恋の路上教習

木船田ヒロマル

恋の路上教習

「そこを左折で」

「はい」


 彼女の声が耳を打つ心地よい余韻を運転の集中力と意識して切り離し、ハンドルとペダル操作の精度を保つ。


「曲がったらスムーズに加速して四十キロ」

「はい」


 高くもなく低くもなく、どこか淡々としているがほんの少しだけ鼻に掛かる甘い声。


「左の自転車。合図出して避けて、合図して戻る」

「はい」

「あ、速度は気持ち落として」

「はい」


 狭い車内で彼女と隣合い、九十分間、僕はこうしてドライブする。


「はい加速」

「はい」


 免許は欲しい。

 だが、この空間が、この時間が、彼女とこうして過ごす日々が失われるのを耐えがたいと感じている自分を意識しながら、僕はアクセルを踏んだ。


***


「プロパン……ガス?」


 ひと月前。


 マップアプリの案内で教習所があるはずの場所に辿り着いた僕を出迎えたのは、想像してた路上コースを持つ学校のような場所ではなく、大きなプロパンガスの看板を背負ったガラス戸の小さな事務所だった。


(いや、ここで合ってる)


 トラックが行き交う郊外の二車線道路の脇の歩道でスマホの画面を確認し、目の前の煤けた事務所と見比べる。


 時刻は約束の時間の五分前。

 本当は十分前にはここに到達していたが、完全に通り過ぎて先まで歩き、引き返して来て五分前だ。


 電話で話したお姉さんは、今日この時間に入所手続きをするから、と言ってくれたのだが……事務所のガラス戸から中を伺っても、折りたたみの事務机の上にまさかの黒電話が乗っているだけで、人がいないどころか電灯すら点いていない。


 僕は溜息をついて、事務所の入り口に続く荒れたコンクリートの段差に腰掛けた。


 約束の十一時を過ぎてもう三分、いや、四分。


 免許停止になった人たちの為だけの教習所とか、なんか怪しいとは思ったんだよな……。どういうアレかは分かんないけど、詐欺的な奴に騙されたかな……。更新忘れで免許消えただけでも泣きそうなのに……なんだよこの状況……。


 僕が帰ろうかと腰を浮かせ掛けた時。


 国道から一台の教習車が歩道を越えて事務所の隣の駐車スペースに斜めに乗り入れて来た。


 ウィー……ンと運転席の窓ガラスが降りる。黒縁メガネの若い女性が


「猪原さん?」


 と僕の名を訊く。


「え、あ……はい」


「遅くなってすみません、私、そよかぜ自動車教習所の鹿野かのです」


 彼女はドアを開けて車から降りて来たが、その時にハンドバッグが引っかかり、中から書店のカバーが掛かった厚めの文庫本が飛び出した。

 文庫本はスロープの傾斜で加速を得て、国道に飛び出さんと滑り行く。

 彼女は忍者のような身のこなしで長い髪をなびかせ足を伸ばすとその進路を黒いパンプスで遮り


「はっ!」


 と短い気合いの声とともに文庫本の暴走を止めた。


 僕は、恋に落ちた。


***


「前は河原にコースも校舎もあったんですけど、河川敷が使用できない区画になってしまって。今はこうして仮免はある、免許停止の方だけを対象に教習してるんです」

「へえ……そんな教習所もあるんですね」

「父がオーナーで、今は私しか教官は居ません。私もうち以外こんな形の教習所は知らないですけど」


 彼女は僕を助手席に乗せ、よその、近隣では大手の「帝国自動車教習所」に車を入れて、その駐車場に停めた。


「はい。じゃあここからスタートです」

「え……帝国教習所さんの敷地から?」

「本免許の路上試験は帝国自動車教習所さんで受けて頂くので。うちではその本免許試験の四つのコースを走りこんで貰います。だからここからスタート」

「あ、なるほど」

「じゃ、とにかく行ってみましょうか。コースは私が指示します」


 こうして、僕と彼女の路上教習は始まったのだ。


***


 それからひと月ほどが過ぎていた。


 一通り教習を終えて、駅で解散。その駅までも、僕がハンドルを握る。


「猪原さん、緊張しいなのかなー、教習では、まあまず問題ない運転だと思うんですけど」

「すみません……卒検二回も落ちちゃって」

「いえいえ。責めてるんじゃないんですよ。私の教え方にも問題があるかも知れませんし」

「そんなことありません」

「なんか心当たりとかあります?」


 僕は少し考えてから言った。


「迷いが、ありますね。行くべきか、行かないべきか、みたいな」

「迷い?」

「自信がない、というか」

「あー、気持ちは分かりますよ。一回ダメになる経験をすると、こう、思い切ってガッと行けなくなるんですよね」

「はい」

「猪原さんは、真面目さやほかの車や歩行者への配慮が運転にも滲み出てますし、私から見て丁寧で正解な運転だと思うので」

「はあ」

「自信が持てない時は、私を信じて、もっとグワッと行っちゃってください。逆に止まる時はカッチリ止まる」

「どっちなんでしょうか」

「シチュエーションに寄ります」

「……ですよね」

「試験官に『迷いのある運転』と思われると減点対象ですから、内心ドキドキでも堂々として」


 僕は背筋を伸ばして胸を張った。


「私は大丈夫です、安心してくださいみたいな落ち着いた顔で」


 僕はハリウッド俳優のキメ顔のような表情を作った。


「アクセルかブレーキ、どっちかをグッと踏み込んで、あとは幸運を祈ってください」


「そこを迷うんですよ」


「セオリーでは、迷ったら停まれ、です」


 僕は背中を丸め、お腹が痛い時の顔で溜息をついた。


「でも、猪原さんの場合に限ってはギリギリで迷うなら思い切って行け! の方が結果が出るかも知れません」

「ほんとですか!」

「あなた次第です。ほんとになるよう頑張ってください。応援してますよ」

 

 そう言って笑う彼女の隣で、僕は背筋を伸ばしてキメ顔に戻った。


 そうだ。

 そうしよう。

 今日の卒業検定に合格したら──。

 免許を取り戻せることが決まったら──。

 その時は──。

 その時は──。


***


 試験が始まった。

 隣は三人くらい殺してそうな巨漢の初老教官。コースはA。彼女が張ったヤマは当たった。二車線をキチッと合図出して車線変更。交差点を右折し、すぐ左折レーンへ。四十キロまで加速。この先は歩道がなくなるから白線を踏むと一発アウト……。

 この一ヵ月、彼女と走り続けた僕の脳裏には、まるで僕専用のカーナビのように、コースのポイントの順を追って彼女の指示音声が記憶されていた。

 免許の更新を忘れる僕の記憶力がいいわけがない。

 僕が彼女のことが好きで、彼女の全てが好きで、その声が好きで、それを細大漏らさず記憶に残そうとする恋愛ブーストが個別の脳神経レベルで最大稼働したからだ。


 一時停止と再発進を卒なくこなし、コースの九割を終え、あとは教習所に帰るだけ。


 農業用水に架かる車一台幅の一本橋。向こうからは軽トラック。距離は微妙だ。待つか?

 いや。渡った先の方が道幅が広く、スムーズに道を譲ることが可能じゃないか?


「でも、猪原さんの場合に限ってはギリギリで迷うなら思い切って行け! の方が結果が出るかも知れません」

「自信が持てない時は、私を信じて、もっとグワッと行っちゃってください」

「グッと踏み込んで、あとは幸運を祈ってください」

「あなた次第です。応援してますよ」

 この一ヵ月の色々な場面が、彼女の言葉が、その笑顔が光となってフラッシュする。


「はっ!」

 僕は短く気合いを発するとアクセルを踏んで一気に橋を渡りきった。



***


 試験の間、彼女は一階のロビーで待ってくれていた。ロビーには天井から情報告知の為の液晶モニターが下がっていて、今は交通安全週間のおしらせが表示されている。

 

「お疲れ様でした猪原さん。どうでした?」

「今までで一番乗れてたと思います。でも、結果がどうかは……」

「きっと大丈夫ですよ。もし落ちてても、また一緒に頑張りましょう」

「…………」(正直、それでもいいな……)

「??? どうかしました?」

「い、いえ、なんでもありません」


 ロビーにブザーが鳴り響いて、モニターに今日の卒業検定合格者の受験番号が表示された。

 僕の受験番号は235963。


「あ! あります! ありますよ235963! ほら! あそこ!」

「ほんとだ! やった! 戻った! 免許!」


 僕は思わずガッツポーズをし、彼女は手を叩いて喜んでくれた。


「おめでとうございます猪原さん。これで晴れて卒業ですね」

「ありがとうございます鹿野さん! あの、それで、ご相談があるんですけど」

「なんでしょう」

「ご恩返し……お礼と言っては、なんなんですが、今度、その、何か美味しいものでもご馳走させては、頂けないでしょうか? お食事を、ご一緒に。もちろん、支払いの心配はなさらないで」


 彼女のメガネの奥の瞳が、驚いて丸くなった。

 しかしそれも一瞬で、彼女は少し頰を赤らめて俯くと何かを言い掛けて僕を見て、何も言わずにまた視線を逸らした。


 そして咳払いをして、深呼吸をした彼女は、小さな声で答えた。


「と、当日は……安全運転で、お願いしますよ」

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