月の皇子、地球の花嫁
寒夜 かおる
月の皇子、地球の花嫁
地球の未来は絶望的だった。おそらくこのままではいつか滅亡する。だからとりあえず一番近所のあの星に助けを求めてみた。
「お嫁さんくれるならいいよ」
と、いうわけだ。
地球の花嫁。
ちょっと月まで嫁に行ってくれ。
水面に浮かぶ月に飛び込んで、少し鼻が痛むのを我慢すればもうそこは月の都だった。
煌びやかな装飾が無いにも関わらず、どこか豪華で嫋やかな都。地球人と変わらぬ見た目の月人たちが溢れんばかりの笑みで花嫁を迎えた。地球人も月人もこれから結ばれる友好に祝杯をあげた。
ただふたり、月の皇子と地球の花嫁を除いては。
「くそッ撒かれた! 遠くには行ってない! 探せ探せ!」
「……近いな、騒ぐなよ地球人」
「命令するな月人め」
月の皇子は大変な美男子であった。
そもそも月の人は皆が見目麗しいのだが、皇子は体格にも恵まれ、無造作に結われた白銀の髪すらも豊かで艶やか。整った眉と常に流したような瞳が印象的な青年だ。
しかし悲しいことに趣味嗜好に恵まれなかった。人の歳で25を過ぎても、この皇子は女よりも狩りに夢中だったのだ。
「武器庫に隠された私の弓がお前の刀に穢されてないといいが……」
「その穢れ云々には聞き飽きた。
「うるさい地球のじゃじゃ馬め」
「じゃじゃ馬ではなく武者と呼べっ」
そんな彼のもとに地球から送られてきた花嫁は勇ましく由緒正しい武士の娘であった。彼女は自分のことを武士と称している。武家の娘らしく聞き分けの良い彼女は、花嫁になることを承知で月に来た。しかし皇子の失礼な態度に臍を曲げ、今では地球に帰ると毎日騒ぐ始末である。
皇子と異なり癖と量のある黒髪をたなびかせ、今は月の城を疾走していた。
「静かにしたまえ。また『仕置き部屋』にいれられてしまうぞ」
「ゔ……」
花嫁に興味がない皇子と、皇子に悪態をつく花嫁。ふたりの婚約は出会った瞬間にほぼ決裂した。
ーーーーはずだった。
「見つけ次第あの部屋にぶち込むぞ!」
「おおーー!」
薄い壁の向こうから兵士たちが士気を上げる声がする。
「恐ろしいことを……」
「お前にも怖いものがあるのか……ああ、そういえば女だったな、お前は」
「ッ、耳元でさえずるな。身の毛がよだつ」
地球側は星の未来を救う婚約を破棄するわけにはいかず。また月側も狩り狂いの皇子に嫁いでくれる予定の花嫁を無下にするわけにもいかず。
婚約がどちらの星にとっても良い結果をもたらすと確信した双方の代表は、ふたりを無理やり婚約させることにした。
その方法は酷く大雑把なもので、『仕置き部屋』に格納するというものだった。布団と風呂があり、甘い匂いが漂う怪しい仕置き部屋に。
「ギィィ……」
「うわ。何がどうしてそこまで不細工な声が出せる」
「寒気する……あの部屋のことを考えていたら急に叫びたくなった……」
「虫の真似かと」
「顔が良いからと調子に乗るなよ女男め」
「お前にはない煌めきだろう、この髪は」
「ふんっ、どうせもじゃもじゃだ、わしは」
初対面のあの日、中から叫べと叩けどビクともしない部屋にふたりは困り果てる。膀胱が限界になった頃、ついには互いの肩を組んで「婚約します……」と解放を懇願したのはふたりにとって忘れたい記憶だ。
以来、月の都では逃げ回るふたりだが名物となっている。幸いなことにふたりまとめて捕まったことはない。片方が捕まっても、もう片方が逃げ切るので部屋にふたり目が来ることはなかった。
花嫁はあの部屋のことを思い出すと気が狂いそうになる。独特な香と雰囲気に目が回って、何も考えられなくなるような……。女武者として勇猛果敢に潔く育った彼女にとっては初めての感覚で、本能的に恐ろしいと感じていた。
だからこそ、今日もまた捕まるわけにはいかない。彼女が逃げ回る際の兵との戦闘に使用していた愛刀は、今朝方唯一の安全地帯である自室から没収されていた。皇子が狩りに使う弓と同様に。
「とにかく武器だ。貴様と協力するなど、我が人生において汚点となること間違い無しなのだが」
「あ、じゃあいいです」
「よ、く、な、いっ。わしは……その、刀がないと……腰が心もとないのだ」
ふたりに一切進展がないことを憂いた地球と月はいよいよ手段を選ばなくなってきた。武器を没収する以外にも、意図的にふたりの入浴時間を被らせるなどやる事がえげつない。逃げ回る際に散々はっ倒してきた兵たちにも火がついて、今日捕まったら何だか色々と大事なものを失う雰囲気だ。
少しでも抵抗するためにはやはり武器が必要で、取り戻すために武器庫までふたり仲良く辿り着いたわけだが……。
「やはり協力などしなければよかった。こんな足手まといとは」
「足を引っ張ったのは貴様だろう! わしは後をついていっただけ、……むぐ!」
「シーーッ、馬鹿なのかお前はッ……大きな声を出すなッ」
「んぐぐ」
狭い隠し部屋。人ひとりがやっと入れるその部屋に、皇子と花嫁はいた。ちょうど武器庫の扉の真横に隠されたそこは本来は皇族の避難所として使われるスペースである。
後一歩で武器庫というところで追っ手に勘付かれそうになり、皇子が花嫁と共にこの部屋に転がり込んだという状況だ。
皇子の鳩尾に花嫁の胸がくっつかざるを得ない狭さのそこで、ふたりは息を潜めつつ好転の機会を待っている。しかしもともと相性の悪いふたりだ。口喧嘩が当然始まっていた。
「ぷはっ……こ、殺す気かっ」
「お前こそ胸元にこんなものを隠して私を殺す気か」
「ちょ、どこ触って……!」
狭い中でも皇子は全く見苦しくなく美しい所作で動く。対して花嫁は手に負えないイノシシの如く暴れ止まらない。皇子は先程から自分の鳩尾に当たる固いものの正体が知りたかった。
薄暗い視界の中で目当てのものを手探りで探す。小さな手に手首を掴まれる皇子だったが、思っていた以上に握力がなかったため鼻で笑う。そうして彼女が大事そうに胸に隠すものを奪い取った。
「短剣?」
「はぁっ、……は、貴様、……む、胸を……さわっ、」
「先ほどの平坦な野原のことか? 安心しろ。私の方がある」
「ギィィ」
花嫁は本日2回目の虫の声を出した。彼の手から短剣、正しくは短刀を取り返そうと腕を伸ばす。しかし圧倒的な身長差と、飛び跳ねることもできないこの狭さの中で彼女は無力だった。
「武器にしては装飾華美だ。何に使う?」
「貴様には関係ない、かえせっ」
「そう言われると返したくなくなるな」
皇子は壁に背中を預け、両手を軽く上にあげた。そして短剣を鞘から少しだけ抜く。鉄の鈍い光がこの部屋の中では太陽のようだった。
皇子が短刀の装飾に気を取られていると、自分の腹のあたりからぐすりぐすりと水音が聞こえる。不快な鼻をすする音も聞こえてきて、そこでようやく皇子は気がついた。
花嫁が泣いている。
「う、うぅう〜〜……」
「…………」
「ひっく、……ぐす、……ちくしょう……ちくしょう……」
「はは、」
異国どころか異星の地にひとり残され、初対面の男の嫁として毎日を翻弄されても、気丈に振る舞っていた花嫁が泣いている。本来ならばここで皇子がその姿に心を痛める展開だが、何分彼は狩り狂い。獲物が弱れば弱るほど心が躍る趣味嗜好だ。
「お前は泣く時まで勇ましいフリをするのだな」
「……母上が御守りにくださったものだ……ぐす、……ま、魔のものである貴様が触れていいものではないっ」
「ははーぁ、言ってくれるではないかぁ」
「ふぎゅ! は、はなしぇぇえ!」
「餅菓子のようだ。ふっふっふ」
「ッ、ううう、いんひつにゃおのこはきらいだっ! ひじわるばかいのきしゃまがだいきらいだ!!」
「まぁたそうやって喚く……」
「ひうう、ほほがいたいぃぃ」
「……少し懲らしめて差し上げようか」
皇子は強く引っ張っていた花嫁の頬を勢いよく離す。その痛みに花嫁が身を縮こめて耐えていると、今度は唐突に頬全体を大きな手で包まれた。指先以外がひんやりとしているため、驚いた花嫁が目を瞑る。しかし次の瞬間、今度は見開いた。
「っ、う……!?」
自由だった両の手で花嫁は男の体をグッと押す。そしてビクともしないことに恐怖を覚えた。幸い彼女の唇を襲った物体はすぐに離れていく。体は小さくとも嫁にいける年齢である。花嫁は柔らかな感触の正体を知っていて、暗闇の中でもはっきり分かるくらい顔を赤く染め上げた。
なにをする、と言おうとした口は、耳に入り込んできた男の指に狼狽し役割を果たさない。花嫁は何が何だか分からなくてまた涙が溢れてきた。
「……やっと静かになったな」
「……っ、……!」
「最初からそうしおらしくしていればいいものを」
「……ぁ、……う」
「何だ? もう一度をせがむか、我が花嫁よ」
「……や、」
「はい、そこまでー」
「うわ」
突然の光。人工的な光がふたりの視界を奪う。徐々に刺々しい明るさに慣れ焦点が合わさった先には、皇子に負けぬ美青年が立っていた。
「兄上……」
「絆を深めるなら用意された部屋で存分に楽しみなさい。それ以外では駄目。兵どもが混乱します」
「兵どもって、」
不機嫌そうな皇子の兄が花嫁の視線を促す。その先には頬を赤らめる兵士たちがいた。まあ、つまりなんだ、その。
「びーーーーッ!!!」
聞かれていた。
恥ずかしさから脱兎の如く何処かへと逃げていく花嫁。残された皇子はその走りっぷりを見て思わず笑ってしまった。
「弟よ。お前ね、花嫁を苛めて泣かせては駄目でしょう」
「花嫁ではないですよ。新しい獲物です」
「その変なスイッチ入れるのやめなさい」
「考えておきましょう」
生まれ持った
地球が救われるために、あの花嫁が皇子から放たれる矢で遊ばれるのかと思うと、彼の兄は少し申し訳なくなった。
何はともあれ、地球の未来は多分きっと月によって守られていくだろう。
ありがとう地球の花嫁。月の皇子とお幸せに。
月の皇子、地球の花嫁 寒夜 かおる @yo-sari
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