第18話 対目標

 道具屋の勘定台の端。いつものようにイフレニィは丸椅子に腰掛け、焦げたように黒い木板の壁に背を預けている。重い瞼をどうにか開きながら、パンに齧りついていた。

 昨晩、酒は飲んでいない。長い時間を街の外で過ごしたように思えたが、通りかかった酒場からは、まだ灯かりが漏れていた。どこも深夜を過ぎる前には閉める。そんな、まだ早めといってよい時間だというのに、イフレニィは部屋に戻るなり寝台に倒れ込み、飲む暇もなく寝てしまったのだ。睡眠時間は伸びているはずなのだが、眠りが浅かったようで疲れは取れていない。

 飲んで寝た方がましではないか。それとも、相乗効果で最悪になるか。頭が働かず、つらつらとそんなことを考えていると、珍しくクライブが振り返って声を掛けてきた。

「のんびりしてるな」

 手には木箱を携えている。クライブは話しかけながらも商品棚の前にそれを降ろした。

「予定、考えてる」

 歯ごたえのあるパンは、なかなか飲み下せない。口の中で、もごもごと呟くように答えた。

「珍しいな」

 イフレニィの返事を聞くと、クライブは開店準備に戻って行った。

 ――珍しいか。

 確かにイフレニィは、曖昧だろうと何をするかは決めて動く。とりあえず組合へ向かおうかといったくらいのものだったが。

 ああ、組合に寄ることすら考えていなかったのか、と気が付いた。

 水を飲み干すと、少しは頭がすっきりした。しばらく、あちこち出なければならない。というよりも、出ると決めたのだ。今日は準備に費やすと予定を定めると、立ち上がって伸びをする。朝食を終えて空いた皿を水場へ移動すると、ようやく働き始めた頭で、昨晩決めたことを思い返していた。


 表通りから外れているクライブの道具屋を出ると、商店街へと足を向けた。

 二、三日出かける程度なら気負うこともないが、一週間か、十日か。まとまった期間になれば、それなりの準備が必要だ。今回は組合からの要請ではない。当たり前だが必要な物は全て自前となる。

 ただ、あまり重装備でも移動に難が出る。街道から離れなければ、軽装でもどうにかなるのだが。何分、目的地が分からない。

 ――とりあえず一週間。

 印の示す感覚を求めるという、あてどない旅だ。漠然としたものを追うには短期間かもしれない。しかし、いきなり考えなしに飛び出すというのは、イフレニィの性に合わなかった。本格的に何か事を起こすなら、少しでも多く情報は欲しい。イフレニィの身に起きたことは、誰に聞くこともできない得体のしれない現象だが、空から降る精霊力のように計りようもないものではない。印の魔術式という、人の手によるものが発するのだ。数日も真面目に向き合うなら、さらに別の手がかりを掴めるのではと思えるのだ。だから、試しに探れるところまで探るにしろ、まずは一週間という日程は、ちょうどよい制限だろう。


 雑貨屋の前に差し掛かり、速度を落とす。クライブの店と内容は被るが、こちらは家事に関する品が多い印象の店だ。足を止めたが、イフレニィが必要なものならクライブの店でも買える。少し考えて、そのまま通り過ぎる。

 その先にある食料品店に足を運んだ。主目的である保存食の購入である。数種の穀物を練り固めて乾燥させた、手のひら大の長方形の物体。それを、先程決めた一週間分揃えた。毎朝食ってるパンよりも硬い代物だが最も日持ちするものだ。多少の彩りに、干し肉も加えた。

 次に、衣料品店を覗いた。用があるのは、その片隅だ。少しばかり悩むのが、鞄だった。大して遠出しないこともあり、旅仕様の丈夫な革製の鞄など所持していない。現在使っている帆布製の鞄もそう悪くはないのだが、体に斜めがけに持つもので、もしも戦闘事などがあれば邪魔になる。

 結果的に、店先を冷やかすだけに終わった。そう安いものではない。また出費が嵩むのを考えて、今回は手持ちの最低限の装備で出かけると決めて店を出た。


 住んでいる道具屋に戻ると、早速、店頭を物色する。布製の小分け用に使う袋と、革製の一回り大きな袋、発火道具などを手に取った。裏手に居るらしいクライブを呼ぶ。勘定台に代金を置きながら予定を伝えた。

「明日から出かける。一週間くらい」

 横目だけで勘定したクライブは、わざわざイフレニィに向き直ると、奇妙なものを見たように言った。

「本当に、今日は珍しいな」

 遠出したばかりで、すぐにもイフレニィが長い間、街の外に出るなど初めてのことだった。いつも精神的な疲労を露わにして戻ってくる姿を見ているのだ。不審なものを感じているのだろうか。

 それでもクライブは追及することなどなく、また裏手に引っ込んだ。その背を見送るでなく、イフレニィも屋根裏にこもった。


 昼までには携行するものを整理し、まとめていた。午後は装備品の点検と手入れに取りかかる。頭では旅程を思案した。

 目標物確認のため、一週間で行って戻る。片道、正味三日。それで追えるだけ追う。夜明け前に出立。

 決められるのは、そのくらいのものだが、心持ち気は楽になる。何も手掛かりがない状態が続くよりは、無駄に終わったとしても、出来ることがあった方がいい。




 街を出て、一日目。日が傾く頃、イフレニィは眉間を不満気に寄せていた。

 すでに、面倒な問題が発覚し始めていたのだ。符の検証をした日の情報に基づいて行動計画を立てたのだが、そこに含まれていなかった重要な要素が二点、浮かび上がってきていた。

 一点目。

 昼間は痛みこそ無いが、印が発する信号も弱まる。現在の、制御がぶっ壊れたように膨大な精霊力でもって印を発動させてさえ、夜間ほど信号を捉えることが出来ない。これには地味に苛立たせられる。

 二点目。

 これはイフレニィの完全な思い込みのせいだ。精霊力に関わるならば、目標物は漠然と場所か、ある地点だと思い込んでいた。たとえば回廊の異常な現象のように。

 それがどうやら、移動しているようなのだ。しかもイフレニィが追う速度と大差なく離れていっているように思えた。

 定期的に信号を確認していると、その方角に揺れがあることには気付いていた。それは、未だイフレニィの認識が曖昧なせいだと考えていたのだが、それにしては規則的なのだ。

 思わず両手でこめかみを押さえ、溜息を堪える。到達できさえすればいいと思っていたら、酷い誤算だった。

 すっかり日が落ちると、足を止めた。

 街道脇に逸れると、枯れて倒れた木の幹や、砕けかけの岩などが転がっている。夜はそこそこ冷えるが、火はおこさない。

 岩にもたれると膝上丈の外套うわぎを深くかぶった。旅人であることを示すために着衣を定められているものだが、丈夫なもので、この位の寒さなら十分防げる。長い年月の間に、ほつれた糸が飛び出してはいるが、実用に支障はない。

 目を瞑ると、無駄になりそうな明日の予定をどうしようかと考えながら、短い眠りについた。


 三日目、イフレニィは予定通りに印の示す目標を追っている。幸いなことに、目標は街道近辺に存在するらしく、歩くのも苦痛ではない。

 しかし気分は最悪だ。初期に立てた旅程を消化するためだけに進み続けているのだ。明日は街へ引き返すと決めていたが、さすがに足取りは重かった。

「中途半端は、無理か」

 既に入れた気合など萎えきっている。

 街へ戻ったら対策を根本から練り直すべきだろう。再出発には今回以上の準備が必要だ。

 ――準備か。

 次にやれることは分かり切っていた。

 懐が痛むなんてものではない。仕切り直しだ。改めて、判明した様々な問題点を洗い出し、予定を組みなおしていた。

 いや、答えが分かっているからこそ、あれこれと言い訳を探している。決断しきれない――決断、したくないのだ。

 俯いて、視線は足元の道へと落ちる。

 長旅になる。

 終わりが、いつになるか分からないというほどの長い旅だ。

 対象が移動するなら近付くこともあるかもしれないが、楽観は出来ようもない。一ヶ月か、三ヶ月か、それ以上もあり得る。そう考えるだけで、胸が疼き膿が滲みだすようだった。

 足元の道は、かつて辿った道でもある。

 旅立とうとして叶わなかった過去が、胸の奥底に澱んでいる。

 もう、痛みとして感じられるものでさえないというのに。未だに、行動の端々に影響しているのは理解していた。

 ――馬鹿げている。

 全てを覆い隠すように、吐き捨てた。

 大層な計画をぶち上げるより、今出来ることをやるべきで、出来ることは幾らでもある。そんな、現実的な見方を良しとしてきたつもりだ。先が見えないことに取り組むなど、今までの自分では考えられないことだった。


 過ぎ去った不安に押し潰されてたまるかと、決然と顔を上げる。

 幸いなのは、とりあえずの対象目標があると、おぼろげながらも確信できることだ。完全な放浪ではない。一度くらいは、こんな経験もしておいて損はないだろう。

 そう自らに言い聞かせるとイフレニィは、一度は街を離れなければならない現実へ、踏み出す決意を固めていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る