シチュエーションラブコメ

あんどこいぢ

シチュエーションラブコメ

 二時間目に体育があった。ここ英正学園茜台高校には、未だシャワーなどという上等な設備はない。蒸し始めた五月半ば。いくらウェットティッシュで拭っても、肌のべたつきがおさまらなかった。

 だが彼女のクラスがある新校舎はまだいい。曲がりなりにもクーラーがあった。三年生六クラス、二年生四クラス、さらに商業科一クラスがある旧校舎にはそれさえないのだ。彼女の部活、文芸部は、その旧校舎の3Dの教室を放課後使っている。とにかく古い、オンボロ校舎だ。まだアスベストが使われているなどという噂もあった。

 彼女はそんな旧校舎を走り回る。

 文芸部の会誌に茜台詩人会、要するに詩を主にやる部から、寄稿があったのだ。その原稿を受け取りに3Aの教室へ……。また3Dに返り、今どき原稿用紙に書かれた詩をノートパソコンでテキストデータ化。とはいえ、彼女が少々焦っているのは?

「詩人会原稿、入力終わりましたーっ。あとはよろしくお願いしまーすっ」

 どこいくの? という声を背に、またまたオンボロな旧校舎を走る。3Aの先に小さな部屋がある。奥行きはそれなりにあるが、体感される広さは六畳程度だろうか。SF研というマイナーな部の部室なのだが、なんであんな部に常設の部室があるんだろうと、英正七不思議の一つになっている。何かと悪評がある部だ。勿論、荒れているとかなんだとかという話ではなく、部室のPCでエロ同人誌を作っているとか、数年前ある部員が、女子トイレを盗撮して退学になったとか……。

 その部屋の前。彼女は大きく息を吸い込む。赤いリボンタイをアクセントに、思いのほか豊かな胸が、メロンのように膨らむ。きりっとした眉。つぶらな瞳。そして少々生意気そうな鼻。唇と頬には割り合い肉が載っていたが、まあ美少女といっていい。だがその眉が微かに顰められる。ウェットティッシュの香料だけではない、甘酸っぱい汗のニオイがした。不安と逡巡。もう一度深呼吸。意を決しドアを押した。そして、溌溂としたソプラノ。

「こんちはーっ。コンターッ、いるーっ?」

 といった声が、疑問形もそこそこにやや尻すぼまりに消えた。

 奥の窓際の席に呼びかけた相手の背中が観えた。常設の部室なので、彼が向かっているのはデスクトップPCだ。紺野優太。彼女と同じ二年生。彼はこの美少女を振り返りもせず、

「なんだ、飯田さんか。こんちは」

 応じた。

 なんだ、飯田さんか──。さてそんな冷たい対応を受けた美少女だが、彼女の名は、飯田浩美という。その浩美の眼がキッと見開かれた。そりゃ怒るはといった状況だが、彼女が口にしたのは、それとはまた別な問題だ。

「やだ! この部屋なんか腐ってるよっ! 気づけよこのバカッ!」

 そういって部屋の中にずかずか踏み込む。否、突入する。

 コンタは振り向かない。とはいえ淡々と会話は続けた。

「洗面台の左側、普通石鹸なんか乗っける台に、コンビニのお握り、乗っかってんだろ? きっとそれだよ。海苔のあいだから見えるご飯が、黄色い餅みたいになっちゃってるんだ」

「あっ、ある……。でもなんで捨てないんだよ」

 浩美はちょっと石になったようすだ。コンタは引き続き、淡々──。

「いやもうなんか汁でてきちゃってて……。そこまで持ってくのだって大変だったんだぞ」

「ほおほお。それでなんで、あんたはこっち、向かないんだ?」

 浩美の声が低く重くなっていったが……。

「窓際で外の空気吸ってないと、やっぱ臭いんだよ。だから俺、さっきからトイレ、我慢してんだ。まあいい加減集中できないから、もうちょっとしたら息止めていくけどね」

 結果、コンタの顔面はPCのキーボードにめり込むことになった。

 以前にもこんなことがあった……。

 去年十月。学園祭の準備期間中だった。そして浩美はまだ一年生。

 この学校でも活字関係の部活は衰退の一途を辿っていて、文芸部、詩人会、それに加えてSF研は、以前から続く暗黙の了解に従い、互いに部員を融通し合っていた。でなければ最低部員数十名の入部届を、揃えることができなかったのだ。だがすでに毎年のように、SF研外しの話はでていた。

 文芸部も詩人会も少女たちの部だった。そこにSF研の黒い噂。まあそれはどうやら事実ではないようなのだが、当時の三年生が、二年前の学園際の合同発表に関し、こんな話をしてくれたことはあった。

「カズオ・イシグロ取り上げたんだけどさ、生命倫理に関わるデリケートな問題をこんなメロドラマ調の話しに乗っけるなんてとかって、連中終始ぐちぐちいい続けでさ。それがなぜかファシズムへの里程標だなんてことに、なっちゃうらしいんだよ、彼らン頭ン中じゃ」

 とはいえ学園際の日はどんどん近づいてくる。書類上部員が重なり合っているため、会誌の特大号の共同発行、会期中の教室での共同発表といった伝統は動かせないようだった。学校側の眼もある。

 ところがあまりにも前評判が悪かったため、案外普通の人たちじゃんといったレベルで、まず小さな感動があった。

「とにかく奴ら、前にでてこようとするから」

 などという注意もあったが、去年の学園祭の準備期間中は特にそんなことはなかった。コンタたち一年生も大人しかった。といってもコンタ以外は、藤本恒夫というパソコン好きの細身の子一人だけだったのだが……。因みにコンタは背が低いため、狸のようにころっとして見えた。二年生はゼロ。三年生は意外に多く、七人。部長の大学生のような髭剃り跡の男が、一年生二人を指差し、

「こいつらのことさえなけりゃ、もうお前らたァ手ェ切ったって良かったんだけどな」

 などといっていた。

 まず藤本がパワポのファイル作りで好感度を上げた。彼はSF好きというより常設の部室のデスクトップPC目当てで、会誌特大号の編集などでも大活躍だった。

 コンタはちょっと、特大号向けの小品が評判になった。小品と書いたが、四百字詰め原稿用紙換算四十枚の大作だった。そう。この学校のレベルでは、四十枚は大作なのだ。詩人会の副部長がいった。

「長さの割りに言葉が締まってんね。君、詩も書いてみたら?」

 翌日すぐに、彼は二十枚ほどの行分け作品を持ってきた。その内容はともかく、ワード二段組の書式の感じが良く、詩人会のお姉さんたちが、

「私の詩もこんな風にして」

 と殺到。特大号の編集を取り仕切っていた文芸部部長は少々不安顔で、

「えっ? 今から打ち直して間に合うかな? 空行だけじゃなく空隔とか、インデントとか、アステなんかの記号の位置とか──。詩の原稿って難しいよ」

 といったが、彼はまさに、そういうことにコダワル人だったのだ。版下? 袋綴じの高校の会誌でも、そんな言葉、使っていいだろうか?

(そういえば彼、私の原稿も丁寧にレイアウトしてくれてたな。一部ゴシックにしたとこなんかも、きっちり正確に……)

 などと浩美が思ったことが、彼女と彼との腐れ縁の始まりだった。

 その他SF研自体の好感度アップの理由としては、やはり常設の部室の存在が大きい。普通の教室を使った作業では、下校のたびに一旦、製作中の展示物を片づけなければならない。手狭な場所とはいえ、それがない点は便利だった。クラス展示の作業などと比べ、一年生の浩美は特に強くそう思った。上級生たちはどう思っていたのか?

 だがSF研の好感度アップも、そこまでだった。事件は学園祭の一週間ほど前に起きた。その便利な部室で……。誰の悲鳴だったか? とにかく男の濁声だった。

「げっ、ゴキブリッ」

「わっ、わわっ、こっちきたっ」

「きゃああああっ」(ただしこれも男の声)

 それからは上を下への大騒ぎ。展示物も大半が壊れた。

 そしてそのゴキブリを潰したのは、文芸部部長。さらにダメ押しの男の声。

「げっ、素手で潰したっ。こっちくんなっ。まず手ェ洗えっ、早く洗ってこいっ」

 浩美も今、ようやく手を洗いを終えたところだ。例のお握りを近くのトイレに流してきたのだ。幸いトイレは詰まらなかったが……。

(コンタ、もう帰っちゃったかな)

 などと思いつつSF研の部室に戻った。彼はもとの窓際の席に、ただし今度はこちらを向いて、まだ座っていた。一応ぼそぼそとありがとうといったようだ。

 浩美は手前の長テーブルの席についた。

「で? 一体なぜ、お握り腐るまで放置してたの?」

「藤本の奴が、買ってきたんだよ。間違って梅干し買っちゃったけど、俺梅干し嫌いだから、お前食えよ、とかって……。でも俺も梅干し嫌いだし……。梅干しには殺菌作用あるから、まだ食えるぞ、なんていって押しつけ合ってたんだけど、そのうちなんか、ほんとに腐ってきちゃって……」

 浩美はついつい自分の口を汚してしまう。

「けっ、まるで小学生だなっ」

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