兎小屋
神戸 茜
兎小屋
ぼくは小学校で飼われているウサギだ。
最近、うれしいことがあった。
それは、彼女が飼育委員になったこと。
彼女は、ぼくがこの小学校にやってきたその日からついこの間まで、昼休みを利用して飼育小屋の前に通ってくれていた。
目の荒い金網越しに、やりとりを続けてきた。
金網に寄りかかると、彼女が短い指を差し入れてぼくの被毛に触れた。
その彼女が、ついに飼育小屋にやってきた。
先週の月曜日のことだ。小屋の戸の前に立って、他の飼育委員の仕事を、メモを取りながら見学していた。
先輩ウサギの話では、4年生になったから委員会に入る権利を得たのだろうとかなんとか。
ウサギには人間の言葉は分からないけれど、何年か過ごせば、学校のだいたいの事情は把握できるらしい。
これからは当番で週に一回ウサギ小屋をたずねて来るだろうという見解だった。
今日は、彼女がたずねてくる予定の月曜日。
ぼくはワクワクしながら彼女を待っていた。すると、足音がひとり分、とん、とん、とんっと鳴って、戸がきしむ音がした。
顔を上げたけれど、兎小屋の戸は閉まったままだった。
先にお隣の鶏小屋に行ったようだ。
お隣に住んでいるニワトリのことを、ぼくたちウサギはあまり好きじゃない。
相容れない部分は多いけど、一番不愉快なところは、エサのにおいが強いこと。
ほとんどの飼育委員が、先に鶏小屋に行ってニワトリにエサをあげるから、ぼくたちウサギが自分のエサをもらうころには鼻が鈍感になっていて、何を食べているんだかわからない。
それはともかくとして、鶏小屋の掃除を終えた彼女はあっちの戸を閉めて、こっちの戸を開けて、部屋に入ってきた。
ぼくは立ち上がって、彼女をまっすぐに見つめた。
彼女はぼくに何か言った。
「ごはんはまだだよ。そうじが終わってからだよ。」
そして、ぼくに背を向けてそうじを始めた。
やっと二人の間から、金網が取り除かれたのに。なんで彼女はつれないんだろう。
ぼくは暗い気持ちになってじっとうずくまった。
しかし、すぐに光が射した。
「ほら、ごはんだよ。白い君はなかなか大きくならないね。」
彼女の声がして振り向くと、エサを乗せたてのひらをぼくに差し出している。
先輩ウサギたちには、銀色のお皿にまとめてエサを与えておいて、ぼくの分だけ特別に確保してくれている。
ぼくは彼女の膝に飛び乗って、エサを食べた。
「あー、スカートがよごれちゃう。」
人間の言葉は分からないけれど、彼女がぼくに話しかけてくれているのはわかる。せっかくの彼女の厚意に応えようと、いっしょうけんめいに食べたのであっという間に時間が過ぎた。
次の週も彼女はぼくにだけ特別に、てのひらに乗せたエサを差し出した。喜んで飛び乗った彼女の膝の上にはタオルが敷いてあった。
前回はスカートの生地に爪を引っ掛けることができなくて足元が安定しなかった。優しい彼女はそのことに気づいてくれていたのだ。
ぼくは、普段は割と食が細いのである。しかし、彼女の膝の上ではいつもよりも食欲が増して、たくさん食べることができた。
次の週の昼休み、彼女の足音の後ろに、もうひとり分の足音がついてきた。彼女は誰を連れてきたのだろう。
待っていると、兎小屋の戸が開いて、おしゃべりをしながら彼女ともう1人が入ってきた。
「隅にいる白いウサギ。小さいでしょう。もう1歳になるのに。」
これは彼女の声だ。
「そうねえ。膝に乗るっていうのはかわいいけどねえ。」
なんて声だ!
彼女の友達の声は、キンと高くてドキドキした。ぼくは小屋の隅にうずくまったまま、彼女たちの次の行動を待った。
「ごはんだよ。」
彼女がいつものようにてのひらを差し出す。だけど、ぼくは緊張して、いつものようには振舞えなかった。
首を回して、てのひらのエサをまとめて数粒口に含むと、素早く前に向き直って小屋のふちのコンクリートの上にエサをいったん置いてから、一粒を口に含み直して咀嚼した。
もぐもぐしながら、ぼくは焦っていた。エサを取るために一回振り向いた視界の中に入った彼女の友達の、両方の耳の下に垂らしたツヤツヤの髪の毛が印象的だった。
ぼくは、黙ってエサを飲み込んだけれど、彼女の友達を見てしまうことが何故だか恥ずかしくって、動けなくなってしまった。
「今日は乗らないね。乗らなくていいから、食べてくれないかな。成長が遅れてるそうなんだ。」
彼女が優しく囁く声がする。
「私がいるから怖いのかなあ。今度は外から観察するねえ。」
彼女の友達がゆっくりと立ち上がった。
「うん。せっかく来たのに残念だったね。また来週見てね。」
僕の心の中で、彼女の友達の方を振り返りたい気持ちと、見るのが恥ずかしい気持ちが戦った。けれど、結局は、うずくまったままで動けずに、彼女の友達を背中で見送った。
友達が出て行った小屋の中で、彼女は沈んだ声で何か呟いた。
「大きくなるといいな。」
てのひらのエサを銀色のお皿に放り出して去ってしまった。
お皿にエサがぶつかる音が、かん、かんと冷たく響いた。
彼女は、ぼくの行動から気持ちを見抜いたのだろう。
次の週には、自分だけ兎小屋に入って、友達が小屋に入る事を許さなかった。膝に掛けたタオルの上でぼくにエサを与えることはやめなかった。
彼女の友達は、金網の外から彼女とぼくの様子を見ていた。
彼女が小屋の戸を閉めて去る一瞬、ぼくと友達から目が離れる隙に、ぼくはそっと金網に寄りかかった。
来年、彼女の友達が飼育委員になってくれることを期待して。
兎小屋 神戸 茜 @A_kanbe
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