第158話 没頭
バルジーの説得を成したことで、準備にさえ手間取ることなく、野営地を早めに発つことができた。早めにとは言うが何事もない常に戻ったということであり、この数日、バルジーがいかに様々なことで足を引っ張っていたか理解できるというものだ。
これからは配分を守って進めるだろうことに、イフレニィは人知れず安堵の溜息を吐いた。
バルジーが、この先にある何かに期待と恐れを抱き、逃避衝動に駆られると同様に、イフレニィだって自らの立場を脅かす者らとの旅が早く終わって欲しいのだ。
どちらにせよ、イフレニィとバルジー両者の問題が解決する先は同じに違いなく、今さらバルジーに脱落されても困るのだ。今やイフレニィが確信めいた気持ちでいるのは、バルジーがまとう精霊力が示す先の他に手がかりはないためだ。
暫くの間、隣を歩くバルジーに注意を払っていたのだが、約束したとおり、問題を起こす気は治まったらしい。とぼとぼと歩いているだけだ。それに何もしたくないときに見る、塩に触れた軟体動物のように、縮こまっている。首元に巻いてある頭部の覆いへと、頭を半分埋もれさせて眠そうにしている状態だ。
そこで、荷車を引くセラへと目を向けた。
イフレニィの頼みを受けて早くも、効力を増幅する符の作成に、取り組んでくれているようだ。
ようだというのは、どこか遠い場所を見ているのだが、その口元は何事か呟かれているようだったからだ。
抑制の式を流用すると言っていたから、まずは魔術式を構築しているのだろう。それは午前中ずっと続いた。そして昼の休憩になれば、保存食を口に咥えながら、勢いよく書き物を始めた。
その光景は、イフレニィでさえ旅の中では見たことのない気迫を滲ませている。当然、髭面達面々の興味も引いていた。だが、短い休憩時間だ。その時は静観していた。
「代わるか」
いつにも増して熱中している様子を見たイフレニィは、午後には自分から提案し荷車を引いた。
すぐ隣を歩きながら、呪われたような呟きと共に紙面に糸くずを量産するセラ。気の滅入る状況だったが、イフレニィ自身が頼んだことだ。溜息など吐かぬようにと、セラから顔を逸らした右手の森。その向こうは海だ。
海風だろうか。強めの風が吹くお陰で、幾分か爽やかな気分になれたのが救いだった。
セラが集中できるようにと、イフレニィも手を貸した成果がでたのだろうか。すでに夜には試作品作りに励んでいた。
その作業光景を見慣れていない、女騎士、小僧、髭面の、食事中の話題となっている。
「あんなに細かい作業を、すらすらと。器用ですね」
「ふんッ、懐かしいな。元老院ではあれくらいの者は普通だ。職人が自力で細工するのは珍しいがな」
「ふむ。帝国の工房でも、なかなかお目にかかれない手際だ。とても一職人とは思えん」
女騎士は、何かを尋ねたいのか身を乗り出した。イフレニィは、それを遮る。
「旅に影響がない範囲だ。邪魔しないでやってくれ」
別にイフレニィは、己の企みを滞らせたくないというのではなかった。
一応は依頼だというのに、楽しそうといってよいものか。すっかり没頭している。ここまでのことは珍しいから、作業に専念させてやりたいのだと告げる。
「そうですね。私としたことが、野暮でした」
女騎士と小僧は、納得してくれた様子だ。
髭面だけは訝しげだったが、頷いた二人に倣って黙っていた。その様子をイフレニィは胡散臭い気持ちで横目に見た。
――こいつは、いつも黙って、場を観察している。
主目的がなんであれ、イフレニィ達の観察も任務の一つなのだろう。忌々しいことだが、精神をすり減らしながらの会話などしたくはない。距離を置いておきたいというならば、それはそれでありがたい事だった。
セラから早めに起こせと言われ、晩の見張りはイフレニィから初めることとなった。それならと深夜の番も請け負う。バルジーにはセラに付き合って、新たな式への精霊力の流れなどの感触を確かめてもらうためだ。
皆の前でそんな取り決めをするのはどうかとも思ったのだが、別に隠すほどのことではない。どのみち、試しでも精霊力を流せば、女騎士と小僧には知られる。それなら初めから説明しておいたほうがいいだろう。実際に職人であることは目の前で見せられたのだから、符を試すこと自体は何もおかしなことではない。それをバルジーが担う理由である、セラに精霊力がないための補助である事実を伝える。
「そんな……符の職人が、精霊力を持たないなんて。悲しいですね」
などと、女騎士は同情していた。そんなところは、相変わらずイフレニィの癇に障る。
「なんと、それでここまでの小細工が可能なのか!」
意外にも、小僧は感心していた。根が素直であるのは確かなのだろう。
そこは女騎士も見習えよ、などと思いつつ、イフレニィは早々と就寝した。
突如、暗闇が振動した。
すぐさま頭は覚醒し目蓋を撥ね上げる。
激しい揺れはセラの手によるものだった。
――もう、朝か。
枝葉の隙間を見上げ、溜息を飲み込んだ。
イフレニィが目を開けても、まだセラは起こそうと肩を揺さぶっている。両手を上げて降参を示した。
「起きた。目覚めた。離せ」
すると離れた手の代わりに、四角い紙切れを目の前に突きつけられた。
「できた」
符だ。
心なしか、セラの目の下が翳っている。無理をさせたのだろうが、労いの言葉を止めた。セラはそんなことよりも、符を見て欲しくて仕方がないようで、視界から逃れぬようにとさらに近付けられたのだ。セラの妙な充実感に高揚しているさまはバルジーの喜び方と似ており、その不気味な光景から大人しく掲げられた符へと意識を戻した。
改めて見れば、今までのものよりも過剰に原料が乗っている。書かれている魔術式の線は、一見して分厚かった。
「まさか、こんなに早く完成するとは」
「完成かは、まだ分からん」
それはそうなのだろうが、新たな試みを短時間で、こうして形に出来るだけでも感嘆すべきものだ。
「本当に助かった」
「こちらこそ良い機会を貰った。お陰で、抑制の方でも行き詰まっていた部分が解決しそうなんだ。層間を繋ぐ式がどうにも不安定だったが……」
――待った。起き抜けからやめろ……。
普段より短い睡眠時間と叩き起こされた精神的疲労から、とめどなく溢れる言葉を止める元気もなく、イフレニィは聞きながら体を起こした。水筒を取り出し手を洗い、口をすすぎ、顔を洗って目が冴える。保存食を取り出す。それも食べ終えて皆が準備を整えた頃、ようやくセラを遮った。
「出るぞ」
「顔料についても……ん、もうそんな時間か。続きは歩きながら話そう」
すでに一日の許容量を超えた気分に、イフレニィは静かに空を仰いだ。
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