第一話 トップノート 1、順風満帆な未来のはずだった。

神野紗良の夢は、寿退職をすること。


そして、それは決して実現不可能ではないように思われた。


紗良の今にもかないそうな夢とは以下の通りである。


高収入の素敵な旦那さま。

自分の趣味ごと生活費全般養ってもらう。

ご飯は毎日手づくり、一汁三菜は基本で。

そして結婚しても、海外旅行だって、夫婦の愛を確認するのとリフレッシュと充電も兼ねて、年に1回は必須である。


ちょっと前の女子会では。

「寿退社って、今は死語じゃないの?」

学生時代の友人たちが集まると、かしましい。

「さら!仕事しないで養ってもらうなんて、今の一億総活躍社会では、あんた敵よ敵!

わたしのお母さんなんて、死ぬまで働きたいって言ってるんだから」

「みんながそうであれば、そうじゃない生き方をしたいのよ」

と紗良はいったものだ。


それを聞いて、アパレルメーカーに勤める友人の詩乃は笑った。


「専業主婦も絶滅危惧種よ?そもそも甲斐性のある男がいないじゃん?

でも、あんたの彼なら養っていけるかも。案外、自分は外でガンガン稼いでくるから、家庭は妻にしっかり任せたいっていう男もいるからねえ」


そして、羨ましそうに目を細めた。


「もう付き合って3年?あんたの誕生日はもうそろそろでしょ?もしかしたら、今度のデートで、もしかしたらだよね~!」


紗良もそう思っていた。

彼、真吾とは大学2年から付き合って3年。

そもそも最初から、彼と紗良は結婚を視野に入れていた。


「結婚を前提に付き合ってください!」

と猛アタックされたのだ。

しかたないなと付き合うことになったのだけど、付き合ってみると、彼は驚く程ハイスペックだった。


弁護士の父。

母は典型的な専業主婦。


少しマザコン的なところがあるけど、妻になる人には結婚したらずっと家にいてほしいんだ、というのが真吾の口癖であった。


そんなもんかね~?とは思いつつ、若い紗良は適当に流して、この品のいい贅沢な恋人と、素敵なデートを重ねたのだった。


就職活動に紗良は苦戦する。

ようやく業界5位の化粧品メーカーに就職できたが、最初の配属がスーパーの販売員になり、真吾は誰もが知る大手商社にすんなりと就職を決めたとき、その頃にはすっかり洗脳されていた紗良は、入社式に参加しながら彼と結婚退職するぞ!


と思ったのだった。


そうと心が決まれば、仕事以外の時間は、料理教室に通い、お茶、お花、着物のお稽古。

ハイソな真吾の嫁に相応しくなるための、教養の時間となった。


貞淑な妻に相応しいと思われるために、髪の毛はひっつめでおくれ毛ひとつなくまとめ、地味なスーツにベタ靴が、仕事の時の定番服。

黒、白、茶、グレーが、紗良がまとう色になった。


それも今日の紗良の誕生日のホテルのお食事デートがゴールになるだろう。

つまらない仕事も今日で終わりのはずだった。

彼は、仕事が長引いたのか遅れてきた。

改めてみると惚れ惚れするほどかっこよい男である。

学生時代の浮わついたところが薄れて、頼りがいのある精悍な表情をするようになっていた。

その男が今夜、決定的な申し出をするのだ。

紗良の23才の誕生日の今夜に。


真吾は食事の間中、うまく笑えないようだった。紗良はそれを緊張しているからだと思う。

一生に一回だけの、お互いの運命を確かに結びつける申し出をするのだから、緊張するのは当然だと思う。

夜景の素敵な席だった。

今にもサプライズの誕生日ケーキが、歌と踊りつきで出てきそうな気配。

婚約指輪でも用意をしているのだろうか?

ティファニーのリングがいいなと思う。


「紗良」


真吾はとうとうまっすぐに紗良を見た。

整った顔立ち。

紗良は真吾が自分一筋ではあるが、女の子にもてるのは知っている。

だが、彼は学生時代、ふらふらしなかった。

だからこうして、紗良も、ひっつめの髪に、薄い化粧、リクルートスーツの延長のようなスーツを来て、地味で貞淑な女となり、仕事で知り合う男からのお誘いを、あらかじめ避けるようにしている。

未来の妻となる自分が、将来の貞操を疑われるような事をしたくなかったからだった。



「何?」


とうとう真吾が、プロポーズをする。

自分はウイ、シィー、ヤー、はいと答えるのだ!

ドキドキと心臓が鳴り出す。

プロポーズされる側も、緊張するのだとわかった。


真吾は十分溜めてようやく言った。


「別れてくれ」

「はい、、、え?」

紗良は聞き間違えたと思った。

真吾はお勘定を手に持つ。


「好きな人ができたんだ。会社の同僚で後輩」

少し遠い目をする。

真吾が彼女のことを思い浮かべたのがわかった。


「別れてくれ、紗良。どんな非難でも受る。一方的に僕が悪いのはわかっている。

だけど僕たちは終わった。

お前もそうだったんだろ?いつも地味でつまらなそうな格好をして、化粧品メーカーに勤めているのに地味っていうのもな!

そんな風にして誘導しなくても、ハッキリといってくれれば、もっと早くに別れてやったのに、、」


23歳の誕生日の夜、紗良の夢が壊れた日となった。

サプライズはケーキでもプロポーズでもなく、別れの一方的な通知。


それも良かれと思った貞淑な妻の格好が仇になって、、、?


「今までごめんな、、、」

紗良の未来の旦那だった男が去っていく。

目の前が真っ暗になっていく。


「待って、真吾さん」


呆然と紗良はひとり、チャイニーズレストランに取り残された。

もう一度いう。

23歳の誕生日の夜、紗良と真吾は別れた。


紗良のこの二年間抱いていた結婚退職の夢が破れた。


地味なスーツの化粧っ気のない、ひっつめ髪の紗良は、ショックが大きすぎると涙も出てこないのを知ったのだった。


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