そして、誰も、いなくなれ
松浦 由香
第1話 ディオゲネス・クラブ
さすがに―。夜の九時を回ると寒い。一月二十六日。まだまだ春には遠く。鋭利な風が肌を削いでいく。
もう、この、二、三日の、言いえない、気苦労と言ったら、無いわぁー。と大きくため息をこぼす。どうにかしてこの疲労を、寒さを癒してくれるものはないだろうか? と思考する。
「おでん」「焼き鳥」そんな暖簾や提灯が目に入るが、それが癒してくれないことを八尾 エミリはよく知っている。彼女は下戸だ。酒の匂いで酔ってしまう体質には、酒の席がどうにも苦手だった。では、彼女を癒すものは? 早く電車に乗り、最寄り駅まで行くまでの十数分間、買ったばかりの小説を読むこと―。それを楽しみだと変換して、重い足に気合を入れて動かす。
目の端に何か引っかかるものを見た。エミリは立ち止まり、一歩、一歩、一歩後退する。そして、そのまま目だけを左右に動かした。
左から―左じゃない。ゆっくりと、ゆっくりと、左から、正面、そして右へと動かす「ディオゲネス・クラブ」と書かれた看板が目に入った。その途端、エミリの心臓が小躍りした。
―ディオゲネス・クラブ!―
活字で示すとあまりにも感動が薄いが、それはリオのカーニバルと、ネズミの国のパレードと、全世界の花火が同時に上がり、鳴り響き、踊り、地を揺らすほどの興奮だった。
なにも疑わずにエミリはそこへと向かった―。
それが、五分前、いや、もう十分前かもしれない。酒の匂いが充満し、それ以上の香水の匂いでくらくらする。あぁ、気分が悪い―。
店の入り口、戸を開けて一歩入った状態で固まってから、エミリは従業員の応対にも答えず、ただ唖然と立ち尽くしていた。
店の中の人が、入り口が開いていて寒いからとか、とりあえず入るかどうか決めてくれとか言っている―気がする。が、体が動かないのだ。すでに酔ってしまっているから。そんな気分の悪い中、ひときわ盛り上がった声で登場した「ヒカル」というホストが近づいてきた。
「大丈夫?」
随分と優しい声に、エミリが戸を掴んでいた手を放し、口をふさいだ。
「す、すみません」
ひっそりとした静かな事務所だった。
蛍光灯は白々しく部屋の中を照らし、水を入れてくれた派手な男は「匂いでも酔っちゃう人が、あそこへ行くのは大変だったねえ」と言いながら水をよこしてくれた。
長髪にはウェーブがかかっていて、栗色に染めている。目じりのしわさえなければ一世代昔のロックン・ローラーで通用しそうな見た目だが、ピンク地に白い水玉のパジャマを、さらに言えば、ズボンにインしている姿のギャップにいろいろ「つらい」。
彼は白戸と言った。今休ませてもらっている事務所、九十九何でも屋の社長だと言った。
「本当に、すみません」
エミリはもう一度謝った。
「いいよ、いいよ。どうせまだ起きてたし。いやぁ、最近寝るの早くて、六時とか、七時に眠くなるんだけども、そうすると、この時間に目が覚めちゃうんだよね。年だねぇ」と笑う。
先ほどエミリが入ったのは、この事務所が入っているビルの隣で、ディオゲネス・クラブは、ホスト・クラブらしい。しかも、この界隈一の店らしく、あの「ヒカル」という人は生ける伝説とか言われているNO.1ホストだと聞いた。
ディオゲネス・クラブの控室でも休ませようとしてくれたのだが、酒の匂いがだめだと言ったら、ここに運んでくれたのだ。
長椅子に寝転び、暖房の温かさに包まれ、酒の匂いも忘れると、自然に生理現象が復活する。―腹の虫がけたたましくなる―こういう時の腹の虫の音量を調節する方法を教えてもらいたいものだ。
白戸は声を出して笑い、電話をかける「あぁ、淳ちゃん? オレ。ラーメンと、あー、ちょっと待って、エミリちゃんはラーメンチャーハン? いける? 半チャーハン? ここのチャーハンうめぇから。そんでラーメンも、ギョーザも絶品だから。あ、普通サイズね、OK。いいよぉ、食べる子は好きだ。あ……大食いとかじゃないね? 了解。つうことで、ラーメン、チャーハン、ギョーザを……三人前、……ギョーザだけ四で」と言って電話を切った。
「あ、あの、そんなに食べれませんけど、あ、あの、お金」
「いいよ、いいよ。ディオゲネスにね、ヒカル目当てじゃなく行く子っていうのは、貴重だから」
と白戸は笑った。それからテレビをつけ、事務所の奥、給湯室―先ほど水を汲んでくれた―ところに入っていった。
静かだ―。目の前の通りは昼間は商店街、夜は呑み屋街にちゃんとシフトする通りで、エミリが歩いていた時でも、多くの人が酒場に繰り出してにぎやかだったはずなのに、本当に静かだった。
時計の針の音に時計を見れば、エミリの家方面行の終電が終わったところだった。―あぁ、余計な出費だ―帰りはタクシーで帰るのはつらい。給料日前なので余計な出費は控えたかったのだが、致し方ない。いくら体を起こせるようになったと言えども、まだ、不思議なことに足が動かない。それが、酒の匂いの所為か、自分が持っているストレスの所為か。と言えば、―ストレスだろうなぁ―重くため息が出る。
エミリはストレスから解放されたくて、事務所内を見渡した。とにかく、ストレスを忘れるために、他の情報で頭を埋める必要があったのだ。
事務所はいたって平凡な事務机が窓ガラスの良いところに一つ。多分、先ほどの白戸の席だろう。その前、事務所の中央に向かい合わせになって机が二個置かれている。つまり従業員の席だろう。向こう側の卓上は見えないが、こちら側の机の上にはノートパソコンが置かれているだけで、資料のファイルや、紙の類など見えない。だからわかるが、向こう側の机の上には、いろんなものが載っているようだ。書類ケースなどは見たことがあるものだし、パソコンはデスクトップで、かなり大きい容量のものの気がする。あまりパソコンに詳しくないが、一度、パソコンが壊れた時、内容量の割に冷却が小さいせいだし、電源も小さいですねと言って取り換えられたものが大きくて、場所を取った。だが、それ以上のものがあのパソコンにはついているようだった。
事務所には、エミリが寝かせてもらっているソファー型と、一人で腰かけるソファーの応接セットがあり、壁には、事務所や、学校でよく見る灰色の鉄の、愛想も、可愛げもない棚が置いてあった。ホワイトボードは真っ白く、何かを書いては消した跡が見えたが、何を書いていたかまでは解らない。磁石、青、赤、黄色、緑などのカバーのついた丸いマグネットがあるので、テレビなどでよく見る足跡を調べるときなどにいろいろ使うのだろうと想像する。
入口の方には、電話、FAXを備え付けた大きな電話と、各人の携帯の充電コードがぶら下がっている。その横に給湯室の入り口があり、白戸がニコニコしながら立っていた。
「あ、いや、あの、その」
「いいよ、いいよ。観察して。どんな感じ? 俺の事務所」
「え? どんな、感じと言いましても、」
なんという質問だろう。エミリは本心で困った。殺風景な、どこにでもある事務所。という以外の感想が浮かばないのだ。
「本当はさぁ、革のソファーが欲しかったんだよ。本革の濃い茶色のね。あと、この机もさぁ木のやつが欲しかったんだけどね、俺の何がね」
エミリが眉を潜ます。それを見て白戸はにやりと笑い、
「嫁がね、脱サラしてまで何でも屋なんぞやりたいってことを認めただけありがたいと思えって言い捨てちゃって。あ、一応、俺、孫までいるんだ。これ、孫からのプレゼント」と言ってパジャマをつまんだ。
「嫁は、隣町に住んでるんだよ。ここはもともと俺のじいさんがやってたとこでね、俺が相続したんだわ。嫁はこういうの大っ嫌いで、今でも堅実に隣町でフルタイムの仕事して貯蓄してる。ので、本革のソファーは却下。おかげで、やっすい応接セットはそのまま利用し、この机も、棚も、山間の学校が閉校するんでその処分に駆り出された時にもらったもの。だからね、あの棚よく見るとさぁ、何年生。とかって書いてんの」
というので、壁の棚のほうを見たが、目を凝らしても見えない。そりゃそうだ。眼鏡が無ければぼんやりとしか見えないのだ。慌てて眼鏡をかけ、見れば、たしかに、「一年生社会」とシールが貼ってあった。
眼鏡をかけて改めてみれば、やはり高性能らしいパソコンや、書類の多さが解る机と、簡素な机の対比が面白い。
壁には書き込み型の月ごとカレンダーが一年分横に貼られている。一月から順に壁を覆っていて、一月のところには赤と青と黒で文字が書いてある。「ハナ―猫」「ミノ―重」「おーふ」いろんな文字があれど、全て「ハナ―」「ミノ―」「オー」となっているので、担当者の振り分けなのだろう。
「そろそろ来るぞ、」白戸が言ったそばから戸が開き、長い髪を無造作にひっつめただけの女性が入ってきた。化粧っ気のない、かなり顔色の悪い顔をした女はエミリを見て眉をひそめたが、ソファーに座っていること、毛布を膝にかけていることから、すぐさま給湯室のほうを見る。
「どっち?」
えらく端折った質問だ。エミリは直感的すぎるほど素早く頭の中で突っ込んだ。
白戸がにやりと笑うと、「毎度ぉ」とそう言って岡持ちを二つさげた男が乱入してきた。
「おお、一華ちゃんお帰りぃ。残業かい?」
女は一華というらしい。手を擦りながら男からラーメンを受け取ると、エミリの前のソファー、一人掛けの椅子に座り、にやにやと笑いながらラップを外す。
「寒かったんでありがたい」
そう言ってスープをどんぶりを傾けてすする。あぁ、なんておいしそうな匂い。そしてなんて美味しそうにスープを飲むんだろうか。と思っているエミリの前にも、チャーハンとラーメンとギョーザが置かれた。
「えっと、―円です」
と出前が言うので、エミリは、一華の隣に置いてある自分荷物に手を伸ばそうとするのを、一華がその上に手を置いて邪魔する。出前が白戸からお金を受け取り出て行った。
「あの、お金」
「いいの、いいの。さ、温かいうちに食べよう」
白戸はそう言ってエミリの隣に座り、エミリに割りばしを差し出した。
すみません。と言ってラーメンをすする。―あぁ。おいしい。五臓六腑にしみわたる。というが、嘘ではない表現だと思う―。
チャーハンもほろほろとしていて絶妙な味加減で飽きさせず、至福感が半端ない。ギョーザは昼間食べるにはニンニクが効いているようだが、別にいいのだ、もう夜だし、明日は日曜で休みなのだから。
エミリがラーメンを半分、チャーハンを二口ほど、ギョーザ―を二つ目を食べている時、ディオゲネス・クラブの「ヒカル」が入ってきた。
「どう? 具合って、あー、
エミリが眉を顰める。先ほどはキラキラしていて、この世にこんなキラキラした人が居るんだと思ったが、今目の前にいる人は、一華の分を横取りしようとする、自分と同世代か、少し上のおじさんだ。
「辞めろって、こぼれるだろ、ばかっ」
白戸の怒声も相まって、まるで昭和の兄弟げんかを見ているようだった。そういえば、エミリの兄弟も、兄と弟、―本当に兄弟の間に生まれたのだが―いつも食べ物でも、おもちゃでも取り合っていた。十八歳、大学進学を期にもうそんなことをしなくてよくなって、はや幾年。すっかり忘れていた光景に少しセンチメンタルになる。
「あぁ、ところで、大丈夫? って、大丈夫そうでよかったよ」とヒカルがギョーザとラーメンを頬張りながら言った。と思う。
エミリは苦笑いを浮かべ、「ご迷惑おかけしました」と言った。
「いやいや全然。むしろ、うれしかったよ。ディオゲネス・クラブに来て、ディオゲネス・クラブじゃないって言ったの、初めてだから」
「あ、いえ、すみません。勝手に勘違いして、ホスト・クラブって、多分、看板に書いていたのに、もう、ディオゲネスって文字だけで、つい」
エミリは恥ずかしくなって俯いた。
「へぇ、ディオゲネスを知ってるんだ」
一華は満足そうに背もたれにもたれていた。一華が残したラーメンとチャーハンをヒカルがむさぼっている。
「あ、いや、ええ、まぁ」
「エミリちゃん、仕事何? あ、聞いちゃまずい?」
白戸が話を変えるように聞いた。エミリは別に構わないと前置きをして、
「あ、私、」と鞄から―ヒカルが座るために鞄はエミリの足元に移動させられたので、今度は一華に邪魔をされずに済む―名刺入れを取り出し、順に手渡す。
「白樺大学 イギリス文学准教授……なるほど」三人が声をそろえる。
「はい」
エミリはすべてを話したつもりになった。
そもそも、ディオゲネス・クラブと言って、そしてイギリス文学を勉強していると言えば、少なくても通じるものだと思う。
ディオゲネス・クラブのディオゲネスとは、古代ギリシャの哲学者の名前で、頭はよかったようだが―エミリの感想だが―犬のような生活をするという一風変わった思想を持ち、風変わりなことをしたとされている。だから、このディオゲネス・クラブというのは、そういう逸脱した変わった人たちが集まるクラブとして、シャーロック・ホームズを生み出した、コナン・ドイルが作中に作った場所だ。
現に今の世の中、老人がまわりを気にせず引きこもったり、可笑しな行動をとることをディオゲネス症候群と呼んで問題視している。老年期に入って人目をはばからなくなることをさすようだが、とにかく、人と違う変わった人をさすようになった。
エミリがこのディオゲネスを知ったのも、愛するホームズの兄マイクロフトがこのクラブの会員だからで、強烈な名前のインパクトに、当時小学校四年生で図書館へ行って調べたのだ。自宅にある子供向けの国語辞典にはディオゲネスは載っていなかったのだ。調べて、載っていない理由が解ったが、すべてを理解したわけではない。なんとなく、恥ずかしいことを人前でする変なお爺さん。のこと。として認識したのだ。後々、耳年増となってようやくその行動の意味を知り、なんという哲学者だ。と思ったほどだった。
だから、ディオゲネス・クラブなどと言う文字を見て、咄嗟にイギリス文学に接することが出来る。もしくは、イギリス風の喫茶店。時間的にはパブであろうが、酒が飲めないエミリには喫茶店という発想しかなかった。
それだから、入り口を開けた瞬間のあの香水と酒の匂いに身動きできなくなったのだ。
「エミリちゃんは、マイクロフト派? シャーロック派?」
白戸の言葉に現実に引き戻されたように意識を戻し「シャーロックです」と頬を赤めて言った。
「俺、ワトソン派」とヒカルが言った。
「あんた店は?」一華は冷たく言い放つ。
ヒカルは首をすくめ、「いやぁ、こっちが気になってさぁ。だって、ディオゲネスを知ってる子っていないからね。って店で言ったらさ、なんか今日のヒカルはぁ、つまんなーいとか言って指名取り消されてね」と笑う。
嘘だ。こいつは短時間だけ適当に「きれいだね」「肌ツヤツヤ」などと言っては
隙を見て店を抜け出すやつだ。本来「仕事をしたくない」奴がなぜNO.1ホストなのか不思議でしようがないが、店にいる時間が少ないという希少価値のようだ。そういう点でも、ディオゲネスなのだろう。
「私の所為ですね。すみません」
とエミリはカバンから財布を取り出したので、一華がまず眉間にしわを寄せ、
「なんで財布出してんの?」とひどく冷たく不機嫌に言った。
「いえ、あの、ご迷惑料と、食事代と、」というと、
「要らないって言ってるでしょ。人の行為は素直に受けな」と言い捨てられた。
エミリにしてみれば見ず知らずの人にごちそうしてもらうのは気が引けるようで、でも、だとか、それは、とか口ごもっている。
「じゃぁ、とりあえず、面白い話してくれたらチャラにするよ」と言い出したのは白戸だった。すでに白戸は自席―やはり窓ガラスそばの大きな席は白戸の席のようだった―に座っていた。
「面白い話、ですか?」
「面白くなくてもいいよ。エミリちゃんが気になっていることでも」
エミリは喉を鳴らすほどつばを飲み込んだ。顔に書いているのだろうか? それとも一瞬気を失った時に、口走ったか? いや、一瞬気を失ったぐらいで何を話せるというのだろうか? そもそも、そんなに何かを抱え込んでいるような顔をしているのだろうか?
エミリが肩から、何かが重く圧し掛かっていくように前に屈もうとするのを止めたのは一華だった。
「さて、寝る」
「こらぁ、お前、聞いてたか? 今からエミリちゃんがさぁ」
すでに立ち上がった一華の腕を掴みヒカルが怒鳴る。本当にこの人はあのホストクラブに居た人と同一人物なのだろうか? と思ってしまう。
「人の悩み事を解決できるほど崇高じゃないから」
「いや、そうじゃないだろうよ、そこは。話せば楽になるよぉ。三人寄れば文殊の知恵っていうだろ、なんか解決方法が見つかるかもしれないぞって、」
「解決方法っていうものがあるのかどうか、」
エミリがぼそっと言った。はっとして顔を上げると三人がこちらを向いていた。
「あ、あ、あ……あの、ですね。……えーと」
エミリは今ここで話さないと、多分、自分のほうがつぶれそうな気がして、そして話す覚悟を決め、とにかく頭の中で順番を決めた。
「困っていると言えば、困っているんです。仕事をするのに、なんだかギスギスした空気に耐えられないというか。それでも、あと三日の仕事ではあるんですが、その三日が耐えれるかどうか。気の持ちようだと思うのですが、いろいろ知ってしまったので。知ってしまうと、気になってしまいますよね? 気になると、どうしても、その不穏な空気を感じてしまって」
エミリはそこで口を閉じ、少し俯いて、食べ終わってきれいになった皿を見つめた。頭の中でとりあえず話を構築しているようだ。
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