第34話:最後の我儘
ガチャリ、と絢香さんから受け取った鍵は、僕の隣人の家の玄関扉を見事に解錠した。
普通に考えたら、やっている事は不法侵入。でも、状況的には大丈夫……な筈だ。
絢香さんの発言と、都合の良すぎる偶然の重なりに疑問を抱いている現状としては、長瀬家に無断で立ち入るのも少し躊躇われる。
もし今までの情報が全てが嘘だったなら、長瀬のおじさんおばさんに土下座して謝ろう。
「お邪魔します……」
つい癖で、無人の家に挨拶をしてしまった。
もし返事が返ってきたらと思うと、少しだけ背筋に寒気が走った。
どこまでいっても僕はヘタレの中のヘタレのようだ、と無駄なことを考えながら靴を脱ぎ、玄関の右前方にある階段へと足を進めた。
ギシリ、ギシリ、と老朽化とは程遠い、どちらかと言えば新しい部類に入る木製の階段が音を立てている。
建物内が静寂に包まれているせいか、普段は聞こえる事もない自分の足音がやけに耳に入ってくる。
だが一番うるさいのは、自分自身の心臓の鼓動音。
緊張。いや、恐怖によるものだろう。
真実に一歩近づく度に、心臓は更に大きな悲鳴を上げ続ける。
そして階段を登りきり、右側に数メートル進んで目的の部屋、香澄の部屋へと到着した。
右ポケットに入っているもう一本の鍵を握りしめ、鍵のかかっていない元彼女の部屋へと足を踏み入れる。
ここに最後に来たのはいつだったか。などとは考えている余裕はない。
頭の中は、握りしめた鍵が刺さるであろう鍵穴の事で埋め尽くされている。
パッと見渡す限り、というより、僕の記憶にある限り、香澄の部屋に鍵が必要な引き出しや、ロッカーの類はない。
となると考えられるのは小さな宝箱のような入れ物か、今まで目にしなかった金庫などの、プライベートを守る物品だけど……
「そんなものはないよな……」
思わず独り言を呟いてしまった。
香澄の部屋にあるのは化粧品なんかが置かれた鏡台、一人用のベッド、勉強机、それと足の短い丸いテーブルと座布団が三つだけ。
ぬいぐるみなんかの女の子っぽいものは無く、クローゼットの中も服が何着かかかっているだけ。
一応ベッドの下も確認してみたけど、本当に何もない。埃が少し溜まっているくらいだ。
鍵穴、鍵穴……
そう頭の中で繰り返し唱えてながら、ベッドの上に手をついて立ち上がろうとした時、布団の下から何か硬い感触がした。
下に何かが埋もれているなどとは目でみても分からないほどに、布団に凹凸は現れていない。
一応確認のために真っ白な布団をめくってみると、鍵穴よりも重要な物が顔を出した。
「あのノートだ!」
じゃあこの鍵は一体なんなんだ、と思わず文句をいってしまいそうになったが、目の前に現れた獲物への喜びの方が大分勝った。
と同時に、ノートを開く前にあることへの不信感がより一層高まった。
この鍵を渡してきた野田さんの言葉の信憑性。
そして、香澄が本当に鍵を野田さんに渡したのだったとしたら、香澄が嘘をついていた事になる。
いや、それ以前に、夏休みの前日に香澄は野田さんに頼んでこのノートを渡そうとしていた。
野田さんの口調からすれば、この鍵はこのピンク色のノートに繋がる物であると信じていたようだし……
このどちらの面にもなんのタイトルもないピンク色の真新しいノートに何が書かれているのか。
自分の手に握られている避けては通れない事実。香澄からのメッセージ。
そして最悪か理想かを決定する最後のヒントに目を通した直後、何故か頭のなかが真っ白になった。
「ん……んん? 何も……書いてない?」
白紙だった。どのページをめくっても、全ページを何回見返しても、目に入ってくるのは薄緑の線のみ。
その線上に並ぶはずの文字も、或いは意味を含んでいる絵や記号も、どの情報もこの薄っぺらいノートは有していない。
もしかしたらどこかに糊付けされた隠しページがあるのかも知れない。
そう思い、一ページ一ページを再度丁寧に確認する。
そして、静電気によりくっついていた一ページをやっとの事で発見した。
「これが最後か……」
再度覚悟を決めて開いた最後の一ページ。
すると、ヒラリ、と落ち葉のように一枚の彩鮮やかな紙切れが床に落下した。
『箱根温泉旅館一週間宿泊ご招待』
それは夏前に千野先輩と挑戦した抽選会での一等の景品。確か四名セットだったはずだ。
そして、肝心な最後の一ページには何も書かれていない。白紙だった。
香澄が渡したかったのはこの券なのか? でも、券は一枚一枚別れていた筈。
つまり、あと三枚は他の誰かが持っているという事。
抽選会は僕たちが挑戦したので最終日で、香澄か長瀬のおじさんおばさんがやったとなると、僕たちのあとということになる。
いや、それは案外重要じゃないのかも知れない。
肝心なピンクのノートには何も書かれていなかった。
そして、この部屋には鍵穴など存在しない。
夏休み前日に香澄が持っていたのは本当にこのノートだったか、と自分を疑いたくなってくる。
あの時は、千野先輩に気を取られて香澄の手元にあったピンクのノートを注視していなかった。
この最後の一ピースで僕の中の真実というなのパズルは完成する。
でも、僕だけの記憶だと間違った答えに辿り着いてしまうかも知れない。
なら……野田さんに聞いてみるか。
それ以外の方法は思いつかなかった。
今回の件で、野田さんが嘘をつく利点は皆無。
絢香さんが嘘をつく理由は……少しだけ思い当たる所がある。
だったら、一番疑うべきは……
思い立った直後、自分で自分が誰か分からなくなった。
それ程、僕の推進力となる足に力が込められている。
真実に辿り着くために、ノートを片手に長瀬家を後にした。
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「野田さん、僕だけど、今から会える?」
「え、山田⁉︎ なんで私の番号知ってんのよ?」
「健斗に聞いたんだよ。いきなりでごめん」
「いや、健斗が教えたんならいいけどさ。それで急にどうしたの? もしかして香澄のこと?」
「うん、そうなんだ。それで、今から学校らへんに来れる? もしあれだったら僕が野田さんに合わせるよ」
「今買い物してるから、駅のとこにあるデパートまで来てよ。なんか急用みたいだけど、香澄の容態が変わったとか?」
「ちょっと違うけど……また後で話すよ。じゃあすぐそっち行くから」
「あ、ちょ、まっt……」
慌てすぎているかも知れない。でも、香澄が目覚めるまでに全てを知っておきたい。
野田さんにまで迷惑をかけているのは重々承知している。
後で謝ろう。ついでに少し嫉妬していた健斗にも。
でもこれが、僕の最後のワガママになる筈だ。
傷つく事になっても、誰かを嫌う事になろうとも、全てが最初の印象通りだったとしても。
他人に迷惑をかけてしまった事も全てひっくるめて後悔はしない。
千野先輩のような勇気はない。そんな僕の覚悟でも、最悪の真実へ向けての旅路を達成することはできる。
そして十数分走り続け、駅に隣接しているデパートに到着した。
野田さんのような人影が入り口の前でしかめっ面を浮かべているのが見え、早足で向かう。
すると、野田さんもこちらに気が付いたのか、両手に小さな紙袋を数個持ちながら歩み寄ってきてくれた。
「本当にどうしたのよ、アンタらしくない」
「ご、ごめん。ちょっと、急用で、さ」
乱れた息を整えつつ、右手に握っているピンク色のノートを提示した。
力強く持ちすぎたのか、少しシワがよってしまったが、野田さんが見覚えのあるものだったとしたら……
「……ん? これ、香澄が渡そうとしてたノートよね?」
「そう、かも知れない。このノート、だったよね? 野田さんは覚えてる?」
「ええ、見た感じは同じね。名前もタイトルもないただのノートだったし。結構新しそうだったし。あれから二ヶ月くらいしか経ってないから、そこまで劣化もしないでしょうしね」
「……⁉︎ そ、そうだよね」
「これを持ってるって事は、アンタ香澄の部屋に行ったのね? あの鍵も使ったの?」
「鍵穴はなかったよ。このノートは普通にベッドに置いてあったからさ」
そう言うと、野田さんはかなり不思議そうな表情を浮かべた。
辻褄が合わない、とでも言いたげな目つきと、顎に軽く当てた手。
買い物でかさ張った紙袋が物音を立てた直後に、野田さんは口を開いた。
「でも、香澄はノートが鍵のかかった机の引き出しに入ってるって言ってたわよ? いざとなったら私が開けてアンタに渡せって言ってたもの。まぁ、それなら山田に渡すわよ、とは言っといたけど……」
「それってきっと勉強机の事だよね?」
「多分……と言うより、香澄の部屋だって言ってたし。私はまだ香澄の家行った事ないけど、勉強机以外に机がないならそう言う事になるわね」
香澄の勉強机に鍵穴はなかった。
机の裏にも、下にも、どこにも隠してあるような鍵穴はなかった。
つまり……
「嘘だったんだ。全部。全部嘘だった」
「何よいきなり? 鍵穴がなくても、ノートがあったならよかったじゃない。アンタ宛になんか書いてあるんでしょ? あの日も渡そうとしてたし、あの男とはいやいや付き合ってた訳なんだから」
嫌気が指したが、野田さんに目の前に白紙のノートを広げた。
真実を物語っている無のノート。
だが、絢香さんがくれた夢のような話を打ち砕く情報を有している最後の一ピース。
やっと、僕は真実に辿り着いた。
「白紙? 何も書いてないの?」
「……うん。残念ながらね」
「じゃあなんで香澄は……ぁ」
「嘘だった。香澄の言っていた事は嘘だった。そう考えるのが妥当だと思う」
「でも……でも、まだわからないじゃない⁉︎ もしかしたら口止めされてたとか、さ。そうよ、何も言えなかったから白紙なのy……」
「じゃあなんで。なんで香澄はこれを僕に渡そうとしたと思う? このノートの役割は野田さんに信用してもらうため。だと僕は思う」
「それなら鍵なんて面倒な事しなくていいじゃない⁉︎ ただ私にノートを渡せば……って、白紙じゃダメか。でも、鍵が意味ないって気づかれたら全部ダメになっちゃうじゃない? ならまだ本当の鍵穴があるって事……」
僕が遮る前に、野田さんは自ら言葉を切り上げた。
両手に持った大量の紙袋を地に落とし、膝を地につけながら。
真っ白なスカートが汚れる事など気にもしていないのだろう。
信じていた友人が、自分を騙していたと知ってしまった今では。
「香澄になんの災難も降りかからなかったら、野田さんは僕に本当の話を持ちかけなかった。多分、香澄は、鍵が僕に渡るとは思ってもいなかったんだよ。もし僕が受け取ったとしても、香澄の部屋に行けなきゃ確認のしようなんてないしさ」
「……なんで、なんでよ。香澄はそんな子じゃなかった。私の知ってる香澄は、そんな子じゃなかった」
そう、僕の知っている香澄も、こんなことを考えつくような少女じゃなかった。
僕と野田さんが知らぬ間に変貌を遂げたと思える程に、とても巧妙で、他者の心を傷つける最低な思考を獲得していたんだ。
それほどまでに、西山和人に溺れていた。そうとしか思えなかった。
「なんかごめんね、野田さん。僕のせいで……」
「……山田のせいじゃない。今私が落ち込んでるのは全部香澄のせいだから。親友だと思ってたのに……なんでよ」
一時期クラスの人から罵倒されていた香澄の味方を唯一続けていた野田さんにとって、香澄の嘘は僕と同等……いや、それ以上に辛いのだろう。
薄々気が付いていた僕にとって、何故だかそこまでのダメージはないように感じられた。
もしかしたら、また心に蓋をしているのかも知れない。
真実の猛撃から心身を守る事には少し慣れてきたのかな。
悲しみよりも、真実に辿り着けたことへの爽快感が僕を祝福してくれる。
目頭だけ少し熱いような気もするけど、きっと気のせいだろう。
なんせこれは僕が望んだ結果だ。
何も知らなければ幸せになる未来だってあったはずなのに、わざわざ地獄への道を選択したのは自分自身。
絢香さんが悪者で、香澄は犠牲者。その話を信じていたら、僕は歪められた真実の元に香澄を愛し続けていただろう。
おそらく、絢香さんは香澄の話を利用した。それは事実だ。
でも、車の中で聞いた話の大半は嘘。
僕の逆立った気持ちを和らげるために、僕の、千野先輩への偽りの感情を表へと浮かび上がらせるためのお伽話。
ただ、神崎先輩が香澄の事と元カノのことを照らし合わせたのはおそらく本当だろう。
僕に同情した事も、そのせいでまた同じ過ちを繰り返しそうだった事も。
全ては弟のために、そして、同類である僕の為に、絢香さんは嘘をついた。
弟には香澄が権力者に嫌々付き合わされていると。
僕には、和人が神崎先輩の過去と繋がっていると。
そして、全ては自分が裏で操っていたと。
梓という先輩の元カノが絢香さんの元に付いているというのは強ち嘘ではないのだろう。
僕らが夏祭りの会場で目撃したのは、紛れもない和人と神崎先輩の元カノが寄り添っている場面だった。
でもその実は、全てはつながりを、お伽話の信憑性を高める為。
そして長瀬のおじさんとおばさんはきっと……
「ねぇ、山田。ちょっと健斗呼んで。三人でカラオケ行きましょ」
「え? もう大丈夫なn……」
「いいから、早く呼びなさいよ」
「わかった。わかったから睨まないで」
決して立ち直りが早い訳でもないのだろうな。
ただ野田さんには、人一倍の行動力があるだけ。
現状から脱却するために、行動を起こそうとしているんだ。
そして、直ぐに健斗に電話をし、野田さんの泣き声を聞かせるとものの数分で息を切らした健斗が登場した。
どうせならという事で、智樹と正義も呼んで、五人でカラオケに向かった。
この光景には少しだけ見覚えがある。
神崎先輩と、千野先輩。それに他の先輩たちとここにいる親友三人。
あの日も確か、同じような気持ちを払拭する為に騒ぎまくったな。
過ちを繰り返しているようで、実は繰り返していない。
今回のカラオケは、ちゃんと楽しめそうだ。
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