第147話 方向修正
夜明け前、小僧以外は起きだした。女騎士が小僧を揺り起こし、皆が出発の準備を済ませる。
「気分はいかがですか」
昨晩の話が堪えたのだろうか。意外なことに女騎士は、バルジーに気遣いを見せていた。イフレニィに対する押し付けがましさからは想像できないものだ。
「平気」
バルジーの短い言葉に、女騎士は気落ちしたように表情を曇らせる。気分を害したとでも思っているのだろう。それがバルジーの普段通りなのだと知るには、過ごした時間は短い。
その日は、随分と静かだった。
小僧さえ口を噤んでいたが、時おり女騎士を見上げた目の下に濃い隈があるのを見れば、あれは疲労のせいで気力がないだけだろう。
イフレニィはイフレニィで、時折、隣を歩くバルジーを横目に見てしまう。イフレニィの場合は気遣いというよりも、何か変化が表れはしないかと観察めいたものでもあった。これまで閉ざしていた口を開いた、その心情の変化が、本当にイフレニィの態度に己の境遇を重ねたことによる発露なのか。当然、含まれているだろうが、そこまでの精神的負担を加えたのが、別の精霊力による干渉のせいもあるのではないかと考えたのだ。
バルジーに、まとわりつく精霊力が常に効果を発動した状態とするなら。バルジーの場合、それが知らせる信号が大きくなるほど機嫌も悪くなるだろう。
どこか遠くを見ているようなときもあり、しっかり前を見据えているときもある。思い出したくないことを思い出し、乱れた感情を宥めようと、心の内で葛藤しているのだろうとは思える態度だ。
ふと、そんな自分が馬鹿馬鹿しくなって、イフレニィは周囲へと視線を背けた。ああも、はっきりと伝えてくれたのだ。バルジーに対しては、もう探るような真似をする必要はない。イフレニィからも、はっきりと尋ねればいい話だ。
今はまだ、歩き続ける。暇だからと誰かに絡まないバルジーも久々のことで、恐らく、誰かに口にしてしまった痛みというものはバルジー自身、相応に負っている。この森を抜けるまでは、それぞれに与えられた自由な時間だ。その間くらいは、そっとしておいてやれる。
そして、あの鄙びた街に到着した。
とうとう何も言いださなかったバルジーの横顔を見る。落ち着いたのかどうか、いつもの無表情からは窺い知ることはできない。
だが、時間切れだ。
こんなに早く戻ってくるとは思いもしなかったのだろう。この鄙びた街、唯一の宿の主人は、大喜びで出迎えてくれた。
「急いで食事を用意しますから、風呂でも入って寛いでいてください」
客は一人増えたが部屋数はちょうど足りたようで、また一人一部屋をあてがわれた。暖炉のある居間は、イフレニィにとって相変わらず暑苦しい場所だが、久々にまともな食事を摂ることができて心身ともに凝りが解れていくようだった。
「話せるか」
食事を終えるとイフレニィは、セラとバルジーに声をかけた。
「こそこそと。私達の悪口でも言うつもりなんだろう」
小僧が聞きとがめる。
「俺達にも目的があるからな。今度混ぜてやる。拗ねるな」
「す、拗ねてなどいないッ!」
喚く小僧に手を振って居間を出た。どこでも良かったが、セラの部屋へ押しかける。
「どこへ行くか、はっきりさせる頃合、ということだな」
セラは確認するように言いながら寝台に腰掛ける。セラもイフレニィ同様に、バルジーからの言葉を待っていたのだろう。バルジーはセラの傍らで床に座りこみ、寝台に背を預けて膝を寄せる。イフレニィは椅子を引っ張り、二人に向かい合うように座った。
「聞きそびれていたから」
「分かってる。ごめん」
珍しく、素直な反応だった。弁解が続く。
「あまり考えたくないからって、こんな遠くまで来たのに曖昧にしてたから」
もう怒りはなく、ただ落ち込んでいるだけのようだった。外套に埋もれるようにして、しおれている。
「お前だけじゃない。俺も似たようなもんだ」
「そうだね」
落ち込んでいようと憎まれ口は忘れないらしい。セラが苦笑しながら、紙束を取り出した。
「あの男から地図を借りて、街の場所を確認しておいたんだ。見てくれ」
セラはセラで、具体的に今後の予定を考えていたらしい。髭面に地図を借りて、目ぼしい地形を書き留めた図を見下ろす。本来なら、イフレニィが気にするべきことだったと思えば気まずい。
「今、俺達がいるのが、ここルスチクの街」
セラは紙の中ほどを指差した。それで、この小さな街にも名前があったのだと知る。
「街を巡るといったが、そう多くはない……工房の在りそうな街は、という意味でだが。とはいえ、海まで渡って来たのだから、目ぼしい場所には立ち寄ってみるのもいいだろう。思わぬ発見があるかもしれんからな」
それは、セラなりの言い訳だった。
だから、どうせならバルジーが気になるという場所を探る余裕もあるだろうということだ。
バルジーの視線は戸惑うように揺らぐも、次には頷いていた。
「ユリッツさん、ありがとう」
それを聞いて、イフレニィも紙を取り出した。最近は、どう道を進もうがあまり気にしなくなったため余っている。セラの図から気になる箇所だけ書き写しながら、バルジーに確認を取る。
「それで、方角に変化はないのか」
バルジーは決まりが悪そうに、さらに縮こまった。まだ、何かあるらしい。外套に埋まって目だけ出すのはやめろと思いながら、問い詰めるように見据える。
意図は伝わったようで、バルジーは首を出し、背筋を伸ばした。
「変化はないよ。ないけど、本当は、もっと南だったり……」
イフレニィらから目を逸らしながら、バルジーは呟いた。
それにはイフレニィも、さらに冷えた視線を向けてしまう。初めから、元老院ではないと、分かっていたということだ。
今なら、バルジーの気の抜けきった態度にも合点がいく。
探りたいが、近寄りたくもない。そう気持ちが割れていたのだろうが、人には話せと詰め寄ってきたくせにと、内心で文句を零した。
「……どのみち、商人の目的地だったからな」
溜息を飲み込んで、その件は終わりとすることを告げた。
「だから、ごめんって」
再びバルジーは外套に埋もれていった。もうそのままにしておこう、と思った途端、飛び出した。
「また、商人って言った」
今度は恨めしそうに睨んでくる。余計なことには口を出す。
「それで、おあいこってことにしておけ」
セラは呆れて溜息を吐いた。
改めて、現在地から行ける街を目で辿る。簡略化された写し書きであり、街と街道、目印となりそうな地形の他は省かれている。ほとんどは小さな集落があるだけのようだと、セラは口頭で説明を添えた。海沿いを通る主要街道は、この大陸の海沿いを囲うように敷かれたものだ。この街を下った場所にある街道は、南北へ伸びている。北端はトルコロル跡地であり、南への用事が済んだとしても、北上することはないだろう。他に国があるわけでもない。
そう、こちらの大陸の西側には、他に国がない。中間にあったのが、元老院の前身であった国なわけだが、現在は直轄領として元城下町を擁すのみだ。そのせいで、どこの国に属しているのか分からない集落が、点在するような状態なのかもしれないと思えた。
イフレニィの古い知識によれば、大陸の東側にも三ヵ国ほど、いずれも小国があるだけだ。東側は切り立った崖で、海の恵みが得られず貧しいのだと聞いた記憶が頭を掠めた。改めて考えれば、帝国とは比べるべくもない狭さだと実感できたようだった。
いずれは向かうとして、まずは最も近い目的地のことだ。
南端をセラが指差した。
「古都と呼ばれる国で、今は鎖国しているという話だ。国を閉ざしているとはいうが、こちらの国とは細々と物資のやり取りは続いているようだから、入れないということはないだろう」
商人ならばと、注釈が付きそうな情報だ。髭面から聞いたのならば、最も現状に沿った情報に違いはない。仮にもセラは商人なのだから、護衛のイフレニィとバルジーが入国できないということはないだろう。ただし、滞在期間などに制限があるかもしれないと意見を交わす。
バルジーの向かう先は、南。
それが、厳密にどの辺りかは、まだ分からない。目的地を過ぎる可能性もあるが、しかし大きな街のある場所は他にない。鎖国状態が、どの程度のものかも分からないが、物資の調達にしろ滞在出来るならすべきだった。
相互の認識を擦り合わせ、こちらの旅の道筋に関しても大まかに決めることは出来た。三人は顔を見合わせて頷く。
――ここまでの旅、二人には迷惑をかけた。
お返しとまではいかないだろうが、バルジーとセラの目的を果たすまで付き合おう。そして帰りも、送り届けさせてもらう。イフレニィは胸中で、自分の心にそう誓った。
港前の街道から、南へ向けて発つ。
南端の国――古都へ。
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