、脇道に入ると見えてきたのは白色の壁に覆われた二階建ての四角い家。

ここが伶と舞の家だ。もっとも、家だと思っているのは舞だけで、伶はここを牢獄だと感じていた。


玄関の扉を開けた途端に彼は帰って来たことを後悔した。やはり、まだ早かった。

二階から女の声が漏れている。普段の生活では聞くことのない、甘ったるくて甲高い声。人間が発情している時の声。


『……舞、こっち』


伶は舞を抱き抱えて階段を上がり、彼女を自分の部屋に押し込んだ。自室のテレビをつけ、テレビと接続させたヘッドホンを舞につけてやる。

舞は伶の挙動に首を傾げていたが、フラワープリンセスのオープニングが始まるとすぐにアニメの世界に夢中になった。


 あんな汚らわしい人間の声を舞には聞かせたくない。せめてアニメが終わるまでに事が“終われば”いいのだが。


伶はベッドに寝そべって目を閉じた。この部屋にいてもかすかに聞こえてくる女の声が耳にまとわりついて離れない。

彼は下半身の膨らみを必死で抑えつけた。舞のいる前ではダメだ。絶対に。


 時計の針が5時10分になった頃、ようやく声が静まった。

舞にはフラワープリンセスが終わった後もそのまま5時30分から始まった少年サッカーアニメを観せておいて、伶は飲み物を取りに階下に降りた。

冷蔵庫から自分と舞の分のジュースの缶を二つ取って二階に上がろうとした時、彼は二階に繋がる螺旋階段を降りてきた人物と鉢合わせした。


 階段を降りて来たのは黒髪のボブヘアの若い女。ひじきのようなバサバサとした睫毛の奥の瞳が伶を捉えると、天ぷらを食べた後みたいなテカテカした唇がニッと上がった。


「また会ったね」

『……どうも』


伶は軽く頭を下げた。


 父親がこの女を連れて帰宅した時、伶はリビングにいた。舞は二階でピアノの練習をしていたから家を訪れた女の存在を知らない。

この女を伶は前にも見たことがある。学校の帰り道に父の運転する車からこの女が降りてくるのを伶は見ていた。父親とこの女が唇を接触させていた瞬間も伶は目をそらさずに目撃していた。


「さっきまで家に居なかったけど、どこかに出掛けてたの?」

『妹と駅前まで……』


伶は言葉少なげに答える。舞をファミレスに連れ出したのはここで何が行われるか知っていたから。

これから父とこの女が家で何をするのか伶にはわかっていた。


「私のことお父さんから何か聞いてる?」

『別に何も。聞かなくてもお姉さんが父と何をしていたのかは知っています』


 ミニスカートから伸びる女の脚は肉付きがよく、ほどよく日に焼けた太ももが妙になまめかしい。ピッタリとした素材の薄手のニットからは胸の大きさや形がよくわかり、女の身体の生々しさに治まっていた下半身の膨らみがまた湧いてくる感覚があった。


「まだ小学生なのに大人っぽい話し方するんだね。名前、伶くんだったよね。何歳?」

『10歳ですけど』


自己紹介もしていないのに女は伶の名前を知っていた。おそらく、“あの男”に聞いたのだろうと伶は察する。

伶は下半身の膨らみを理性で必死に抑えつけた。


「君があと10年早く生まれてたらなぁ。絶対に私好みだったのに」

『は?』

「君が私より年上だったらよかったのにって話。またね。お邪魔しましたぁ」


 またね、と言った時に女の手が伶の頭に触れた。赤いマニキュアの塗られた手でいやらしく撫でられた髪を今すぐ洗いたい衝動に駆られる。

女が去った後の玄関には安っぽい香水の匂いが漂っていた。


 汚い。汚らわしい。醜い。

伶はあらゆる罵詈雑言ばりぞうごんを心の中で吐き捨てて階段を駆け上がる。

部屋に戻った伶を迎えたのは妹の舞の天使のような微笑みだった。

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