はるよ、こい

矢口慧

第一話

 カチカチと、手にしたトングの先を合わせて、焼きたてのパンを威嚇しながら吉野よしの都巳さとみが遠い一点を見つめながら、呟いた。


「恋の始まりに適したパンって……ないかな」


 何を埒外な、と言いたいところだが、恋人が出来たばかりの級友ののろけ拝聴耐久六時間を終えた後では、思考回路もおかしくなる。


「あぁ……春だもんねぇ」


 私こと、正倉ただくら治世はるよの返答も、会話の文脈に関係なく滅裂だ。是か非で答えられる愚問だというのに、疲労の局地に陥った脳が結論を下すことを拒否している。重症だ。一刻も早く糖分を摂取しないと。そう思っているのに、ダイエットの五文字がなけなしの理性を支えている。


 いや、だってごめん、さっきカラオケでハニトー食べたから。追い菓子パンはどうかと思う、でも、みっしりとチャンクチョコの詰まったクロワッサン、美味しいんだよねぇ……と、都巳に負けじとトングを鳴らす。


「春はいいんだよ、恋だよ」


 呻くように、都巳はわっしとメロンパンを掴んだ。


「あれですか。朝の通学路でパンを咥えた相手とぶつかって始まる王道ですか」

「王道でもなんでもきっかけとして優秀なら、飛空船から落ちて来てくれても可」


 そんな風に、地味にアニメネタをぶちこんで来るから友達以上になれないんだよ、という忠言を飲み込んで、メロンパンの隣のあんぱんを取る。甘いけど。小豆ならなんだか許される気がする。


「まぁ、思ったより落ち込んでなくて良かった」


 都巳はついさっき、ド派手に失恋したのだ。六時間かけて。めっためたに。

 クラス替えの前に有志で思いっきり遊ぶ筈の集まりが交際発表会見になり、こっちも半日、おめでとーとかよかったねーを言い続けるのも辛いし、ラブソング縛りになったのもキツかった。心の闇に差し込む光を歌わせろ。

 ちなみに都巳は、進級しても同じクラスだったら告るという時間稼ぎ……もとい、願掛けをしていたが為の玉砕だった。他校のトンビに見事に憧れの油揚げ掠われたわけだ。


「キツいよ、だからこその恋だよ」


 正直、振り返ったり、足下を見たら泣きそうな気がする、と都巳は、バケットを一本、トングで縦に掴んですらりと籠から抜き取る、何それかっこいい。

 日本刀よろしく、焼き目を真顔で検分する都巳を置いて、保冷の必要な惣菜パンのコーナーに移動する。

 卵サンド、ハムサンド、カツサンドでもいいけど、カロリー的になぁ、と上の棚からじっくり選別するふりで、一番下の片隅に一つ残ったサンドイッチを、トングを使わずに、そっととりあげる。

 恋が始まるパンと言うなら、白い生クリームに甘いイチゴ、酸味の強いキウイ、懐かしい味のミカンのシロップ漬の並んだフルーツサンドしかない。


 高校進学して初めての授業で、お弁当を忘れた。

 隣の席だった都巳が、慣れない売店でようやくゲットしたお昼を半分こしてくれたのが、フルーツサンドだ。

 とても足りなくて、二人して腹の虫をぐぅぐぅ鳴らしながら午後の授業を受けた。


 適度にお馬鹿で優しくて、手を差し伸べる勇気を持ってる人を、好きになるには充分すぎる。

 それだけで、と、単純すぎると笑わば笑え、その翌日に都巳の片思いが始まったのを見守り続けた。

 こちとら。

 一年掛けて、丁寧に、丁寧に、砕かれ続けた恋心が、息を吹き返したところなのだ。

 どきどきしてる、どう言えば良い、どう接したら良い。このまま、伝えないままでも友達のまま、ずっと一緒にいられるかもしれないけれど。

 隠し続けた分だけ深く張った根が、新しい花を咲かせるかどうかの瀬戸際を、逃すようでは私が廃る。


「都巳、これ覚えてる?」


 声をかければ、少し見下ろす角度に首を傾げて振り返る。

 当時は同じくらいの身長だったのに、何時の間にか追い抜かされた。

 覚えてるだろうか、忘れただろうか。


 どちらでもいい、どうでもいい。


 あの子みたいにきれいじゃないし、明るくも優れてもないけれど。私は、自分が泣く覚悟を決めた上で、彼の片恋の成就を望めるくらいの根性は、ある。

 息を吸い込む、そして吐き出す。


 だから、どうか。


 はるよ、こい。

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はるよ、こい 矢口慧 @hari-hokuto

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