腐令嬢、憂う
初日こそ失敗したけれど、私とステファニが立てた『ヴァリ✕ネフェ餌でアンドリア一本釣り作戦』は見事に成功し、アンドリアの学力は怒涛の勢いで上がっていった。
「クラティラスー、お兄ちゃん疲れたなー? お兄ちゃんが疲れた時はどうするんだったかなー?」
「あーはいはい」
チッと舌打ちして私は本棚を整理していた手を止め、自分の部屋のものよりも座り心地がゴージャスなソファに座った。すると机で復習勉強していたお兄様が、勢い良く飛び込んでくる。
「わーい、クラティラスの膝枕ー! これぞ最高の癒しなのだー!」
妹の腿に擦り寄せるデレッデレの顔には、兄としての威厳なんざ欠片もない。
アンドリアー、私の心の声が聞こえるー?
これがヴァリティタ・レヴァンタの本性よー。仮面を脱いだら、変態レベルに鬱陶しいシスコン野郎なのよー?
「クラティラス、どうだ? 甘えるお兄ちゃんも可愛いだろう? ナデナデしてくれても良いのだぞ?」
「どうしてこれを膝枕って呼ぶのかな? 正確には腿枕だよね」
トンチンカンなことを言う兄に、私もトンチンカンで返す。けれどお兄様は気にもならないようで、冷静に言葉を分析するクラティラスもカワユスカワユスと喜んでいた。
アンドリアに勉強を教えることを条件に、私は毎日こうしてお兄様にご奉仕させられている。
散らかし放題のお部屋の片付けを手伝ったり、膝枕したり手を繋いだり頭をナデナデしてあげたり、時には庭に出て『アハハー待てよー』『ウフフー捕まえてごらんなさーい』ごっこをしたりと、夕食前の一時間だけは兄のアホ臭い望みに付き合わねばならないのだ。
「ああ、ずっとこうしていたいなぁ……」
仰向けの状態で目を閉じ、お兄様がうっとりと呟く。
「しかし、そんなわけにはいかない、か……」
「そりゃそうだよ、今晩のメニューはハンバーグだもん。お兄様がハンバーグくれるっていうなら、食べてる間も膝枕してあげるよ」
「ハンバーグでクラティラスの膝枕の権利を得られるなら、安いものだ。だが……一生のハンバーグを捧げたって、この先ずっとお前の膝枕を独占し続けることはできないんだろう? そのくらいは、わかっているさ」
先の発言は夕食の時間が迫っているせいかと思ったのだが、どうやら違ったらしい。
お兄様は瞼を開き、アイスブルーの瞳で私を見上げた。
「だから、今だけ。あと一月ほどだけ、私に独り占めさせてくれ。できたら、ハンバーグなしで」
最後は冗談で濁したものの、お兄様の表情には隠しようのない憂いが滲んでいた。
「何故、一月なのですか?」
その空気に圧されて、私は柄にもなく令嬢らしい口調で真面目に尋ねる。
お兄様は力無く微笑んでみせると、両手で顔を覆い、静かな声で告げた。
「…………私の、婚約の話が進んでいるのだ。相手はパスハリア一爵令嬢、来月に顔合わせの場を設けられた。恐らく、そのまま決定になると思う」
パスハリア一爵といえば、宮廷行事を取り仕切る宴会部長……じゃなくて儀典卿を務める、一爵家の中でもエリート中のエリートだ。
ウッソー! お兄様、ついに婚約しちゃうの!?
「これまではまだ早い、気が乗らない、興味がないで何とか跳ね除けられてきたが、さすがに今回は断われないだろう。同じ一爵家とはいえ、パスハリア家は別格。しかもこちらが申し出たのではなく、あちら側から是非ともとお声掛けいただいたのだ。受け入れるより選択肢があるまい」
レヴァンタ家も一目置かれる名家であるが、それでもこれまではパスハリア家にとってはウチなんてアウトオブ眼中だった。
何しろ王家の者と婚姻を結ぶのが当たり前という、半分王族みたいな権門勢家であらせられるのだから。
それが今になって急に、格下と見做していたレヴァンタ家と関係を結ぶために動き出したのには、きっと私がイリオス様と婚約したことが大きく影響しているのだろう。
儀典卿という立場上、パスハリア一爵閣下は王宮に出入りする機会が多いはずだ。そこで第二王子を見限り、第三王子に目をかけるようになった国王陛下のお心変わりを察した――のもあるかもしれない。
「クラティラス、気にするな。お前のせいではない」
はっとして目を向けると、お兄様の穏やかな笑顔が映った。
「レヴァンタ家にとって、大変名誉なことなのだ。これまで散々お父様とお母様を困らせてきたが、これでやっと恩返しができる。確かに、できるなら好きになった人と……とは思う。しかし貴族の家に生まれた以上、そのような我儘が通らぬことも理解している。そんな中で……お前は幸運だったな、クラティラス」
「わ、私……は」
お兄様の伸ばした手が頬に触れる。そのあたたかな体温が、私から言葉を奪った。
「世界には、数え切れないほどの人がいる。その中で好いた相手に好かれ、しかも結ばれるなんて奇跡に近いことなのだぞ? イリオス殿下も、この膝枕で癒してさしあげろ。私のおさがりになるが……あ、そのことは言うなよ? 嫉妬に狂った殿下に首を刎ねられてしまうやもしれん。二人だけの秘密にしておこうな?」
そう言って愉快そうに笑うお兄様は、お家事情について語っていた先程までとはうってかわってとても幼くあどけなくて――――どこでもいる、普通の少年に見えた。
けれどまだ十四歳にも満たないこの年で、彼は己の立場を弁えている。いや、弁えねばならないのだ。
前世での私は――同じ年の頃、ハンドボールに明け暮れ、
しかしここは、
貧しい者は、子どもであろうと身を削って稼がねばならない。貴族だって、子どもであろうと心を封じて責任を背負わねばならない。子どもにも自由が許されない、そういう世界なのだ。
堪らず、私はそっと上体を傾げてお兄様の頬にキスをした。
「結婚したって離れ離れになったって、お兄様はずっと私のお兄様よ。そして私はずっと、あなたの妹よ。それだけは変わらないわ」
突然の妹の暴挙に唖然として固まっていたお兄様だったが、ついでに頭ナデナデも食らわせるとぐんにゃりと溶けた。
「フフフフフ……そうかそうか。やはりクラティラスは私のことが大好きなのだな! 私も可愛い可愛いクラティラスが大好きだぞ。では、せーので大好きと叫んで想いを伝え合おうじゃないか!」
「調子乗んな。誰がんなことするか」
「何? ほっぺにチューをお返してくれとな? 全く、クラティラスは欲しがりさんだなぁ。仕方ない、嫌というほどチュッチュしてやろう」
「は? 要らんて! ちょ……やーめーろーぉぉぉ!!」
身を起こしたお兄様が、抱きついてチューをしようと迫ってくる。まだ細い腕の中で暴れ藻掻き、何とか逃れたものの執拗に追い回され――チューしたい兄VSチューされたくない妹の対決は、ついには取っ組み合いにまで発展した。
夕食の知らせを告げに来たネフェロによってブレイクされたのだが、ヴァリティタのアホ、叱られている間の隙をついてほっぺチューのお返しを遂行しやがった。
腹が立ったから、股間を蹴っ飛ばしてやったよ!
けれど――ずっとこうして戯れてはいられない。
私にもお兄様にも、課せられた重責がある。そしてそれは、年を重ねるごとに量も重みも増していく。押し潰されないためには、このままでいたいという心を捨てて受け入れるしかないのだ。
あの夜のネフェロは、それを密かに憂いていたのだろうか。もしかしたら、お父様からお兄様の婚約について既に聞いて知っていたのかもしれない。
私は来年から中等部に、お兄様は再来年には高等部に進学する。環境の変化と共に、私達はこれから変わっていく。変わることを強いられる。
しかしそれでも変わらないものもあるのだと、私は信じたかった。
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