脱走ジジイの安斎さん
おぎおぎそ
脱走ジジイの安斎さん
「あら、また来たわよ、安斎さん」
「今週だけでもう五回目じゃないのよ」
安斎さんがナースステーションの前に来ると、私たち看護師は少しだけざわざわする。それは安斎さんが常連客になってしばらく経つ今になっても変わらない。
「安斎さ~ん、お部屋戻ってくださ~い」
私は一応、部屋の中から声を掛ける。
「嫌じゃ。病人が病院の中を散歩して何が悪い」
このスケベジジイが。お前が看護師たちをやらしい目で見てるの、気づいてないとでも思っているのか?
「安斎さん最近足腰の調子、良くないでしょ。無理しちゃダメですよ」
「だからこうやって椅子に座っておるのじゃろう。ワシも考えて散歩しておる」
じゃあ何で毎度毎度散歩コースが一緒で、毎度毎度ナースステーションの前に座るのかぜひお聞かせ願いたい。
「はぁ……。ちゃんと病室、戻ってくださいね」
「わかったわかった」
本当はきっちり病室に強制送還して二度と脱走しないように釘を刺さなければならないのだが、私にはそれが出来ない。何度も試したのだが、このジジイは一番若い七瀬さん以外には全く従おうとしないのだ。
もはやテンプレと化したやり取りを私が安斎さんとしている間に、既にナースステーションは落ち着きを取り戻していた。皆めいめいの仕事に戻っている。
安斎さんに目をやると、こちらはこちらで勝手に落ち着こうとしていた。
「安斎さん、ここ禁煙」
「おお。すまんすまん」
取り出しかけていたマールボロを懐にしまう安斎さん。肺がん患者のくせに一体どこで入手したのやら。おおかた勝手に脱走して買ってきたのだろうけど。買ってきてくれるような人、いなさそうだし。
安斎さんは、独り身だ。
若い頃に奥さんを亡くして以来、この歳まで独身を貫き続けたらしい。意外にも一途だ。
私が見る限り、子供もおらず親戚もいないらしい。だから安斎さんのもとには見舞い客がほとんどやってこない。時たま、昔の仕事仲間などが遊びに来てくれているみたいだけど、私自身がそれを目撃したのはせいぜい一度か二度くらいだ。それ以外の時はいつも、安斎さんは病室で寂しそうにしている。
「安斎さ――ん‼」
廊下の奥の方から、七瀬さんの声が響いてきた。どうやら安斎さん脱走の通報を受け、駆けつけてきたらしい。
「七瀬さん、声が大きいわよ」
「あっ、はい! すみません」
一応、先輩ナースとして注意しておく。まあ、大声を出したい気持ちはわかるけども。
「安斎さん! もう何回目だと思ってるんですか!」
「おう。若いの。元気にやっとるか」
「毎日毎日顔を合わせてるんだから大体わかるでしょ⁉ というか、元気じゃないのは安斎さん、あなたの方なんですよ! 病人としての自覚、あります⁉」
さっき注意したばかりなのに、どんどんヒートアップしていく七瀬さん。無理もない。
対して安斎さんは満面の笑みである。張り倒したい。
「ほら、安斎さん病室戻りますよ? 一緒についてってあげますから」
「おお。ちょうどワシも戻ろうと思っておった所じゃ。いやー気が合うのー」
「はぁ……。安斎さんそう言って、私が来るまで戻る気が起きないでしょ、いつも。私だって暇じゃないんですからね」
ほら行きますよ、と言って七瀬さんは安斎さんを連れて病室の方へ歩いていった。その横顔が二人とも楽しげに見えるのはなぜなんだろう。いつも不思議だ。
彼女はああ言っていたが、新米ナースの七瀬さんは実際忙しい。雑用はこなさなければいけないし、覚えることは山ほどある。先輩の私たちも、一応考えて仕事を割り振っているつもりだけど、それでも彼女にとっては日々目の回るような忙しさだと思う。
そんな中であのジジイの相手もしなければならないとなると、その負担は計り知れない。
それなのに、安斎さんの相手をしている時、彼女は一番生き生きして見える。謎だ。私ならあのジジイの大腿骨にひびを入れて二度と歩けない身体にしているだろうに。
廊下の端の方で角を曲がろうとしている二人の姿が見える。孫と祖父くらいの歳の差があるのに、その距離感はまるで夫婦のようだった。
お昼休み。私は意を決して七瀬さんに訊いてみた。
「ねえ、七瀬さん」
「はい?」
リスのようにもぐもぐとご飯を口に溜めこみながら七瀬さんが振り返る。
「どうして安斎さんの相手をしている時、あんなに楽しそうなの?」
「うあーふぉふぇふぁふぇふふぇ」
「飲みこんでからでいいわよ」
彼女がお茶で無理やりご飯を流し込むのを見守る。話しかけたタイミングが悪かったな。反省。
「それはですね」
ご飯が消えた口で、七瀬さんが今度ははきはきと語り始めた。
「こういう表現していいか分からないんですけど……。安斎さんって、その……末期、じゃないですか」
「あー……うん。そうね」
安斎さんの病状はあまり良くない。今もこうやって歩き回れているのが不思議なくらいだ。残された時間も、そう多くはないだろう。他のナースが安斎さんを無理に追い返そうとはしないのもつまりはそういうことだ。手を尽くしても、見込みは薄い。
「だから私なんかで喜んでもらえるなら、嬉しいなって。私、ナースになったばかりで患者さんにしてあげられることって少ないんですけど、それでも一日でも長く笑顔でいて欲しくて」
七瀬さんは続ける。
「それに、安斎さんってとても面白いじゃないですか! まあ、ちょっと手はかかりますけど。二人で話してると本当に楽しいんですよ? 安斎さん物知りだし冗談も上手だから、話に夢中になってつい仕事を忘れそうになっちゃいます」
タハハと笑う七瀬さん。その笑顔に嘘は無いように見えた。
「あら、今の看護主任に聞かれたら……」
「オフレコで! オフレコでお願いします!」
七瀬さんは慌ててシーッと指を唇に当てた。安斎さんも面白いけれど、七瀬さんも相当面白いと思う。面白いもの同士、馬が合うのかもしれない。
「ごめんね、七瀬さん。お昼の邪魔しちゃって」
「いえいえ! 全然です! あ、私皆さんの分のお茶汲んできますね」
お弁当をパタパタとたたみ、七瀬さんは給湯室の方へ消えていった。
翌日、性懲りも無く安斎さんはやってきた。ナースステーションは少しざわつく。
「安斎さん、お部屋戻ってください」
私は一応、声を掛ける。無駄なのは承知の上だ。
「むむむ、一つ提案があるのじゃが……」
いつもとは違い安斎さんが真剣な表情で声を掛けてきた。おや、と思いつい仕事の手が止まる。
「もういっそのことワシがナースステーションに入院すれば良いのではなかろうか。そうすればワシが散歩をすることも無くなるし、お主らも――」
「却下です」
何を言い出すのかと思えば。この人が口を開いてろくなもんが出てきたためしがない。というか、今しれっと認めたな? 散歩の目的がナースステーションであると認めたな、貴様。
「なんじゃい、ケチじゃのう」
ぶつぶつ呟きながら、安斎さんは廊下に設置された椅子に腰かける。……ケチとはなんだ、ケチとは。こちとら脱走に目をつぶってやってるんだ。むしろ器の広さに感謝してほしいくらいだ。
ふと昨日の七瀬さんの話を思いだす。どうせなら安斎さんにも、色々訊いてみようか。
「安斎さん」
「なんじゃい」
無愛想だなあ……。
「七瀬さんは確かに可愛いですけど、他にも美人な看護師はいっぱいいるじゃないですか。どうして七瀬さんの言うことしかきかないんですか?」
すると、安斎さんはやらしい顔で答える。
「なんじゃ。お主もワシに可愛がられたいのか。それならそうと素直になれば――」
「いえ。全然。全く」
「なんじゃい……つれないのぉ」
安斎さんは不満げに口をへの字に曲げた。
しばらく待っていると、そのへの字が逆さまになり始めた。今までに見たことの無いような、優しい顔つきになる。
「あの子はな……。似ておるのじゃよ」
「……似ている?」
「ああ。死んだワシの妻によく似ておるのじゃ」
安斎さんは、ゆっくりゆっくりと言葉を紡いでいく。どこか懐かしそうに目を細めながら。
「妻はの、明るくて世話焼きで、何かあるとすぐにワシを叱るのじゃ。そのくせ、次の瞬間にはまたケロッと笑顔になっておる。ふふっ、どうじゃ? 似ておるじゃろ?」
こんなに楽しそうな安斎さんを、私は初めて見た。
「それに顔もあの子によく似て美人じゃった。もちろん、妻の方がより美人じゃったがな」
ケラケラと笑う安斎さん。その笑顔は、もしかしたら七瀬さんの言う通り安斎さんはただの面白いおじいさんなのかもしれない、と私に思わせた。
「むむむ……。よく見るとお主もそれなりに美人じゃのう……。どうじゃ? ワシの部屋で遊んで行かんか?」
「謹んでお断り申し上げます」
やっぱダメだ。なんだこのくそジジイ。油断も隙もありゃしない。
「あ――‼ 安斎さん‼」
廊下の向こうから、七瀬さんの声が響いてきた。相変わらずの大音量だ。
「ダメじゃないですか! 私以外の人にちょっかいかけちゃ!」
七瀬さんはめっ! とばかりに腰に手を当てて安斎さんに顔を近づける。
「ほら、行きますよ! 安斎さん!」
「ちょうどワシも戻ろうとしていた所じゃ。奇遇じゃのう」
「はいはい。わかりましたから」
七瀬さんは安斎さんの手を引き、立ち上がらせる。
私は仕事に戻りつつ、そんな二人の背中を少しだけ見送った。
それから少し経ってのことだった。
安斎さんの名前がナースステーションの前で響かなくなったのは。
脱走ジジイの安斎さん おぎおぎそ @ogi-ogiso
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