第6話 そして、誰も、いなくなった
二月の中旬の日曜日。前もって訪ねたいという連絡を受けていたので、エミリの姿に「九十九何でも屋」の面々は笑顔で迎えた。
案内されるまでもなく応接セットのソファー側に座り、とりあえず、と、彼女の白樺大学が春休みにイギリス文学展なるものをすることが決まったと、まだ案の段階のパンフレットを見せた。
「油井 公人氏所蔵の本はどれも貴重でしたし、保存状態もよかったですから、一般公開をしようという話になって。ただ学内の図書館横の展示スペースなので、それに触れたりなどはできませんが、よかったらお越しください。ちゃんとしたパンフレットなりが出来たら、持ってきますね」
そう言って、コートをカバンの上に置いて、エミリはソファーに座った。
エミリは三人が何も言わずなので、切り出しは自分だろうと解っていたが、ひとしきり、世間話でもしていないと、落ち着かないかのように、どうでもいい話を続ける。
「公園の梅の木が咲いていたので、写真を撮っていたら遅くなってしまって。
今日は暖かいですね。でも、また明日からは寒くなるそうですよ。この時期が一番寒いんですって。春が待ち遠しいですよね。
来年度の授業資料もう作り始めてます? 来年度、私少し多めに授業が入っていて、今から作ってもギリギリかも。と思ってるんですよね。夏に、イギリス旅行に行くので、そのお土産とか持ってきますね」
などなどを一通り話し、お茶で口を湿らせ、そして紙を取り出した。
彼女があの日―運命の一月30日―に立ち会い、聞いた話の要点のようだった。覗いた限りでは、無かった。とか、陰湿。とか、そう言った文字が多く、要領を得ない。だが、彼女の頭の中ではすでにその言葉のみで、あの日が再現されているのだろう。眉間にしわが寄り、彼女の眼鏡を上げるときの癖、折り曲げた右人差し指で眼鏡を上げる。
今日の彼女はタートルネックのセーターと、ロングのタイトスカートを着ていて、細身がさらにすっきりと見える―実いわく、あれで胸がもう少しあれば、あのスタイルにメリハリがつく―と思えるほどすっきりしていた。髪は滑らせていて、肩から落ちていた。
エミリはため息をつき「私から切り出さないといけないのですよね」と言って顔を上げる。「でも、なんていうんでしょうか……、すごく嫌な気分です。結果的には、一華さんが言ったとおり、意地悪な遺言でした。開示された後、唖然と、怒号と、ヒステリックな声と、そして卒倒して、救急車が来て、そして、あっという間に、誰もいなくなりました」
と苦笑いを浮かべた。
エミリは、ドラマチックにするつもりもないし、感傷に浸る気もないけれど、でも、事柄だけで進めると、非常に、自分自身が嫌な人間な気がするので、自分は理性ある人間で居るために、余計な情景とか、感傷とかは許してほしい。と前置きした。
「1月30日は、薄曇りというんでしょうか? 天気予報では晴れでした。確かに、光はあって、地面に木の陰などがあったけれど、青空というものがない、薄く煙った空というような、そんな天気です。この時期によくみられる天気です。
そのせいなのか、それとも、遺言の開示のせいで緊張しているのか、とにかく寒くて、私は室内は暖かいだろうけれど、一枚多めに下着を着て向かいました。
一時開示だったので、十二時半には集合していればいいのですが、前日に六花さんから、できる限り朝早く来て欲しいと言われたんです。
入院していた美寿子さんや清明さん、秋史さんが前日から退院して家にいる。裁判中ですけど、茂道さんも三十日に早々にやってくるだろうと。
それもこれも、二十五日に夏生さんが秋史さんの双子の弟で、権利を主張したことが正式に認められ、彼は秋史さんの次に家の実権を手に入れられる跡取りであると認められたのです。しかも、二十五日の日付の変わるときに居たので、絶対的遺言書の権利を主張したのです。
これは陰謀だとか、夏生さんが図ったと茂道さんや美寿子さんが大騒ぎをして、絶対に煩いから、私に味方になって欲しいというのです。
私にだって想像できました。多分、美寿子さんは、不可抗力で失恋している六花さんをいじめているだろうと。私なら、車いすの美寿子さんを庭の真ん中に置き去りにするわ。と笑い、早く行くことを約束したので、私が油井家に行ったのは九時前でした。
当然のように、閉め切っているはずの窓から、美寿子さんの声が漏れてきます。玄関を開けてもらうと、六花さんを馬鹿にするような言葉を舌を噛まずに言い続けていました。
応接室に居たんですけど、その言葉のあんまりなことについ、
「不倫して刺殺されそうになるより、ましだと思いますけど。確か慰謝料請求されているんですよね? 相手の奥さんからも、ご自分の旦那さんからも、そして、娘さんからも」
というと、美寿子さんがひどく睨みますけど、車いすに乗っているので視線はそらせますから、気にしません。
そのあとで茂道さんがやって来て、六花さんを慰めているようなでもバカにしようとするので、
「容疑者は他者と接近してはいけないのではなかったですか?」
と言ってやりました。
私、かなり意地悪でしたが、六花さんを守れるのは私だけだと思ったので、心を奮い立たせました。
清明さんも秋史さんもだいぶ痩せてはいましたが、退院してきて自力で歩いていました。彼らは六花さんに毒を吐くことはせず、つらかったね。と一言言っただけだと言いました。
早めの昼を食べ終わったころ、十二時半、夏生さんがやってきました。でも、六花さんがすがるような視線で夏生さんを見ていましたが、夏生さんはあえてその視線から目をそらすようにして座りました。
それからの三十分は誰も口を開かず、執事の長井さんが弁護士を連れて四十五分に席をつくまでに、遺言にかかわりのある人はすべてそろっていました。
大奥様は、夏生さんが自分が追い出した春子さんの子供だと知ると、夏生さんの責める目から逃れるように小さくなっていましたが、
「武家に双子は要らん。あんな犬腹の女なんかを嫁にもらうから」
と、口惜しいようにぶつぶつ言っていました。
全員そろったのだから、開示しろ、と茂道さんと美寿子さんが言うのを、一時なのでと弁護士が断固として譲らず、そして一時になって、鍵のかけている鞄から茶封筒を取り出し、弁護士は咳ばらいをしました。
「では―。これより、油井 公人氏の遺産相続に関する遺言書の開示をします」
もう、辺りが静かで、全員の言いえない心臓の音が聞こえてきているような感じがしました。
その時、いきなりです。応接室に置いてあったCDプレイヤーから曲が流れたんです。時間設定していたようで、全員飛び跳ねるほど驚いてそちらを見ました。茂道さんがそれを止めろというのを、
「いや、これも、公人氏の遺言に在ります」
と言って、一枚の紙を机に置きました。全員でそれを覗きましたが、茂道さんが素早くそれを取り上げ、
「一時にCDが鳴る。その音楽の中で開示せよ。曲は絶望への行進曲? なんだこれ? バカげている。……曲をかけながら遺言を読むこと。これも条件である。特に、茂道や美寿子は反対するだろうが、絶対条件だ」
というのです。茂道さんも美寿子さんも顔を真っ赤にし怒っていましたが、とにかく曲をかけたまま遺言を読むことを承諾しました。
その曲というのが、どうもおかしな、音をわざと外したり、奇妙な速さだったり、とにかく不快なもので、それだけを聞くと、酔いそうだと思いました。
弁護士も初めて聞くその曲に嫌そうな顔をしましたが、それでは、ととにかく仕事を始めました。
「油井 公人の遺言は以下に記す。
長年の勤労に感謝し、長井 一夫には三百万円と、使用していた車を贈与する。
家政婦の筒井 道子には、百万円と台所で使用していた使えるものはすべて贈与する。好きなものを持っていくとよい。
なお、二人の退職金、贈与に関わる手数料の別途支給する。長年の働きに感謝する。
白樺大学、イギリス文学准教授の八尾 エミリ氏に、油井 公人は所蔵してあった本の全てを同氏の勤務する大学に寄贈する。目録及び、鑑定結果については異論無しとする。同氏の私の愛蔵書に対する誠実なる接し方に感謝するとともに、同氏の類まれなる知識に敬意を払った結果である。ぜひ、研究に役立てて欲しい。
そして、一月二十五日の日付が変わるその時に応接室に居た者たちへの権利として、油井グループに関するすべての権利、屋敷、土地、を贈与する」
弁護士の言葉に夏生さんが歓喜の声を上げたんですが、弁護士が咳ばらいをし、
「ただし、油井グループはすでに解散の危機に面しており、多額の借金のかたに土地と屋敷は担保としてある。油井グループは、一月三十一日をもって解散し、借金の返済に充てるようになっている。
つまり、遺産などない」
弁護士の言葉に全員が呆気にとられ、そして、バカなとか、ばかばかしいとか、言う声が誰ともなく上がり、茶封筒の中の遺産運営など、私にはよく解りませんがそう言った書類のコピーは赤字を示し、たしかに、一月三十一日をもって破産すると書かれていました。
それに抗議の声を真っ先に挙げたのが大奥様です。
「家が無くなるの? 私はどうするのよ?」
というのを、弁護士が静かに分厚い封筒を胸ポケットから取り出し、
「公平に読める誰かに読んでもらいますか? それとも私が代読してよろしいでしょうか? では、私が代読いたします」
と言って、公人氏からの手紙を読み始めました。
最初は白々しい時節のあいさつが、
「暦の上では秋とはいえ、まだまだ残暑厳しい折、いかがお過ごしですか? などと書きだされたら、いらだたしいだろう」
と書いていたのです。全員がその場で顔をしかめ、弁護士はそのまま続けます。
「まず最初に長井と筒井には本当に感謝する。私がくじけそうなとき、
公人氏は、長井さんや筒井さんには意地悪はなく本心で感謝しているようでした。
「さて、我が子供たち。そして足の引っ張り合いの結果二十五日に応接室に居た愚かなものよ。お前たちにはつくづくうんざりする。だがそれでも私の子には違いない。だから、私の死後、いくらかの時間を与え、私の性格を考慮すれば、自分の道を模索することに気づいただろうに、それをせず、二十五日のことしか頭になかった愚か者。多分その中に母さん、あなたも居るでしょう。
だが、残念だが、油井グループは解散しますよ。財産はすべて担保に入っています。いや、私の才覚がないばかりにとか、商才がないとか、私のミスではなく、そういう片付けをしただけの話しです。私の死後、弁護士を通じ、油井グループは私が信用のおける人物に譲ったりしているだけなので、従業員の生活は保障されています。
ただ、ただ、私は、母さんと、子供たちに残したくないだけだ。
私を苦しめ、私に、私という自由を与えなかったお前たちへの復讐だ。
母さん。戦争のさなか、空襲の中弟の手を引き防空壕に逃げ込み、酷い恐怖と、絶望を味わった私に、成長し、この洋館を建てた私に、事もあろうにあなたは、さすが私の自慢の息子だと言った。私は誓った。この母親に、生きていることへの絶望を与えるための復讐をしようと。
どうです? 明日から、あなたの住む場所は無いですよ。あなたが百歳を超えている今、働く場所など提供してくれる人は居ないでしょう。貸してくれる家もないでしょう。あなたはやっと、絶望を味わうのですよ。
茂道、美寿子、至、清明、お前たちの母親には、私の復讐話をし、その上で、母さんに与える復讐心で生まれてきてしまった。正妻に子供ができないくせに、愛人に子供を作らせる。だからと言って正妻と別れない。本当は、それで復讐になっていたはずだった。なぜなら、お前たちの母親は、母さんそっくりな女だから、正妻だった春子を追い出せば、自分が追い出されると解っていたからだ。
それなのに、あの日―。私は体が動かないほどの睡魔に襲われて眠っていた。気づいても、目を開けるだけで、体を動かすことなどできなかった。
春子よ、春子。お前を傷つけないと誓い、男から受けた傷を負ったお前を庇護すると誓ったのに。
母さんは、そんな春子を包丁で脅し、私に睡眠薬を飲ませた状態で、」弁護士は言葉を切り、一同を見渡し、
「春子は妊娠した。春子の精神はすでに壊れていただろうが、子供が出来たことで母性が目覚めた。二人で話し合い、私は春子を遠方に逃がした。だが、母はその春子を追いかけ、双子を生んだ春子から一人を取り上げてきた。
私は春子に謝罪に行き、生活費の援助を申し出たが、春子は「あの母親に関わりたくないから、いらない」と拒否した。だから、夏生が近づいてきたときには、素直にうれしかった。ただ、夏生が復讐を持って近づいてきたことに、親子を感じたが。
春子は私に電話をよこし、夏生を止めてくれと頼んだが、誰も殺させないし、彼が捕まることは無いと諭し、私の思うとおりに動くように仕向けた。
思いついたのは、兄が餅をのどに詰まらせ、弟が火事で死んだと連絡を受けた時だった。
双子用に二冊買っていたマザーグースの絵本を思い出した。
できるならば、この通りに事が起これば、気づいてくれるのではないかと、期待して。
茂道の会社が不正工事をしているのは知っていたので、私の死後調査が入るよう、知り合いに頼んでいる。彼は不正を内部告発するように。
美寿子の不倫には本当に飽き飽きしていた。その都度、私の財布から金を抜き出していたのも知っている。そんな母親から生まれたのに、舞子―美寿子の一人娘―は性格がよく、父親に似て美人だ。だが、性格はお前そっくりに陰湿で、だがその性格を変えたいと思っていた。
ある日、舞子が私のもとへ来て、母親の不貞を懲らしめたいと言った。私は証拠写真を撮り、それを相手の家族に見せることを提案した。あの子はそれを実行するだろう。そういうことをすることに何の躊躇もしないだろう。
さて次は、そば蜂蜜を作っている男に恩を売ろう。以前知り合った男だが、今、経営難だと言っていた。援助をすれば、線香と、お菓子ぐらいは送ってくるだろう。
母さんが跡取りの秋史をかわいがり、一人だけ上等なものを食べさせているのだから、ニシンにしようか、それとも、ハムにしよか。マザーグースはニシンだと言っている。ニシンにほんの少し菌を入れて置こう。それを食べるも、食べないも、秋史の運だ。だが、母さんはニシンが好きでしたね。大事な跡取りの運命は、母さん次第のようですね。
そういうことで、私の遺言は終わりだ。
そう言えば、六花はがっかりするだろうか? 六花、六花。私の大事な六花。お前だけは幸せにならなければいけない。夏生を連れてきたとき、運命だと思う反面、なぜだと思ったが、お前の幸福そうな顔を見て、私は、彼らに復讐することを決めた。お前の未来のために。
六花。お前は、唯一私の子供ではない。春子の子供でもない。お前は、真白 正志君の娘だ。真白 正志君と、圭子さんの子供だ。
真白君は私の旧友で、私の初恋の相手だ。そう、私は男性が好きだった。どうしようもないこの感情を、男に乱暴された春子といたわり、世間体をもって結婚した。
私は女を抱く気は無く、春子もまた男に触れられたくはなかった。最初のうちはよかった。世間体だけの結婚だが、春子は性格のいい女だったし、住み込みの使用人たちからの信用もあつかった。
やはり、諸悪の根源は、あなたですよ。母さん。
病となり子供の見込めなくなった兄さんを捨て、お前が油井家の跡取りだとあなたが来た時から、歯車が狂った。
私は、春子と別れる気は無い。だが、外で子供を作ることにした。愛人たちには母親に復讐するためだと言い、生活の面倒を条件に子供を産ませた。
家に子供が居ないのに、外に居るような息子に絶望し、そして家が絶えることに悲観し、早く死ぬとばかり思っていたが、一向に死ぬ気配がない。
それどころか、私に薬を飲ませ、春子を脅したあの夜のことを私は忘れない。
春子は泣きながら私に馬乗りになっていた。あなたはそんな春子を引っ叩いていた。
あの後私はどれほど春子に謝ったか。春子はそれをすぐに許してくれ、相手が私であるのだから構わない。と言った。
そして双子を身ごもった。だが母さんは双子だと解ると、今度は、春子を襲い流産させようとした。双子は家を潰すと言って。私は慌てて春子を遠方に連れて行った。
双子が生まれたころ、母さんは春子を見つけ、秋史を連れてきた。
春子はそれで母さんとの関係が絶てるなら、秋史を守ってくれと泣いた。だから私は愛人の子供をすべて引き取った。母さんの溺愛や、いじめが秋史一人に向かないように。
案の定、十歳以上離れている茂道や美寿子が弟たちをいじめ始め、母さんは二人を毛嫌い、二人もまた母さんを嫌った。だから、秋史はまだ母さんの毒気には当たっていない。もし、母さんに毒されていたら、絵描きになりたいとさえ思わなかっただろう。だが、何不自由なく育てたばかりに金の計算ができないバカになってしまった。お前には、それはそれで酷な育て方をしたと思う。
その頃だった。真白君が亡くなったのは―。ボクの心のよりどころだった真白君の死亡に、絶望したが、一人娘の六花が親戚中で厄介者扱いされていると知り、私はすぐに引き取った。
六花が真白君の子供で、私に
できる限り母さんの毒に当たらないように、世間並みの常識と知恵を授かるように育てたつもりだ。真白君の大事な一人娘だから。
だから、六花には、真白君たちが残した保険金が入るようになっている。これは私の遺産ではなく、君が受け取るべき、君の両親からの遺産だ。決して、油井家のものが好きにできるものではないから、安心して自分の未来に役に立てるといい。
そして、年に一度、お前とだけ行ったあの別荘だが、あれは、お前の実家だ。真白君は写真家であの家を大変気に入って購入したんだ。圭子さんが作るピザは旨かった。ハイカラなのは、彼女が旅行好きで、なかなか海外へ行こうという日本人が少ないころから、彼女はバリバリ働き海外に出かけて行っていた。
お前が語学堪能で頭がいいのは恵子さん譲りだろうし、美的センスが良く、感性が豊かなのは真白君譲りだろう。お前は本当に圭子さんに似てきたし、真白君そっくりだ。お前を見ていると、真白君に恋した気持ちが思い出されて、最近はつらかったよ。お前と別れることだけが。
六花。お前には感性と見る目がある。お前が幸せになれる相手に大事にされながら一生を終えることを私は望む。あの家の鍵は、お前と私しか知らないあの場所にあるから、三十一日以降はあの家に住むといい。
さて、長々と書いたが、いくらの私も、母さんほど意地が悪いものではない。多少の施しはある。
子供たちには、その母親に心ばかりの謝礼を込めて金を振り込むようになっている。それを頼るか、自立するかはお前たち次第だ。
さて、百歳を超えた母さんはどうしようか? いい場所が見つかりましたよ。あなたが一生行くことを嫌っていた、山奥の老人ホームに空きがあるそうです。そこへ行くように手はずを整えています。嫌がっても、あなたの行き場はそこしかありません。
最後に、夏生。春子を泣かさないでくれ。春子を一人にさせないでくれ。そして、恨むならば、このどうしようもなかった私を恨むように。
そういうことなので、それでは皆さん、ごきげんよう
八月三十日 油井 公人」
一気に風が吹き込み、弁護士が分厚い手紙を封筒に入れる音だけが聞こえてきました。
「財産分与として各愛人の皆様に、十万円ずつの支給をさせてもらいます。
土地、建物、油井グループ内の、外食チェーンは破産処分として担保補填となり解体。そのほかの油井グループ企業は、それぞれすでに人手に渡っております。
油井 公人氏の遺産としては以上です。
そしてこれからは、油井 六花様、いえ、真白 六花様が受けるべき遺産内容です。
真白 正志、圭子ご夫妻の死亡保険金1000万円と、―市―町―番地の土地、家屋の全てがあなたのものです。相続税などの手続きはすでに、亡くなった二十年前に執り行われ、六花様が成人になるまでは公人氏が後見人とて管理されておられました。六花様が成人されましたので、六花様が保有することになります。
大奥様の、武子さん。明日、渓谷老人ホームからお迎えが来ますので、ご用意のほどを。
それでは私はこれで、」
と弁護士が立つので、茂道さんや、美寿子さん、大奥様が引き留め、
「遺言書の異論があれば申し出ができるはずだ」
というのを、弁護士が「確かに一年以内ならばできますが―」と言い、カバンの蓋を閉めながら、
「何が不服なのでしょうか? 破産宣告をされた方から何を相続するというのでしょうか? 愛人であった方への支払いはもうすっかり済み、その方たちからの引き落としの報告はいただいております」
絶句でした。愛人であった方たちというのは、彼らの母親ですか。でも、茂道さんたちの母親は痴ほう症で入院しています。引くことはできない。と言ったら、
「病院の入院費が滞っておられたようですが、現在、病院から支払いの請求は来られていますか?」
という言葉に、絶句でした。彼らは母親の入院費を半年ほど払っていなかったようです。その催促が無くなったけれど、母の面倒を見ているいい病院だと言っていたが、実はすでに遺産分与として支払われていただけのようでした。それを知った時の兄妹げんかはすごかったですね、入院費を払ってなかった方が悪いとか、どっちもどっちの喧嘩でしたよ。
清明さんは静かに、公人氏が亡くなる前に、今後のことについて聞かれた時、母親が一人で寂しいかもしれないと言われ、母親と連絡を取り合っていたそうで、母親のもとへ帰るのだと言っていました。何も考えていなさそうだった彼がまず動いたことに驚いたのですが、公人氏は一応、子供たちに今後のことを聞いていたようです。
秋史さんは、春子さんに振り込まれたお金、直々に春子さんから夏生さんと半分にしたお金を受け取っていて、絵の勉強をしにフランスへ貧乏旅行へ行くと言い出しました。
至さんは、最初こそお金を拒否していたようですが、母親と、奥さんの説得で受け取り、お子さんの養育費に使っているということでした。
そう、公人氏は、全く残さなかったわけではなく、贈与税として適応されない程度のお金を少しずつ子供たちに分け与え、だいぶ前から独り立ちすることを促していたのでした。
それに気づかなかった、大奥様と茂道さん美寿子さんだけが、慌てて、狼狽する形となったけれど、結果的には大団円と言ったところでしょう。
秋史さんと清明さんは夏生さんを弟して受け入れたし、やった行いについても、公人氏がしたことなのでと許していました。茂道さん美寿子さん兄妹は違ったようですが、でも、夏生さんがやったことでないので、怒りの矛先が無く。大奥様に至っては、山奥の、姥捨て山だと毛ぎらっていた場所へ行かなくてはいけない恐怖と言いましょうか、そのことで頭がいっぱいになり、あれほど元気だったはずが、う実は身動きすらできないほど年を取っていました。
引き取りに来た人によれば、ショックから急に老けたのだろう。ということでした。
そう、翌日。油井家の最後の日は静かなものでした。朝ごはんとして、筒井さんが最後のおにぎりを用意してくれただけの朝食をとり、順番に出て行き、最後の最後まで、茂道さんや美寿子さんはどうにかしろなどと言っていましたが、茂道さんは警察が、美寿子さんは病院のほうが引き取りに来ました。美寿子さんですけど、退院してもご家族、旦那さんと娘さんは引き取り拒否を示しているようです。
茂道さんの方の裁判は結構長引くようです。工事中の物件だけでなく、すでに人に貸している物件でも手抜き工事があったようなので、損害賠償など大変なようです。
大奥様ですけど、あっという間に年相応の、おとなしいおばあちゃんになっているようです。ただ、誰も面会には行っていないようですけど。
六花さんと、夏生さんですけど」
エミリはそう言って少しだけ笑顔を見せ、
「夏生さんの母親を交えて、友達から付き合うことになったようです。そのうえで、交際するかどうかを決めるようです。
夏生さんは、今まで働いていた会社にそのまま残ることが出来るようですし、六花さんは大学卒業を目指して頑張るそうです」
エミリはそう言って口を閉じた。
「そう……六花さんが、幸せになれるなら、いいのじゃないかしらね?」
一華はそう言うと、エミリも同調して頷いた。
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