腐令嬢、殴る


 怪しい仕掛けがないか、首を巡らせてあちこちを注意深くチェックしていると、イリオスが隣から気持ち悪いくらいにか細い声を漏らした。



「ええと、その……僕も、ちょうどクラティラスさんに会いたかったんです。どうしても、伝えたいことがあって」


「何だよ、だったらとっとと言えよ」



 タライの落下を警戒して頭上に手を翳しながら、私は問い質した。



「…………課外授業の時は、すみませんでした。誤解したまま、頬を、叩いてしまって。その、痛かったですよね? 本当に申し訳なかったです」



 頭を垂れて、イリオスが殊勝に謝る。



 えーと……それって、一ヶ月以上前のことだよね? 何で今更?


 というか、イリオスはどっちかっつうと被害者じゃない?



「あんなもん痛くも痒くもねーわ。お父様の朝の生えたて無精髭で繰り出される頬ずりアタックの方がよっぽど攻撃力高いよ。悪いのは事情を説明しなかったイアキンス先生と、後先考えずに突入した私じゃん。イリオスが気にすることないって」


「で、でも……あんな男だと知らなかったとはいえ、イアキンス先生と二人きりにして、クラティラスさんの身を危険に晒してしまったのは僕です!」



 食い気味に声を荒らげて顔を上げたかと思ったら、イリオスはまた俯いてしまった。



「それに……殴るだけじゃなく、ひどいことを言ってしまいました。あれじゃ、脅しと変わりません。婚約者なら、王子の体裁のために自分の意志を殺せと言ったも同然です。どうか忘れてください。どれだけ殴ってくれても構いませんから……」



 あの後――私は学校の皆から、そしてステファニに協力してもらって軍でも署名を集め、あの場にいた者達は何も悪くない、どうか罰しないでくれと双方に訴えた。


 結果として、仕方なしにイアキンス先生も含め全員がお咎めなしで済んだけれど、それには第三王子殿下直々の嘆願が一番の効力になったと思う。



 イリオスがそこまでしてくれたのは、私のため。イリオスにそこまでさせてしまったのは、私のせいだ。



「ああでも言わなきゃ、私がまたアホなことやらかすと思っただけで本音じゃなかったんだよね? 江宮えみやが素手で触るってことは、そんだけ心配してたってことでしょ? イアキンス先生のことだって、早めにクソ野郎だってわかって良かったじゃん。知らずにガチ恋してたら、それこそ大惨事だったよ。だから、もういいって。逆にこっちが申し訳なかったよ」


「そうなんですけれど……でも、このままじゃ僕の気が済みません!」



 気にすんなと流そうとしても、イリオスは引かない。


 きっとこの一ヶ月半以上、どう詫びよう? どう切り出そう? って悶々してたんだろうなぁ。友達いない奴だったし、家族以外の人に謝るなんて初めてだったのかも。


 本当に面倒臭い奴だなー。



「もー、わかった。じゃあ、私からも一発殴り返す。それで終わりにしよ?」


「はい、お願いします!」



 生真面目に答えると、イリオスはぐっと固く目を閉じた。


 頬が強張っているのは、私のビンタの威力を恐れてか、やっぱり素手で触れられるのが怖いからなのか。恐らく後者だろう。


 だが、遠慮はしない。


 望み通り、しかとその身に報いを受けるが良いわ!



「いくぞ、イリオス! ソッ、イヤーー!」



 掛け声と共に、私はイリオスの頬を力一杯打った。



「いっ…………だぁぁぁぁぁ!? え、何何何、何ですか!? 鉄パイプでも使ったんですか!? すっさまじい衝撃だったんですけど!?」


「ううん、これでいった」



 涙目になっているイリオスに向けて、私はお母様が選んでくれた藤色の扇子を開いて披露した。浴衣は花柄だけどこっちは蝶々柄で、合わせると花畑みたいになって可愛いんだー。



「ちょ、ちょっと待ってください! これ扇骨部分が金属でできてますぞ!? 普通は竹だとか木材だとかプラスチックだとかですよね!? これを閉じたままで殴ったんですか!? 鉄パイプと変わらないじゃないですかー!」


「そういえば、特注品だって言ってたかな」


「あんた…………本っ当ぉぉぉに、最っ低ですな!!」



 グズグズ悩んでた件をチャラにしてやったというのに、イリオスは殴られた左頬を押さえたまま、涙と怒りで充血してより赤みを増した紅の目で私を睨んできやがった。腹立つなー、もう一発いったろかい。



 するとその時、暗黒だった空から強い光が差し込み、彼の端正な顔貌を強調するかのように陰影が落ちた。


 続いて、腹腔に響く重い音が響く。


 花火が始まったようだ。



 それから私達は、夜空に織り成す絢爛な光のアートに見入った。



 ジェミィとディディも今頃、この花火を見てるかな?


 そんなことを考えていたら、イリオスが囁くような声音で静かに言葉を零した。



大神おおかみさんが助けた子達も、この花火を見てるんじゃないですかねぇ。無事に家族と一緒に、こんな素晴らしいものを見られて良かったと喜んでると思います。あなたの勇気のおかげですよ」



 何故かはわからないけれど、明滅する輝きに照らされるイリオスの綺麗な横顔を見ると、何となく自分も同じことを考えてたと言うのが気恥ずかしく感じられて――――私は慌てて目を逸らし、代わりに別のことを口にした。



「イアキンス先生はクソ野郎だったけど……でも、おかげで学んだこともあるんだ」


「というと?」



 私の方を向いたようで、イリオスの問いかけが耳に近く響く。いつも下ろしてる髪の防御壁がないからか、奇妙なくすぐったさを感じて、私は思わず変な声を上げそうになった。



 な、何だこれ……軽く動悸と悪寒と息切れ、それに発熱っぽい感じがするんだけど?


 どうした、私? 夏風邪でも食らっちゃったか!?



 しかし、ここで風邪引いたかもなんて言ったら、後で王子に伝染うつしただの何だのと問題にされかねない。



「ええとね、年食ってるからってしっかりした大人になれるわけじゃないってこと。イアキンス先生に比べたら、渋る先生達を説得して署名活動に協力してくれた白百合メンバーの方がよっぽど頼りになったよ。おかげで年齢でフィルターかけてた自分を反省した。よく考えたら私だって、成人間近だったのに大人っぽさなんて欠片もなかったもん」



 なので私は風邪の引き始めの諸症状を堪え、なるべく平静を装って答えた。



「なるほど、反面教師というやつですなー。確かに年齢と人としての完成度は、必ずしも比例するわけではありませんよねぇ……大神さんも、高校生の時も女子高生というより男子小学生みたいでしたしなー」


「うっせーな。常にゾンビみたいだったオタイガーにだけは言われたくねーわ。シャーペンで突っついて生存確認しなきゃ、生きてんのか死んでんのか、わかんなかったもんなー」


「そんなことしてくれなんて頼んでませんけど。地味に痛かったし、嫌がらせにしか思えなかったんですけど。わー、あれ親切のつもりだったんですかー。さすがはウル、親切まで腐ってますなー」


「私の優しさが理解できなかったのは、お前の脳味噌が腐ってたせいだろ!」


「僕の方は頭の中だけで済んでたんだから、全身から腐臭振りまいてたウル腐よりはマシですよ!」



 いつものように悪口を叩き合う頃には、風邪っぽさは引いていたけれど――口喧嘩に熱中するあまり、花火はあんまり見られなかった。もったいないことしたよ……トホホ。

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