1000本ノック
眞壁 暁大
第1話
「これは マジで ヤバい」
端末の画面に表示された文字列を読みながら少年はつぶやいた。
「ヤバいって、何が?」
少年の声に反応した少女が、肩越しに画面を覗き込む。近すぎる。
少女のどうということのない、特筆すべき点のない胸の柔らかさが少年の背に伝わる。
「……シチュエーションラブコメ?」
「そうだよまさに今のこの状況だよ人称視点までおかしくなっちまったよ、ホラ離れる!」
「えぇー」
不満気ながらも少女は俺の肩から離れた。VRとはいえ体に悪い刺激だ。
そう、VR。どこまでも本物くさくできているが、彼女は実体をもった人間ではない。いま俺がつけているVRデバイスを外してしまえば消えてしまう幻影。
「既にやってるだろ……なんでまたわざわざ」
「アンタが素振り真面目にやらないから課題が増えたんでしょ」
端末の画面を覆うように、少女が顔を突き出してくる。VRだと分かっていても大変、かわいい。
内心を見透かされるのを恐れて、俺は顔をそむけた。そむけた鼻先に彼女の髪の端から微かにとどく良い匂いも体に悪い。
「素振りなんてやんなくていいじゃん……選ばれるわけないんだしさ」
「そういうやる気のないこと言ってるから、アタシみたいなのが錬成されたんだよ? まあアタシにもちょっと手に負えない感じがするけどねアンタ」
「イヤ十分やられてるよ。既にラブコメじゃん、客観的に見て」
「ジャッジがそう見てないから課題が送られてきたんでしょ」
この手厳しさも俺の趣味に合わせて設定されたんだろうか? 何もかもジャッジに見透かされすぎな気がする。俺がどうということのない特筆すべき点のないおっぱいが大好きなのは、管理者権限でいろんなもんの購読履歴を覗けばわかるだろうが、ここまで好みに仕立て上げられると逆に萎える。
VRとはいえ、好みに完全に一致してる少女に憎からず思われて気分が悪いわけがない。悪いわけではないが、腑に落ちない。どうもしっくりこないので「課題」が積み上がるばかりで消化しきれずにいる。
「さっさと済ませちゃおうよ」
顔を背けた先に回り込み、少女が俺の目を覗き込んで言う。さっきよりずっと近い。髪が頬に触れる。
「ね?」
少女はどうということのない特筆すべき点のない自らのおっぱいに俺の手を導く。柔らかい。柔らかいが積極的すぎてこうじゃあないんだよなぁ!!
俺はかぶりをふって、触れかけた指先を引込める。
「イヤだからさ……こうじゃなくってさ。おかしいだろ?」
「おかしいって、何がおかしいの?」
「これが素振りだって決まってるのがおかしいんだよ! これクリアしたら、オマエ居なくなるじゃん!!」
ついに言ってしまった。
少女はきょとんとした顔をしていたが、すぐに満面の笑みを浮かべて笑いを抑えながら答えた。
「あー。なるほど。そうね、そういうことね。そっかー、うん、効いてないんじゃなくて……効きすぎてるって感じ?」
かわいいからなおさらイラッとするなこういうの。こうなるって分かってるから言いたくなかったんだよ。
「そうだよ、悪いか」
「悪くはないよ。ってかアタシもちょっと気分いいかな。そんなにアタシのこと好き?」
「好きだよ」
「アハハ、即答かぁ。正直だね、正直すぎて少し照れる」
少女の方から視線を外すのは初めてだった。頬っぺたが少しだけ赤くなっている。よく見ていなければ、それこそ毎日ずっと見つめているくらいでないと気づかないほどに微かな赤さ。
俺もさっきよりずっと動揺している。今まではずっとはぐらかしてきたが、そういえばはっきり伝えたのは今日が初めてだ。
VRの胸に触れた時よりもずっと激しい動悸がする。伝えてしまったことを少しだけ後悔する。
沈黙が下りる。俺の心臓が高鳴るのに合わせるかのように、少女の頬は赤みが増していく。
かわいいがまるで茹で蛸のように真っ赤になっていて、それはまた別の種類のかわいさなのかも、と思い始めた矢先に
『課題をクリアしました。次のステップへどうぞ』
人工音声が強引に俺たちを現実に引き戻した。VRの少女にはリセットがかけられ、表情が一変する。初期状態へ復帰。
俺は暴れ出したいのを堪えて、肚の中の炎を吐き出すように、盛大に溜息を吐いた。
しおらしくなった少女はどこかぎこちない笑みを浮かべて言う。
「それじゃ、次いこっか。何する?」
端末の画面からは「シチュエーションラブコメ」の文字は消えている。「※オーイエーシーハー※」ね。※禁則事項により隠語にて置き換え。
直球すぎんだろ。ふざけるなよクソったれ。盛大に空振りしてやるからな。
「ずっとずっと昔の話だ」
少女に膝枕してもらいながら、その顔を見上げながら俺は語り始める。
どうということのない特筆すべき点のない山と谷間に遮られて、顎だけは見えないが表情はよく見える。安堵しているようなそうでないような。
見覚えのない表情だった。それでもその底に好奇心が潜んでいるのに気づいて、俺は続ける。
ずっとずっと前には、人間というのは今のような有様ではなかった。
信じられない話だが、男と女がこの宇宙の、銀河系の彼岸と此岸に別れて暮らすようなことはなかったのだと言う。
男も女も、おなじ宇宙で共に生きていたのだと。
いつ別れたのかは分からない。ただ別れた後も(機械の力を借りながらではあったが)男は男で、女は女で生き続けた。
それでも、別れて生きるのは不自然なかたちであり、ふたたび共に生きなければならないという見解では男女ともに一致していた。
銀河の彼岸と此岸、すなわち男と女、その間に横たわる銀河中心部のブラックホール。それを取り巻く膠着円盤。
一年に一度だけ、そこに通路を啓く。
彼岸と此岸とがともに日に合わせて両岸から穴を穿ち、一年分のありったけのエネルギーでたった一日だけその通路を保持する。
そこで共に選び抜かれた、たった一人の男とたった一人の女とが出会い、結ばれることが、男女双方の悲願だった。
人間が自然生殖を失ってどれほどの歳月が経ったのか……その復活を目指してもうずっと挑戦が続いている。
「素振りもその一環ってことだ」
「初めて聞いた」
「だろうな」
呟く少女の唇、その上端だけが覗けた。少しだけ動揺しているようだった。
VRで錬成された疑似人格の異性と何人も付き合うことで、男として、または女として、より好ましい振る舞いをするように訓練する。
そうしてもっとも好ましい男(女)を選抜して通路に送り込めば、即座に結ばれるに違いない、というのが男と女、そしてその社会を維持する人工知能集合体であるジャッジの判断だった。もっとも、いまだに成立したカップルはただの一つもないが、男も女もジャッジも、まだまだ挑戦が足りないだけと思っているらしい。
俺も、いま膝枕している少女も、人類の自然生殖の復活という目的のためならばやむを得ない犠牲だ。有象無象の男女と、そしてVR人格。それらの試行錯誤の積み重ねの果てに自然生殖を再開できるのなら、それは意味のある痛みである。
そういう、建前だ。
「ぜんぜん知らなかった」
「前もってそういう知識とか与える必要ないからな。どうせ……悪い」
「うぅん」
どうせ素振りなんだから、終わったら別れるんだから、と続けるつもりだったが、泣きそうな少女の顔に踏み止まる。謝る俺に彼女は首を横に振った。
無神経過ぎた。俺は素振りなんだから次があるが、彼女はそうではない。
膝枕の太もも、その傍に所在無げに投げ出されていた彼女の掌を握る。柔らかくて温かくて、細い。VRデバイスの見せている疑似的な幻影にすぎないにしても、あまりにリアルだった。握る力を少し弱めてみれば、小さく震えているのが伝わってくる。もう一度握ると、少女も細く華奢な指で握り返してきた。
「だから、こっから先はなし」
「いいの?」
「いいの。課題全部クリアしたら会えなくなるんだから。俺はそんなのイヤだね」
「アタシも……アタシはどうなんだろう?」
少女が目を伏せていたかと思うと、不思議そうな表情を浮かべる。かと思えばいきなり俺の頭を膝から下ろすと、向きなおって正座するように促す。
「さっきまではアンタに課題を全部やらせなきゃってずっと思ってたの。アタシが消えてもそうさせなきゃいけない、って。アタシが素振り用の人格だからそういう風に擦り込まれてたんだと思う。思うんだけど……?」
向かい合った俺の顔を両手で抱えながら、ベタベタと撫でまわす。
「思うんだけど、なんでかな。アタシもイヤだって思ってる。会えなくなるくらいなら、課題とか素振りとか、もうどうでもいいって。アタシおかしくなった?」
「俺に聞くなよ」
「うん、ゴメン。ゴメンだけどいいのかなこれ? おかしくなったらジャッジに消されたりしない?」
戸惑う少女が不穏当な言葉を口にする。口にしながらもなお俺の顔を撫でまわし続ける少女を抱き寄せて抱きしめた。
どうということのない特筆すべき点のないおっぱいが押し潰されるほどに強く。撫で回していた腕が止まる。
これもまたVR? かまうものか。
「おかしくなったのは俺だって一緒だ。消される時は俺も一緒に消してもらうよ」
「え、それはダメ、絶対ダメ」
「でもおまえが居なかったら生きてても意味ないし」
「ぇあ、と」
腕の中で少女の体温がグングン上がっているのが分かる。重ね合わせた胸と胸の奥の高鳴りが、ともに激しくなるのも分かる。
「アタシも、アンタが居なかったら生きてても意味ない」
『課題をクリアしました。次のステップへどうぞ』
人工音声が何か言っている。
――――何をクリアしたのか知らないが、彼女はまだ消えていない。胸の鼓動もなお、鳴りやむことなく響いている。
1000本ノック 眞壁 暁大 @afumai
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