監獄のヘレネ
狗須木
ファム・ファタール
「小隊長……! あの捕虜を前にして、正気を保つなど……俺には、無理でした……ッ!」
部下からの情けない報告に思わず眉間を押さえる。
これで我が小隊に残された人員は己のみ――――想定外の事態に頭が痛む。いくら新人ばかりと言えど、部下達は日々真面目に鍛錬を行う者ばかりだ。決して軟な根性は持ち合わせていない、はずだった。
このような体たらく、上に知られてしまえばどのような叱責を受けることか…………部隊長の顔を思い浮かべるだけで胃が痛くなる。
いや、まだだ。まだ大丈夫なはずだ。
知られなければいいのだ。
報告しなければいいのだ。
問題を無かったことにすればいいのだ。
まだ、この問題が管轄内にあるうちに…………解決、すればいいのだ。
「…………わかった。俺が行く」
項垂れる部下達を前に宣言し、戦場へと赴かんばかりの気概を持ってその場を後にした。
そして、尋問室で出会ったのは――――
「ヘレネと申します。騎士様、本日はよろしくおねがいします」
――――女神だった。
***
心臓が止まるかと思った。
それほどまでに彼女、ヘレネの美貌は衝撃的だった。
染み一つない陶磁のような白い肌に、耳に心地よい透き通った声。絹のように光り輝く金色の髪と、長い睫毛に縁取られた大きく丸い碧色の瞳。ほんのりと赤く色づいた頬や小さな唇は瑞々しく、熟した果実のような甘い香りが漂っている。
美の権化だった。これほどまでに美しいものは見たことがない。
とはいえ、騎士とはいえ彼も貴族の端くれだ。見目麗しい令嬢や婦人を目にしたことはもちろん、言葉を交わしたことなどいくらでもあるし、その度にいちいち見惚れていては騎士の名が廃る。顔はもちろん、言動にまで動揺を出すなど以ての外だ。
以ての外、だったのだが…………ヘレネを一目見た瞬間、彼は硬直してしまった。
「あの、騎士様……?」
尋問室には彼とヘレネだけでなく、扉を護る騎士が一人立っているのだが……その騎士はヘレネと言葉を交わさないのをいいことに、思う存分鼻の下を伸ばしていた。尋問室の異様な空気になど気づかない。
「……………………失礼した。私は第二騎士団第三部隊所属、ベルトランだ。以後、ヘレネ嬢の尋問を担当する…………そこの椅子に座れ」
彼、ベルトランは真っ白になった頭を気合で立て直した。
尋問室の出入り口近くに立っていたヘレネは小さく頷き、テーブル越しにベルトランの向かいにあった椅子に腰掛ける。
二人の物理的距離が縮まった。
「……………………では、始める。以前までと同じ問いを繰り返すかもしれないが、気を悪くしないでくれ。急なことで、引継ぎが上手くできていない」
「はい、分かりました」
ヘレネが淡く微笑む。
距離が縮まったことで、余計にヘレネの美貌が五感を刺激する。心臓は鼓動を早め、体は火照り、頭がクラクラする。気を抜けば、その純白の肌にむしゃぶりついてしまいそうだ。
任務を放り出し、本能のままに体を突き動かそうとする獰猛な欲求を抑え込む。部隊長が鍛錬中に胸筋を盛り上げて見せびらかしていたのを必死に思い出し、昂る自身をどうにか鎮める。テーブルの上で組む手を、骨が軋むほどに強く握りしめる。
ベルトランは内心舌打ちした。間違いない。これは
捕虜には魔法封じの腕輪が着けられる。今もヘレネの細い腕には無骨な黒い腕輪があるというのに、平気な顔で魔法を使っているのだ。可憐な見目に反し、かなりの魔法の使い手らしい。
部下が何人も使い物にならなくなるわけである。
とんだ大物がいたものだ。間違いなく、ヘレネの存在は鍵となる。
絶対に、逃さない。必ず、この手で、事件の真相を暴いてみせる。
ベルトランは己を鼓舞し、蕾がほころぶように華やかな笑みを浮かべる女を見据えた。
…………ただの一目惚れだと気づかずに。
ヘレネに魔法は使えない。
仮にヘレネが凄腕の魔法使いだったとして、その時点でベルトランの手に余ることは明白だ。彼は一端の小隊長にすぎず、多少魔法の心得があったところで
しかし悲しいかな、今のベルトランは恋に落ちていた。
惚れた女を誰かに渡すなど、到底我慢ならない。
そして、渡さなくても何の問題も無かった。
なぜならヘレネは魔法が使えないからだ。
中途半端な立ち位置と絶妙な食い違いが、ベルトランの独占欲を加速させた。
「…………お前達には殺人の容疑がかかっている。村を訪れた多くの旅人が行方不明となったからだ。村に遺体やその一部が無かったことから、森に隠していると疑われている。何か異議はあるか」
ベルトランの問いに、ヘレネが視線を落とす。
「私は……体が、丈夫でなかったので……村を訪問する方々とお会いする機会が滅多にありませんでした。なので、申し訳ないのですが、正直なところ、村の事情には少々疎くて……」
なるほど、とベルトランは納得する。病弱ならば、家の中で過ごす時間が長かったのだろう。肌は白く、体は細くなるわけだ。
となると、途端にヘレネの体調が心配になる。影が差し、憂いを帯びた表情に胸がざわつく。ヘレネにとって、今の捕虜としての環境は体に悪いのではないだろうか。
捕虜の身の安全は確保されなければならない。事件の解明を急ぐあまり、人道に反する行いをしてはならないのだ。
ベルトランは誇り高き騎士である。ヘレネの体調を気遣うことは、ベルトランにとって最優先事項となった。
「体が丈夫でないとのことだが、具合は悪くないか」
「はい、騎士や冒険者の方々にとてもよくしていただいているので」
自分以外がヘレネと接している事実を突きつけられ、少し気に入らない。尋問だけでなく、監視の任にも就くべきでは、と頭の片隅で考える。
「無理はするな。何かあれば言ってもらってかまわない」
「お気遣いありがとうございます」
ちなみに、ヘレネの村では狩猟採集が基本となる原始的な暮らしが営まれている。彼等にとっての”丈夫”とは、狩りの際に何時間も走れるだとか、森の中で何日も野宿できるだとか、そういった野蛮じみたものである。
そしてヘレネは冬の川で水浴びをすればほぼ確実に風邪を引くし、一日何も食べなければ動くのが辛くなる。一晩寝ずに見張り番をしようにも、どうしてもウトウトして立ちながら寝てしまう。
人間なので当然といえば当然なのだが、村の基準だとヘレネはかなり貧弱だった。
それに比べれば、安全な屋内で寝起きでき、毎日三食付きの今のなんと贅沢なことか。その食事だって、村に存在しない調味料が使われていて驚きの連続なのだ。
何も変わったものを与えられているわけではない。保存食に少し手を加えた程度で、平民ならば日常的に食べているようなものだ。しかし、その程度であっても、食事によって我等を懐柔しようとしているのでは、などと言われるほどには、村の暮らしは質素であった。
つまり、全く、これっぽっちも、体調を崩しそうにない。
「話を戻すが、村の中に不審な動きは無かったか。些細なことでも構わない」
「うーん……特に思い当たることは、何も……」
「では、普段どのように過ごしていたか聞いてもいいか」
「ええ、もちろんです」
ヘレネは必死だった。尋問官はベルトランで十数人目になる。そのほとんどがヘレネとまともに話すことなく姿を消したのだ。
それは常日頃から村で一人前に働くことができないヘレネの劣等感を刺激した。話を聞く価値すらないと、一目でそう思われるほど自分が無能に見えるのだと、そう解釈してしまうほどにヘレネは役立たずだった。
村の女性に求められるのは、男性と肩を並べられる強さだ。走り、跳び、投げ、戦う。森で生きる力こそが美であり、家の中で機を織り、服を繕い、料理をし、洗濯をし、掃除をし、手仕事に様々な雑貨を作るだけのヘレネは、村の男性にとって美人とは言えなかった。
ヘレネは役に立ちたかった。村を救うために、できることは何でもしたかった。
同時に、ヘレネには打算があった。ヘレネは結婚適齢期なのだが、村で相手を見つけるのは絶望的だ。しかし、外の人間が多く訪れている今ならば、運命の人に出会えるのでは…………そんなことを夢見るほどには、ヘレネは純粋だった。
そして、強かだった。
ピンチはチャンスである。
ヘレネにとって、尋問は婚活の場だった。
だからこそ、ヘレネは必死だった。ヘレネの前に現れる男性は、誰もが話すどころか目も合わせてはくれなかった。現状、片っ端からフラれている。
ベルトランを除いて。
「…………ヘレネ嬢は、そんなに働いているのか」
「私にはこのぐらいしかできないのです」
「しかし、家族がいるだろう」
「家族はみんな外へ働きに出ているので、他の事は私がしているのです」
「だが……それでは、本を読んだり、誰かと会ったり、そういう時間すら取れないだろう」
「それは……そう、ですね。でも、仕方ないのです」
「仕方なくなどあるものか。村の事情に疎くもなるわけだ」
「…………申し訳ないです」
「いや、すまない。言葉が過ぎた。ヘレネ嬢が謝ることはない」
ベルトランは憤っていた。か弱い女性を働かせる家族や村に。そして心に決めていた。ヘレネを必ず助け出そう、と。
ヘレネは気落ちしていた。己の無能っぷりに。そして覚悟を決めていた。ベルトランを必ず捕まえねば、と。
「となると、ヘレネ嬢の関与は無さそうだな」
「あ……で、でも、父はよく旅の方と話していたので、その時のことを思い出せば……」
「なるほど。では御父上からも話を窺おう。ヘレネ嬢はもう休むといい」
「も、もう少しだけ、お話させてもらえませんか、ベルトラン様」
「案ずるな。ヘレネ嬢の無実は明らかだ」
「では、また、お会いする機会を設けてはくれませんか」
「…………何か、あったのか」
「えっと……」
「いや、分かった。また明日、時間をとろう」
「ありがとうございます!」
監獄のヘレネ 狗須木 @d_o_g
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