第86話 溢れだすもの
気持ちを落ち着けるように、イフレニィは水を飲む。誰もが、座り込んだまま動けないでいるようだった。
「今、こういうことを聞くのもどうかと思うんだが」
やがてセラが口を開く。視線はイフレニィに向けられていた。
「今だからこそ、聞いてくれないか」
顔色を伺っているようなセラに先を促す。
「ピログラメッジも、なかなか精霊力は強い方だと思う」
即座に、聞かなければよかったと思ったイフレニィに、矢継ぎ早に言葉が被せられた。
「だが、あんたは飛びぬけてる。それでだな、試したい魔術式がある。休憩の合間でいいから協力してほしいと思ってな」
これまでイフレニィ側の都合ばかり押し付けてきた。思えば、セラから積極的な申し出など初めてではないだろうか。
「符を、使えってことか」
うんうんと頷かれる。
「……それくらいは、手伝うべきだろうな」
断るような理由はない。それくらいで満足してもらえるというならば、安いものだろう。渋々と承諾の意を示した。
「そうか! よし、ならばこれで、あれの次に試して……」
途端に、セラは嬉しそうな顔と共に魔術式の世界へと旅立ってしまった。試したいことが幾つもあるらしい。周りに迷惑のかからないものならいいがと、些かな不安に不気味な光景を眺める。
しかしこれで、いまいち不透明だったセラの目的は、はっきりさせることができたといっていいだろう。迷惑な状況でも手を貸すのは、己の魔術式に利することがあるためだ。バルジーと組んでいるのも、少々変わった精霊力の使い方をするからということが重要らしかった。純粋に貪欲な探究心からというならば、分かり易くて助かるというものだ。
我知らず、イフレニィは息を吐く。
体よりも精神が磨り減った気分だった。二人にも、よく休んでくれと声を掛けて、話し合いはお開きとなる。イフレニィも、今晩は式の練習はせず寝ることにした。見張り番のセラを残して、やや離れた草地の上で横になる。二人から顔を背けるようにして襟を掻き合わせるが、目を閉じることはできず、暗がりを見据えていた。
話すほどに、見えてきた己の弱さに辟易していた。遠い昔、過去のことだと言いつつ、もう関係ないから放っておいてくれと叫ぶ。コルディリーで過ごしている間は、守られているように感じていたものが、そこから裸で追い出されたように心許ないのだ。やはり街の外には、思い出したくないことばかりが転がっているのだと、嘆かずにはいられなかった。
女騎士――トルコロルの残党。
亡霊が姿を伴って現れたような女の目が、脳裏にちらつく。王家に近い位置にあったためなのか、未だ無に帰したはずの誇りを失っていない。
それとも、それしか生きがいを見つけられなかったのだろうか。
――俺は、違う。
なぜ、昔の事に縛られ続けなければならない。
自分の意思とは関係ないところで、苦労して作り上げた道が砕かれていくのではという恐怖に震えながら、考え過ぎだと窘めている内に夜は更けていった。
いつもより長く休んだはずだが、疲労感は消えることなく、イフレニィは重い頭を抱えて明ける空を見上げた。風が吹きぬけ、少し伸びてきた髪を乱すと、そのまま街道沿いに立ち並ぶ木々の狭間を抜けていく。辺りには、その葉を微かに揺する音だけ。日差しは穏やかだ。気候による煩わしいことは何もない。
イフレニィ達は、また黙々と歩き始めた。以前の散歩気分とも、追い立てられるように急ぐこともなく。静かな旅立ちだった。
昨晩は、多くの事柄が交わされた。話し合ったことについて、よく考えてみなければならないとは思うのだが、まだ今は、原因を突き止めることについて優先的に集中したい気持ちは強かった。これも逃避なのかもしれない。しかし少しずつでなければ精神がもたないならば、せめて別の方向からでも進めるよう努めなければならないだろう。
今現在、知り得ることについては全て話したはずだ。バルジーの方も好奇心程度ではなく、本気で調べたいと考えているようだった。ならば伝えられた情報も、一旦全て飲み込み信じてみることにした。
まず、精霊力による影響の違い。
バルジーには不快感があるのはわかったが、それはイフレニィが印を発動した場合のようだ。イフレニィの方はバルジーから離れた時のみ痛みを伴うようだが、それを我慢して確かめた結果、方向を指していることに気が付いた。
しばらく印に触れていない。街からも離れ、付近を通りすがる者も余りいない今、そろそろ確認したい気になっていた。旅の間では、街道沿いでしか試せないことなのだ。バルジーに向かって切り出していた。
「苦しいのは承知で頼むが、精霊力の変化を確かめてくれないか」
さらに何かを示しているかもしれない。もちろん無駄になる可能性もある。イフレニィの意図を察したバルジーは、器用に上半身だけイフレニィに向きなおすと、真剣な面差しで答えた。
「いいよ。他に出来ることもないんだし」
言いながら、両拳を握り締めて自分の顔の前で構える。
「さあ、いつでも、かかってくるといい」
どこまで真剣なのかと呆れて見ながらも、答えを聞いた時点で精霊力は流れ出していた。背中の印を光が駆け抜けるのが、わずかな冷たさと共に感じられる。
「わっ! いきなりびっくりするじゃない」
いつでもと言っておきながら、バルジーは慌てて後ずさる。
「悪いが使うと決めたら、意識にそう上った時点で流れてしまうんだ。不審な目を向けるな」
また異常なものを見る目を向けられ、不貞腐れて言葉を返す。イフレニィ自身、面倒に思っているのだ。不快さに眉間を寄せる。驚きに息が詰まるような気になったのは、イフレニィ自身もだった。
――またか。
以前のように、集中したところへ徐々に集まるなんてものではないのだ。堰を切ったように溢れ出す、とでも表現した方がいいほどの変化を遂げている。
ほんの短い間に知らず体がおかしくなっていることに、腹の底からぞっとさせられる。
「安心しろ。意識して止めておけば、勝手に動作することはない」
今のところは、と胸中で付け足した。自分の体のことながら、どうなるか分からず、半ば投げやり気味だ。
「精霊力が強すぎるせいなのか、制御ができないと言ったろ」
バルジーは気味悪そうにして、だが何かを推し量るようにイフレニィの全身へと視線を彷徨わせる。精霊力を感知しているのだろう。
「強すぎるというか、流れが、ものすっごい多いよね」
言葉にされるまでもない。
さながら、小さな異変が起きた時、空の帯から光の濁流が地上へ降り注いだときのようだった。
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