夢幻より祈る

不知火白夜

ある「先生」の悩み

「思えば、二番目ですらなかったんだから」

「……何も無いオレには、二番目すら手が届かないものだったんだよ、先生」


 先生と呼ばれた男の前でツヴァイは煙のように消えた。それを呆然と見つめた男は、机に置かれた紙をパラパラと捲り、ペンスタンドにはめてあった羽根ペンを手にする。

 今日の日付に始まり、ツヴァイとのやりとりの詳細な内容や精神状態などを記し、過去の記録と見比べるが、大した改善が見られずに不甲斐なさを感じた。勿論、身体的な怪我とは違い目に見えてわかりやすいものではないことは理解しているが、未だ彼は『自分は何も出来ない人間だ』という考えに縛られているようだ。

 男はどうしたものと頭を抱え思わず呻き声を上げていた。


 ツヴァイがここに迷い込んだのは今回で七回目。もう知り合って随分経っており、彼からの信頼も得られているのではないかと思いつつある。しかし男はここに迷い込む彼の話を聞いているだけしかできない。直接彼の保護者と顔を合わせたこともない上に、そもそも彼の保護者に会う術がなかった。

 何故会う術がないのか? それを問われればこの男は、ツヴァイとは異なる世界に住む者だからである。


 奇妙な話ではあるが、この男、ブロカートが所有するこの『診療室』は、心に闇を抱えた子供が『迷い込む』空間だ。自らの意思で訪れるというよりは、本人が眠っている間に言葉通り迷い込む。

 時間帯も子供の人種も何もかもバラバラで、迷い込んだ子供は最初は一様に動揺し逃げ出そうともするが、ゆっくりと時間をかけて、子供たちの警戒を解いていく。信用を勝ち取るとは簡単ではないし、それのために『一回目』の時間を費やすこともあるが、子供たちのケアには重要だから不満なんてない。勿論、ツヴァイに関しても。

 だからこそ少しでも彼の心を癒したいのだがなかなか一筋縄ではいかない。

 そんなことをしてどうするのかと問われれば、ただ、主の夢を叶える手助けをしたいだけなのだ。

 ブロカートの主、フスターフは子供を愛する教師であり、恵まれぬ多くの子を救いたいと奔走し、その考えに賛同したブロカートはそれを補佐している。

 だからこそツヴァイの心も癒し少しでも考え方を替えて欲しいと思っている。時間はかかるだろうし、ブロカートが抱える子供は他にも多くいるが、それでも、彼をケアしたい気持ちは強い。

 それに彼の主なら絶対に見捨てず救おうとするだろう。だからこそブロカートも見捨てる訳には行かないのだが――

 はあ、と息を吐き背もたれに体重をかけ、天井を見上げる。こういう時先生としてどうすればいいのかが分からない。せめて主に一言相談だできればよかったのだが、悲しいかな主は現在仕事のため外出中であった。


「…………少し休憩しよ」


 体を起こし机に残されたカップに残る茶を一気に煽る。渋い味わいが口に広がって思わず眉間に皺が寄るが、飲み残すなんてせずにツヴァイの分も飲み干して苦いと零し、ブロカートはある思いつきから腰を上げた。

 書類を纏めて部屋の外へと足を踏み出すとそこに広がっていたのは風格ある屋敷の薄暗い廊下だ。

 青い瞳の色合いを僅かに変化させてじっと虚空を見つめて静かに足を動かす。高級そうな絨毯の上を徐に歩いて、辿り着いたひとつの扉を数回ノックする。

 無機質な音の後に届いた招き入れるのは中性的な声だ。中にいるであろう人物を予想しつつ、扉を開き名を口にした。


「失礼します。ユウさんは――」

「やあブロカート。残念ながら我が主は不在だよ」

「ということは、?」

「そうだよ」

「そうか……」


 ところどころに調度品が置かれ、鏡台と化粧品らしきものが部屋の片隅に鎮座する。部屋の主であるユウは、この部屋の雰囲気から読み取れるように女性だ。職業は彼らの世界では珍しく女性医師であり、子供と接することも多いためになにか意見を、と思ったのだが不在ならば仕方ない。

 そして彼女の従者が、部屋の片隅で蹲り本を読んでいる白い衣服を纏った人物だ。

 腰まで届く黒い髪と幼い顔つきや丸い瞳などは女性のようだが、声色はどちらかというと男性に近く、背も高めである。

 中性的な雰囲気をもつ彩輝サイキは、部屋を訪れたブロカートの疑問にあっさり返した。


 頭では分かっていた返答だったが、というのはつまり――と詳細を考えるとなんとも複雑な気持ちになり、ブロカートの返答も鈍くなる。

 彩輝はぼんやりと「なら聞かなきゃよかったのに」なんて返して、手元の本を1枚捲った。

 ごもっとである彩輝の言葉になにも言い返さずに書類を適当な台に置き、ソファに乱暴に腰をかける。

 途端に彩輝が不愉快そうに顔を顰めたが、意にも介さずブロカートは口を開く。


「なぁ、お前なら、なんて言う」

「……前言ってたツヴァイ君って子に?」

「そうだ。……俺がなんと言っても、あの子は俺の言葉を聞き入れてくれない。……今日だって、自分には何も無い、だから二番目ですら手が届かないものだと……」


 痛む心臓を押さえ付けるように胸元を掴み、ブロカートは口元に苦々しさを湛えて口にし、ブロカートは思うままに口を回す。

 過剰なまでに厳しく躾られ、兄弟内で差別をされ、それでも藻掻く彼はいつになれば報われるのか。いつになれば、家族に愛され、自分は自分でいいのだと気づくのか。自分は精神的に怪我をしているものだといつ気づいてくれるのか。俺の言葉はこのまま彼には届かないのだろうかと、ブロカートは呻く。

 落ち着いた声が悩ましげに荒れる様は、見る人が見れば驚くのだろう。しかし今現在この部屋にいる彩輝は、特に同様もなく聞き流し、「どうすればいいと思う?」との問いにも特に悩むこともなく、不思議そうに答えた。


「どうして、ボクに言うの?」

「……第三者の意見を聞きたかった」

「そんなのボクに求めないで、フスターフさんかそれこそ遊さんに聞いてよ。君も知ってるでしょう? ボクはあくまでも、遊さんの従者なんだから、さ」


 にこりと目を細めた彩輝は一見にこやかではあったが、その実貼り付けられた表情は冷たく細められた瞳に情はない。

 ブロカートの訴えを聞いても何も思わなかったのだう。自分には無関係なことだと言わんばかりに声も素っ気なく、言うだけ言い切って彩輝の視線は手元の本へと写るり

 この者に訊ねても無駄だと、ブロカートは遅まきながらも理解して軽く謝罪を述べた。

 こちらがどれだけ心を痛め頭を悩ませても、無関心な者には響かないのならば仕方ない。

 再び静かになった部屋で、書類に目を落としながらブロカートは願う。

 ツヴァイ――もとい『ニシキ・イチカワ』という『未来人』の彼の幸せを。自らと同じ意味の名を持つ少年の行く道が、少しでも明るいものでありますようにと祈らずにはいられなかった。

 たとえ、夢の中でしか会えぬ曖昧なものだとしても。

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夢幻より祈る 不知火白夜 @bykyks25

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