第6話:HELLO WORLD
見慣れた閑静な高級住宅街。
何を隠そう、ここは私の大嫌いな場所だ。
経済的に裕福な家庭に一人娘として生まれてきたことは幸運だと思っている。
それでもたまに心がポカンとしてしまうのは、幸せではないという証し。
彼氏と手を繋いで歩いている最中に「幸せじゃない」なんて、私は一体なにを考えているのだろうか。ホント、自分でもどうかしていると思う。今すぐにでもセルフビンタをかましてやりたい気分だ。
「はぁ……」
「ため息なんかついて、どうしたの、香澄?」
「ちょっと疲れちゃっただけだよ。今日はたくさん歩いたから」
「やっぱりタクシーにした方が、良かったかな?」
「涼太はタクシーの方が良かった?」
肩を寄せてそう問いかけると、涼太はプイっと視線を逸らした。
さっきまで忘れていたのに、言葉にすると自然に出てきた彼氏の名前。
不思議なことに、温かくて、ほくほくした気持ちになれる。
少し肌寒いのも、忘れてしまうくらいに。
「僕は、別にどっちでも……」
「ふーん。そっかー。どっちでもいいのかー」
「本当は、歩きの方がよかった、です」
「ちなみにどうして?」
「それは、だって、その……」
ちょっとでもからかうと、涼太は決まっておどおどする。
相変わらず情けないけど、変わらず可愛い。
この時だけは、確かな幸福を実感できる。
やはり山田涼太という少年は、「誰か」を幸せにできる素質を持っているらしい。
もしも涼太がいなければ、空っぽの私は今頃どうなっていただろうか。
思い出すべくして思い出した。
欠くことのできない存在を、夢の中の住人にしてはいけない。
きっとそんな自己防衛本能が、私の知らないところで働いていたのだろう。
「香澄は? 香澄は歩きの方がよかった?」
「うん。もちろん。でも理由は教えてあげない」
「じゃ、じゃあ僕も秘密ってことで……あはは〜」
はぁ。
思わず心の中でため息をついてしまった。
可愛いけれど、もう少し男らしくなってくれてもいい気がする。
遊園地で見た山田涼太くんは、やはりただの幻想だったのだろうか?
今すぐにでも来た道を引き返して、夢の猫王国へと再入国したい気分だ。
私がうなだれていると、涼太は唐突に足を止め、カバンの中から小さな袋を取り出した。
「そういえば、これ。さっき買ったストラップ渡し忘れてた」
そう言って手渡されたのは、ニャンコがハートを抱きしめているストラップ。
よくよく記憶を辿ってみると、確かに買った記憶がある。
ふたりでレジに持って行った時は、少し恥ずかしかったっけ。
涼太が「僕が香澄の分も買うから」と、言って聞かなかった。
つまりこれは、ヘタレな彼氏の男のシンボル……いや、それだと語弊があるかも。
兎にも角にも、そんな新品の思い出を、私は両手でそっと包み込んだ。
「ありがと。大切にするね」
「う、うん! 僕も。せっかくだし、学校のカバンに付けようかな〜、な、なんちゃって……」
「涼太は絶対に無くしちゃうから、却下します」
「え〜、そんな〜」
どうやら、誰かに見せびらかせたかったらしい。
でも私もなんだか恥ずかしいし、なにより綺麗なまま取っておきたい。
しばらくは宝箱に入れて、大事な行事がある時だけお守り代わりに持っていくことにしよう。
と、一人心に誓った私は、珍しい涼太の真っ直ぐな視線を感じ、面をあげた。
「おばさん、待ってるみたいだよ?」
「……え?」
私は気づいていなかった。
涼太が足を止めたのが、家の前まで着いたからだということを。
優しい笑みを浮かべた私の母親が、門を開けて外まで出てきた。
「ごめんなさいね、涼太くん。邪魔、しちゃったかしら?」
「い、いえいえ。こちらこそ。遅くまで娘さんを連れ出して、すみません」
ペコリと頭を下げた涼太。
母は気持ちの悪い笑みを浮かべたままだ。
「誰かが家の前で話していたのが聞こて、気になって見にきちゃっただけだから心配しないで」
嘘をつけ。
どうせいつものGPSだろ。
「それにしても涼太くん、ずいぶんと大きくなったわね〜」
「そ、そうですかね? まだまだ部活では小さい方ですけど」
「バスケ部、だったかしら? いつも頑張ってるって、香澄から聞いてるわよ」
「いやいや。僕なんかは、ど素人なので。いくら頑張っても、やっぱり足りないですよ」
「努力を続ければきっと報われるから。これからも頑張って。おばさんも影ながら応援してるから」
「は、はい。ありがとうございます長瀬さん」
また頭を下げた涼太。
母の顔は、少し引きつってきた。
でも涼太が顔を上げると、また柔らかい笑顔に戻る。
本当に、気持ちが悪い。
「大丈夫、香澄? ちょっと顔色悪いけど……」
「う、うん。平気だよ、涼太。今日はいろいろありがとね。楽しかった。また行こうね」
「も、もちろん。じゃあ、また学校で」
「うん。バイバイ」
仮面を被った母とふたりで、涼太が家に入っていくのを見送る。
ただいま、と一人息子がご機嫌に帰宅を報告すると、ご両親は心底嬉しそうな声色で「おかえり」と歓迎する。なぜだか私は、耳を塞ぎたくなった。
すると間もなく、大嫌いな閑静な住宅街に、沈黙が訪れる。
途端にギュッと胸が締まっていくのを感じた。
痛い。痛い。痛い。痛い。
行かないで。
私一人を置いていかないでよ、涼太。
しかし物理の法則に逆らうことができない玄関戸は、バタンと無情に音を立てる。
たった数メートル隣の扉の向こうからは、あんなにも温かい雰囲気が溢れているのに。私のいる場所は、とても暗くてとても寒い。
「ずいぶんと遅かったわね。今日は20時から勉強する予定だったでしょ?」
「……はい。すいません」
「アナタそんなだらしなさで、これから先、一人で生きていけると思っているの?」
「……はい。すいません」
「あぁ、もう。いつもそればっかりね。いいから早く部屋に行って勉強なさい」
「……はい。すいません」
妬み。
嫉み。
山田家にはある幸せを手に入れたのが、どうして私ではなかったのだろうか。
もしも私が山田さんの一人娘だったら、心も満たされていたのだろうか。
他の誰かを幸せにできるほど、心の余裕が持てていたのだろうか。
そんな意味のないことを考えれば考えるだけ、虚無は増大していく。
『……何よ。なんで香澄ちゃんばっかりシンデレラなの! 私はダメで、どうして……やっぱり、私が貧乏でブサイクだから……?』
あの時の理穂ちゃんの憎悪に満ちた顔が、私の中で再び蘇る。
夢や理想で塗り固めようとしても、まるで純白さえ呑み込む暗闇のように、現実の愚かで頭の悪い私を戒め続ける。
今の私は、一体どんな汚い顔をしているだろう。
想像したくもない。いや、考えてはいけない。
誰かが羨むような物を持っていながら、それでもまだ何かを欲しがっている傲慢な私は、多分、涼太が側にいたいと思ってくれる長瀬香澄ではないから。
「ほら、いつまでも外に突っ立ってないで。ご近所迷惑だから、早く入りなさい」
「……はい。すいません」
昔はこんな母親じゃなかったのに。
いつからか、とても目つきが悪くなった。
理由は知らないつもりでいる。
だってそれは、誰も知らない方がよかったことだから。
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