離婚前夜

いとうみこと

離婚前夜

 不思議と腹は立たなかった。

 目の前の夫が、涙ながらに彼女との馴れ初めから今に至る経緯を話しているというのに、私はそれをとても冷めた目で見ていた。妻という法的な立場を侵された不愉快さは残るけれど、これなら慰謝料が貰えるだろうという計算も働いた。今更ながら、この人への愛情が残っていないことを確信した。

 いや、そもそも彼に対して愛情は無かった。あったのは打算だ。夫の雅史はいい大学を出て、上場企業に勤めるいわば勝組。友人の結婚式の二次会で出会い、たまたま音楽の趣味が合って意気投合、その日のうちに連絡先を交換した。その時はまだ、まさかすぐに結婚することになろうとは思ってもみなかった。

 私たちを結婚に導いたのは単なるタイミングだ。雅史は当時34歳。年老いた両親は末っ子の雅史を溺愛していて、彼の行く末を案じていた。私もまた30歳を目前に控えて、根拠のない不安に駆られていた。

 こうして私たちの利害は一致した。多くの人に祝福されて、私もまんざらではなかったし、友人が一様に玉の輿と評してくれたのも気分が良かった。

 結婚生活だってそう悪くはなかったと思う。雅史は表面的にはとても良い夫だった。共働きの私と家事を分担してくれたし、休みが合えばデートのようなこともした。

 その一方で、他の女と結婚前からずっと続いていたとは、正直驚いた。見た目も話しぶりも実直そのものなのに、そんな器用な人だとは全く予想できなかった。まあ、こうしてさめざめと泣いて詫びているところを見ると、ある意味、実直ではあるのだろうけれど。

 雅史の話によると、彼女との馴れ初めはこうだ。最初は学生時代のバイト先で知り合った。彼女は当時まだ高校生で、惹かれる思いはあったけれど思いは伝えられずに終わった。それが10年後に、派遣社員として彼女が配属された事で再会した。雅史は内心とても嬉しかったそうだが、残念なことに、彼女は既に既婚者だった。

 というか、10年も淡い思いを抱き続けていること自体気持ち悪い。その時既に30を過ぎていた筈なので尚更だ。

 雅史は何くれとなく彼女の面倒を見ているうちに、彼女の家庭が今ひとつうまくいっていないことを知った。彼女の夫はいわゆるダメ男だったらしい。幼子を抱えて、生活のために働かざるを得ない彼女に、雅史はどんどん入れこんでいった。彼女も雅史を頼るようになり、やがて男女の関係にということだそうだ。

 雅史は心底彼女に惚れているようだけれど、女の私から言わせると、彼女が本当に雅史の言うようなか弱い女かどうかは甚だ疑問だ。まあそれは、雅史には言わない方がいいだろう。

 その彼女が晴れて離婚したので、彼女とやり直したいというのが雅史の願いだ。君のことは嫌いではない、大切に思っている。何だそれ?と思いつつも、雅史なら本当にそう思っているかもしれないとも思う。両親を思う気持ちで、結婚はできない彼女との関係を一旦清算して私と結婚したのは、彼なりの良心の表れだ。まあ、半年も我慢が続かなかったのだから褒められたものではないが。

 かく言う私だって、雅史が好きで結婚したわけではない。独身時代には社内に心密かに思う人もいた。ただそれは叶わぬ思いと諦めて、二番手の雅史を選んだのだ。だから、その憧れの君が最近結婚した相手を知った時は愕然とした。見た目も仕事の出来も、どう考えても私よりずっとレベルの低い、ただ若いというだけの後輩だった。私はこんな女に負けたのかと思うと腹立たしかった。闘いの土俵にすら上がっていなかったのだから文句は言えないが、こんなことならダメ元で告白すれば良かったと心底思った。

 目の前の夫は、まだ鼻をすすりながら彼女の話をしている。既に惚気になりつつあることの自覚も無しに延々と。

 馬鹿げていると思った。さっさと具体的な話に入りたいと。でも、今ここで事務的な対応をすれば、私がすんなりと離婚を承知したことになってしまうのではないか。どうせ打算でした結婚なのだから、できるだけ多くのものをもぎ取って別れなければ、私には愛人に夫を奪われた惨めな女という評価だけが残ることになる。

 さあ、どうするのが正しいの、私。泣くの?怒るの?喚き散らすの?

 夜は始まったばかり。焦らずじっくり闘わなければ。

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