こいの恋 

いく たいが

恋の往くへは風任せ……そんな恋なら捨てちまえ (シリーズⅠ) 

昊空そらの彼方へ――「この小さな幸せ……」と夢を架けてると、そこは、真っな夕陽だった。


あか色彩いろづく天と地のもと。

青葉の間をヒューッと吹き渡る風がここち好い―ぃ! 青嵐あおあらしだったのか……恋風のよう?



「ねぇ―! うちのこと好き?」

「んぅ」(いまさらそんなこと訊くなよ、テレクサじゃないか)。

「ね! ね! どんくらい?」(好き、と云ってくれないと気が済まないんだな)。

「そりゃ―、もぉ―!」

「でぇ―っ?」

「何云ってほしいの?」

「だってぇ、無頓着かなぁって」(気付け! メールあんまくれなかっただろ)。

「ん? ルンルンがなきゃ生きてけねえ―よ! フリしてるだけ」(ライン返せや! 来ないメールに男がデレデレ送ったらみっともなぁ―い)。

「な―んだぁ ! 格好シイシイしてただけか(わらえるーう」 「ってどんな時?」

「BBQ食う時! (テキト―

「え―ぇ?」

「こうしてるトキ!」

「ホントに―ぃ……よかったあ!」(はい! はい! 相変わらずツンデラだね。素直に好きっていや―、い―のに)。

「ね―ぇ! いまどこらへん?」

「おれの傍だよ! (ドヤとくいがお

「…………」呆れた―ぁ、とそく笑い飛ばす。そうりゃそうだ、笑談じょうだんなら未だしも、段阿呆らし駄洒落だじゃれだもんなぁ。

他愛のない男と女の睦言。

かといって仲よく語り合わなければ、もうオトコとオンナではなくなる。どうでもいいヤツの手を握ったら気味悪―い!

(カップルって何や?)vs.(四六時中、会話するイキモノら―!)

だから深まりもするし、飽きもするんや。肝所かんどころは相思相愛度でもなければ人柄でもない……昨日まで其(そう)思ってたが……相性やし。

、時に、おもいを一気に噴火したくなって「! !」 「イチャイチャは他人にどう映ろうとドさえ過ぎてなければ関係ないこと」 「二人が繋がってく標識となるもの」 「だ! だ! 繋がってけば人柄ナンチャレは後から付いてくる」と一気に噴出するとなんとスッキリすることか! 地球だってこうして噴火しては収まっての繰り返しで安定してるんだよね――云いたい事を云い合えってこそ恋人ってもんさ。

で、その人柄って何や? 味のある人ってこった。

好かれてた―い! となれば自分の短所を変えなくちゃとなる。これが恋効果ったやっちゃ。

だから、相性は性格なんです。重要なんだよ―ぉ―!

『相性』が二人を繋いで。『性格』が環境を作って。環境が『人』を作り。幸不幸までも支配する。

性格悪くてどんだけ損ばかりしてるか! くてどれだけ得してるか! 「これが人生の片やのテーマかもって」

「だよね! 生きる糧。これがラブのゴ―ルってやつだ」

「大袈裟な」

そう交わすふたりだが、糧とは生き甲斐。

これは楽しくて! 楽しくて! という耀耀ワクワク感。

ここまでいけば恋純度ってやつは百パ! と知るようになったのはふたりが三十歳を目の前にする頃であった。

「恋するってことは大袈裟なことをするってことなんだ。普段の普通な事を膨らませたイメージが恋なんだよ――『魔法の絨毯に乗って二人だけの愛ランドへ行って夢のお城をつくろ―ぉ!』みたいな。キザだね、これが恋なんだよ」

「なーるほど。一旦好きになるとキザでも何でも今まで気になっていたこと全部がよく見えちゃうんだよね」

「うん! うん! あんね、ちょっと固い話だけど心理学では、性格はパーソナリティといってその人の人格のことを指すんだって」

そっか、そっか、人格かぁ、優れた人ってことか!?『そりゃ―、無理だ』と決め付けないでこれは人柄と同じこと! 『人間らしくしてりゃいい』ってことだもんなーぁ。と、ま―、なんと堅い話。

かと言って、かたいものはよく噛なければ柔らかくなって栄養にはならないのだから、浮いた浮いただけが恋じゃなく真面目に食うのが恋なんだよ。


――不意ふと今でもたたずまって、本気まじ「人柄」って一体何だろうと改めて考えるときがある。

「心美しき人」といや簡単に収まるがこれが行けねえよ。抽象過ぎだわ。抽象は概念。概念は精神的なもので目に見えない。見えないから勝手に捏造して、こうだ! と決め込んでしまう。

では何だろう? きっと「品格」だろう。品格は、「品性と品行」の二つのこと。「前者」は精神作用の事、いくら心内で善と唱えていたとしてもやはり目には見えません。そうなると「後者」は目に見ることができるからそれ如何でその人が人柄のある人の有無が判る。

そうだよ! どう行動したかで「人柄」が決まるのだよ。

いくら心では「人には親切してやるものだよ」と思っていても実際には「思うだけで親切にして遣ってない」のは偽善者といって人の価値をおとしめるものなのだよ。だからね「『味のある人』が『人柄のある人』といわれる所以(理由。原因)」ってこった。これは、この恋物語が教えてくれたことであったが……。――


 そんなこんなのふたりの脣元くちもとに弾むキャッチボールは、シン二十八才・佳菜カナ二十九才のときだった。

辺り一帯、空が街が、六本木ヒルズ三十三階のガラス一面にもともり始めた灯も照り返って、せわしく行き交う人と人との、人と街路樹の、どの横顔も紅に染める夕間暮ゆうまぐれどき、界隈を快く走りゆく車中で二人も染まりながら交わした睦言であった。

やがて、離れていて不安になったり切なくなることがあっても、想う気持ちが消えることはなく、ふとした瞬間、心奥に甜言蜜語てんげんみつごのようなセリフにまでに奔ることがあって(信じたい!  信じてくれてる!)とおもうと何処か気持ちが素直に落ち着いて、この後も長く心にここち好く宿っていった。


 十五年前、少年と少女は直直ただただ一途に恋に夢中になって往く。

そのときからこのひとつがいの物語は始まって、はぐくんだ愛はたしかな形をしるすようになった……。



 この物語は、実話です。


 夜の闇のなかを一筋の燈がやって来て。

「よわきを強むる力なれや。こころ勇ましく旅を続けゆかん。力の泉は湧き、火ふたたび燃ゆ(讃美歌270番抜粋)』の歌を皆、口々に音吐朗朗おんとろうろうと、手に手に灯かり、周りの静寂しずけさからおのおの顔を覗かせる。

春をいわときの聲です。

毎年四月に長原教会ではイースター祭に、当時みぎわ聖歌隊が大人たち一行に中高生らも混じって信者の家々の近辺まで周って「ここ、春来たり」と告げるのが恒例となっていた。

閑静な住宅街、夜のぎぬのなか、足音も歌も一層冴え響き、やがて徐々に遠退く。この一時な世界がしばしファンタスティックに脳裏に残って……澄んだ気持ちになるのがい―ぃ。

この風物詩を二階の窓辺から中二になったばかりの真の目に(お―! あの子カワタン!)と映る。

今年もやって来ってきた。さっそく温かな飲み物を手渡しペチャクチャする玄関先で幼子を抱く母とその傍らで裾を握る妹。母は一年前洗礼を受けていたことから聖歌隊一行に加わりたかったが二歳と四歳になる弟妹がいるためこう応対するしかなったのです。


 毎日曜午前九時ころから小一時間ほど中高科礼拝が催され、 近隣の中高生・ミッション系学校に通う者たち関係なく、聖書を持たず讃美歌がなくても貸し出してくれることもあって、気軽に参加する者は少なくなかった。

(今日こそ行ってみよう!)。そして流れ……翌日曜! 復々またまた流れ(今日こそわ!)と小洒張こざっぱりとした出で立ちの少年、真、もここに加わっていた。

座する一同、思い思いに喋喋チョウチョウ―、牧師さんが現れると一変! 厳かな空気に包まれ、辺りにピーン! とした静寂が奔る。

やがて礼拝。

並みな木造造りの教会、内にスペシャルがひとつ。

最初にパイプオルガンの音色、パイプ総数 602+1の奏でる響きは、トランペット系の音色とフルートのような音調とがハ―モニ―し合って、それはそれは言葉では言い表せない大聖堂にも引けを取らないのではないかと思わんばかりの荘厳なサウンド。

かしこまったキブンとなる。

慎ましげな顔になった牧師さんの声、朝から長―い、神様についての説教、途中途中にパイプオルガンに伴奏する一同の讃美歌合唱。

「みなさん、お早うございます。ンフッフン『万民の罪を肩代わりしてイエス様自らが一身に十字架の刑を甘受するとした行為を取られました。それは、今まで人が犯した罪を許し新たに出直すようにと願う神の御業……斯斯然然カクカクシカジカ。自分の罪を公にするなら、神は罪を赦し、わたしたちを清めてくださいます。ヨハネの福音書3章』ン―ふっんん!」と横に咳を吐いた左手を戻すと壇上の牧師さんの顔は天を仰ぎ、右手で慎みをもって十字を切る(咳を出し易くなるのは老年になった勲章。若者がすると「風邪だ! うつるぅ!」となる)。

ここで再びみな讃美歌を高らかに口遊くちずさみ「アーメン!」と唱えると(おわった! おわった!)待ちに待った解放感に戻った面前に回ってくるお賽銭さいせん袋、真は百円玉を入れこの礼式をフイナレとしていました。

「神様に失礼でしょ! 100円なんて。あれほど熱演してくださったのに! 歌舞伎座一等席なら15,000円よ、末席でも2,000円だっていうのに、10円入れてる人ゼッタイ神様にお祈り届かないわ」と母は云い五百円を渡してくれていたが百円玉を入れるときの方が多くなっていた(カルピスウオーターを、クリームコロッケのときも、無性に食いたくなるからだ)。

信仰を求めて来たのではない。あの時のイ―スタ―讃美歌隊に「マブ―!」とハートに突き刺さった女子を求めに来たのだ、このチャンス! モノにしなくちゃ!

チャンスは五分以上ある! もっとあるぞ! 

自慢するわけじゃないが自慢す。 

運動会二百メートル走「しんちゃん! しーんちゃんんん!」と黄色い女子たちの声援はいくら必死に走っていてもしっかりと聞こえていた。告りだってあったさ、好みじゃない子たちから(下半身デブだもんなーぁ)であったから、七分八分以上だって。自信を持たなくちゃ! 日本はジシン国だーい! なら、俺もーォ! 

神様の元で動機が不純? そうですね。

そんなことはね―え! 

ただ、あのお堅い上にあの長い説教じゃ体もかたくなって、途中から説教がむにゃむにゃと頭を通り過ぎていくのは仕方ない。

が、ウンもスンもなく座して居たというわけではない。初めて知ったよ、『Logosロゴス』ってゆうんだってさ。

聖書では『神のみことば』哲学では『理性』(牧師さんが得意気に云っていた)としたこの啓示――人知即ち人間の知恵では解り難いような真理・知識を神が現し示す事、は聞いてただけでもちゃんと入って来るものなのである。

加之しかも親孝行である、教会に行くことを云い出したとき母は大喜びしたのです。

「礼拝」――というとかしこまった神所こうどころと思ってたけど此方こっちも、彼方あっちにも、年配者だったり「ケンタッキーのカーネル・サンダースだ、ディグニティ(dignity)ある髭よォ!」と誇って蝶ネクタイまでした白ではなくダーク調のスーツ姿の紳士の方がおられたり、何所かのお店のお上さん風だったり、小綺麗な独身女性か? 主婦だったり? うちには中高生他学生らも居て、とっても家族的なコミュニティな村を呈しているのでした――名を「聖書研究会」と呼び替えるときがあるのだが(実はこれを狙って『愛の研究』をしようと)……時は1932年、昭和が始まったばかり、故山本喜蔵牧師が奥さんのはなさんと共に……更にこれ以前の話になるが第一次世界大戦による未憎悪の死者数は戦闘員900万人以上と民間人700万人以上が死亡、目を失った腕を失った片足になったの戦傷者数を含めると甚大過ぎる数の地獄絵(もう云いたくない!)を若かりし頃の山本喜蔵さんは痛くるにつけ、

また、国内では親類縁者の多い高崎市で起きた自由民権運動の高まりにも影響を受け――群馬事件といって農民の困窮や負債を見かね集会を頻繁に開き民の声を政府に訴えたが功を奏するまでは至らず、が、後の政府転覆を目的とした加波山事件などに続く武装蜂起の機会きっかけとなった事件であったが――心に痛感するものがあったのだろう、

「何か世のため」 「人のため」 「己の栄達のため」と心が指し示す先に――普通にいや「こころざし」だが――燃えていたころ、

「日本国のスピリッツ先駆者になってやろ!」との意気込みを抱き布教活動、修行等を経て、自宅を伝道所として開設したビンテージものの教会、かといって古ぼけてるのではない、日々新たな神の御言葉を伝え長く伝統を誇ってきた教会です。

実の子であるがトリイと名を改め大学教授にまで登り詰めた山本牧師の息子との間で継ぐ継がないのひと悶着があったそうだが結局は教会を継ぐことはなく、日本基督教会から代々派遣されてきた学校の先生風な細身の故大川義雄牧師・大川曙見副牧師(奥さんの方がちょっと背は高くこちらも体型はすらっとして、それに美人だったらしいが)を始めたとした達により代代守られ発展してきた神所として近隣はもとより遠くから通う者もいるそうです。

その当時山本牧師はその聖書研究会を中高科礼拝のための「信愛会」と命名したと聞くが「愛の会」という点ではぴったしな場なのである(あのマブい子にどこを? どうやって? こうして? ああして? 格好良く見せればいいんだろう? どうかぼくを気に入ってくれますように!)というまさに「愛の研究会」なのです。

礼拝後は今日も合コンの如くワイワイ、思い思いに十人十色、教会玄関下の階段に腰かけたり足を引っ掛けたり頓狂とんきょうな笑い声を殊更ことさら作って気を引こうとしたりのイツメンたち。どうしても異性の前だとそうゆうポーズになる。しょうがない、目立たなくなったらオワリ、シカトーされる。若者仁義ってやつだ。

そこへ、つっつと! 既に完璧ナンパモードに入っていたミサンガが一歩二歩寄る(「即る!」――「身体目当てだァ」――「いつも胸や脚にばっか目が行ってるもんなぁ」と皆が警戒していたが)、その度に二歩三歩退け知らんぷりして(男のくせに化粧するからだ)友だちと話す佳菜さん(助かった―ァ!)このまじゃいけない、何とかしなくてわ!

焦る気持ちと魅入るテンション高の混声合唱。それにしても可愛い! スタイルグッ! キャラもグッにちがいない! 天使のような瞳に! 立居振舞! イメージは膨らむ一方。『恋は、妄想、膨らむもの、美しくなるもの』とはホントだった。

誰とつるんで誰と話すかは、ミサンガと話さえしなければいいんだ!

目指すはひとり! そのために来たんだ、話しかけたい、が、凹(ひる)む。 それならばとせめて目ぐらいは合わそうとする、一瞬目が合ったときはもうダメ、凸凸(心臓バクバク)、違うね―、身も心もトロトロに♪

――(誰だ? 小説は「縦書きだ、絵記号・顔文字を使うな!」と云った人わ……そうだけど)。


って、「古来中国語以来の伝統だか因習かに縛られずナウはナウの世界標準に合わせて全て横書きに統一したら顔文字も楽勝」vs.「いや、いやぁ、絵文字を避けてコトバを以て著すのが小説の腕の見せ所ってことかぁ」

でもね。「絵文字があったらイイのに」と云ったヨーロッパ・アメリカで大活動した作家・詩人のウラジミル・ナボコフさんのインタビューを機会きっかけ)に、エドガー・アラン・ポーの『黄金虫』、コナン・ドイルの『踊る人形』、江戸川乱歩の『二銭銅貨』で堂々と用いられるようになり、日本でだって芥川龍之介の『羅生門』や太宰治の『人間失格』などの表紙をマンガ調に替えてみたり横書きにしたら急に売れるようになったんだぞ。さて、今後どうなるか――楽しみである――確率の低さを予期しつつ。

コトバとは意味を表すモノ。筋を持った散文体(自由に書く文章)が小説、小説とは理想の世界を思考するモノ、生きているモノの安全を脅かす内容の文章は小説にあらず。なので迫真性の幅を広げる描写になるのであればどれも、小説は! 言葉は! こうだ! ああだ! という伝統的体式に拘らず、もっと大らかに捉えてみたらどうだろうか!? 

「結婚した女は人前に肌を露出する服装はするな。男の前では口を慎め。女が家族を養ったら男が落ちる。日本人には世界に名だたるサムライ魂がある。男は家の主人だ。出世とは金持ちになることだ。成人式は着物だ。入学卒業式の母親の服装はフォーマルな和服だ。女子はスカートだ」誰がそう決めたのだろうか? 

右翼です、井の中の連中です、良く言えば「従来からの伝統・習慣・制度・社会組織・考え方などを尊重し、革命などの急激な改革に反対する社会的・政治的な立場、傾向、保守、的な嗜好」、日本列島を外の世界から数百年・数千年もの長き間、四方を海という塀で誰でもがしようとしてもその往来をさえぎった所為せいだ。

伝統はそれなりの良さのものもあるのだが「べき!」は行かんぜよ。

もっとナウな世界のいろいろに目を拓こうではないか、価値観は色々あっての価値観なのだから。

ひとつにこだわると見えるものが見えなくなる「明き盲」といわれたらいやでしょ。確かに伝統的小説家さんが云う事も分からないわけじゃないが、一体小説って何だろう? 娯楽性からはじまりテーマのある作ならそれで充分なのではないだろうか。文脈だ、事象(出来事)だ、脈絡だ、表現力だ、語彙力だ、文法だ。こんなのは国語の授業のやるこった。国語力と小説は趣意(目的)が異なります。


 女子の美しさは――おもった――保護色だ、身を守るため、一生を守るため、自動的に少しでも体も心も強い男に自分をゲットさせようとする天然由来の保護摂理だ。

じゃあ、男の美しさは? 訊いてみなければ分からないが、ハラキンだ、筋肉こぶだ、と女は惟ってるかもしれない。

そいうことじゃなく。好きなもの愛するものにはどこまでも優しく! これが強さだ! この強さはきっと女には美しく映るにちがいない――これを求める女に男自らの一生を見守って貰おうと託する心理――つまり自衛摂理となっているのだ(やっやこし)。

森羅万象、天地に存在する全ての事物・喜怒哀楽、特にこの『喜楽』ってやつはメッチャ大切! この二文字があると信じて恋をするのが本来の摂理となっている筈。だからね、人がこの摂理に背を向ける――身体求めだけに、財布代わりだけに――とろくなことがない。摂理に背を向けるツラほどにせ者ヤロ―! このブス奴! となる(オレオレ詐欺に遭ったり、使い捨て奴隷になるのは、ヤでしょ)。

そんなにも万事を支配している法則が自然摂理なのだから、グチャグチャ余計なことは云わずに従った方が顔も良くなるにちがいない。

というと美人だけの話になると思うでしょ? 違うね、化ければいいんだよ、厚塗りしない程度ね。

いやいや違うね、男の中には遊ぶ女とお嫁さんにしたい女とを区別してるやつもいるらしいからね。

じゃあどうする? そうです! ガチ男心を奪い取ってやるくらいの心美人になる! って手もあるのさ(ぶりっ子ではない、男女共にね。特に男のぶりっ子は気味ワル―い―)。

ちな、強さは寛容、忍耐ともいうがドが過ぎると自爆へと繋がりかねないのでたまには甘えてみることもガス抜きになるんじゃないの。

甘え? ……女がするのが専売特許だ……男が? 外見みっともない! しないと疲れるぞ! 結果、疲れはダサいと映って振られることだって。だから程々に甘えた方がよい、きっと可愛いと云われる(となるかはやってみなければ分からない?)。 


真っ白なバスケシューズにご丁寧に前後左右にラメ入り、シャツボタン四つも外す着こなし、ダメ押しにミサンガ……手首・足首に付けると願い事が叶う? と信じてる紐ってやつだが、これを両腕に計十本程も巻き付け、合コンもどきな二個上の自称男前さん。さっきから今もしきりにテッペンだ、ヨコだ、マエだと髪の毛にセカセカと手を遣り見えない髪形を気にしいじくり回すもんだから出来上った形はヘンチクリン。頬っぺのピンク色なチークとブリーチマッハな茶髪色だけが目立ち男前とは程遠い。

立った姿はお互い目線が同じ高さまであと少しに来てる、だか相手には云いようのない貫禄がそこに。

ミサンガさん高一の目当ては一個下の女子。みんながひそひそ知ってる、ヤリモクだろう? と。男はせめて紳士なふりをしなければいけないのだよ。振りも一生つづけば本物になるってゆうでしょ。

云いにくい苗字に名前――ご本人の名誉のため仮令(たとえ)とするが――大豆生田おおまみゅうだ五六ふのぼり。実にこれと酷似そっくりな名だったのです。いつの間にか周りの者たちはミサンガと呼ぶようになった。

このターゲットはオオバ佳菜さん JC 3 年生狙いの日曜だけ神所暮らしさん。


教会を離れた翌日、また翌翌日になって、又又何処に居ても(あんな可愛い仕草! あんな綺麗な女の子! 彼女にした―い!)となるともう―ぉ、ダメ! ダメ! 授業中もバスケ中もトイレに居たって脳内旋律はますます響き増す一方。

宇宙の星と星とは全て、相互の磁石作用で存在している、みなオトコとオンナだ。

この法則にならって人間もどの生き物も樹木(銀杏いちょうの樹)だって、オトコとオンナになったのだ。

男と女が力を合わすと二人以上は当然、三倍以上五倍以上もの効果を生むんだよ――synergy effect(相乗効果)っていうんだってさ。

その代表選手のひとつがあのデッカイ銀杏の樹。

男と女の樹を交互に植えてこの夫婦が生み出す葉の効能は認知症等に効くという医学的知見をヨーロッパの学者が発見し「ジャパン」と名付け発表するくらいオトコとオンナが生み出すシナジー効果(相乗効果)――学際的(研究・タスク即ち課された仕事等がいくつかの異なる学問分野にまたがって)に各界で活かされてる立派な理論なそうな

しかも、その実はコレステロールの低下・疲労回復・滋養強壮・血流改善・腎臓機能促進に効果バツグン。これらが駄目になるとホルモンが減って老顔になるんだって。だから男女は仲良くした方がいいのです。

ヨーロッパには元々銀杏の樹はなかったが日本から送って貰った手前「ジャパン」と名を付けたがこれじゃ面白くないと当時の首相が田中角栄であったことから「タナパン」と名付けたが、銀杏の実の悪臭は、スカンクどころじゃない、世界最強! それだけ効果あるってことらしい。この悪臭が動物や黴菌を追い払うピストルになるってこった。

このように地球の存在はその引力作用によって回されている。

オトコもオンナの磁石作用で回されているにちがいない。

オトコがオンナを回すとヒスに遭うぞ! 口げんかして男が勝ったというためしは聞いたことが無い。

何年経っても今「あの子を目で追ってたよね」 『ちゃう!ちゃう!』と云い合いになった最中に「二年前にもイチマルキューで追ってやーん」と云って直ぐに「冗談だよ、信じてるのにきまってんじゃーん! でもぉ、今度追ったら別れるから!」と、とっくの昔に云われ一件落着となって安心していたのに突然そう蒸し返されてきたらどうするんだ。

男女間だけではない、人同士もである、引力作用のある人は存在感ありな人、でない人は宇宙の彷徨さまよ人、迷子さ―ん(ヤだーぁ)。

磁石作用が宇宙なのであるから男女もそうなって当然なのである。引っ付いたら、もぉ離れない! 落ちた隕石が大地に融合するよう、生きものが他の個体内に共生するよう、男女もひとつにとけあってアタリメエだ。

だから「きみはぼくの心の内にずっといるよーぉ! 一生だよーん」となるのである。

ミトコンドリアという共生細菌だって蟲蟲ウヨウヨ入り込んで一生涯に渡ってわたしたちの命を支える60兆もの細胞を活性化してくれてるんだよね――これが弱ると、数が減ると、質が衰えると、病気から死にまで至るほど大切な細菌様。ある意味では小器官である心臓や胃袋と同じという医師もいる。だから決して人は独りで生きてるのではないのです。佳き恋人となっているのはきっとその人が良きミトコンドリアとなって入り込んで働いているからにちがいない。 

ふたつが同時に同じ方向へ力を合わすと、愛もであるが、その相乗効果ってのはとんでもなく何倍もの力を発揮するのである、そうでなければ愛ではないのだよ――唯の欲だから止めた方が良いのである。体も心も健全な人と佳き恋をしようではないか! 不健康な人と恋をすると変なミトコンドリアを体内に入って汚すようなものだ。

そもそも地球が存在してなければ人間だって存在してないことになる。バクテリア→魚→ネズミ→猿→人間という其れ其れが夫夫それぞれの内に種を共生し合いながら進化してきたことは本当にちがいない。

今だっているぞ! ミトコンドリア以外にも体内に100兆個を超える数のバクテリア。腸内フロ―ラだったり、体内時計を司ったり。

人は最高の霊長類と思ってはいかんのだよ、単独で出来上って来たのではないのだから。猫にも犬にも虫さんにだって思いを馳せなければいけないのである。

人を惹きつける磁力ある者になりたいではないか。そのような宇宙を心の内に持てる者は幸せ者だ――そのために生まれてきたんで――そのための宇宙(人生)なのだぁ。


世は生存競争! 強い者勝ち! 剴切がいせつな言葉かどうか?……(やたらに難解な言葉を使いたがるやつは自分に自信が無い事の裏返しさ……「適切」という言葉あったのにぃ。が、「剴切」以外にはないのだよ。「非常」に適してるは「適切」にはないのだから)。ま、これはこれとして。

言葉は生き物。「良薬口に苦し」vs.「苦いは毒草」と、どちらと捉えるかで苦いにも良にもなるのです。

生物は生きてる、生きねばならない、明日の自分にと繋げて行かなければならない。そうなると個体同士が生息域・食糧・配偶相手などで争う。ドが過ぎた傷から死んでしまうことも(当然の成り行き。『淘汰』の原理と云ふ)。

となってるが人の脈絡にとっては相応しくないと断言しよう。

何もキリスト教の博愛精神に影響されたわけでもないし気取ってるわけでもない。

切磋琢磨して自分を、互いを、共に磨きあげる意も含まれるなら当然だからです(これを『陶冶』の法という。淘汰とどっちがどうだか詳細はどうでもいい)この二つの重なり合いをどう調節して行くかが、人らしい在り方なのだ。

もちろん、何が何でも手段を選ばずは論外だが、早い者勝ちとするリア社会であることに違いはない。

どの魚も動物も昆虫だって競い合って勝った者だけがラブゲッチュ―の権利を得る。なかにはゲッチュ―した後その身を食べ物として残するために死んでしまうものもいる。

オス蜂・雌ボタル・カマキリ・鮭・哺乳類だってネズミに似た「アンテキヌス」まだまだある、死なないものの人間だって似たようなものだ、長い年月にわたってかじられるぞ。死にもの狂いで働き食わせていくという点では五十歩百歩なのである。子育て後は人生イノチの半分は失ってることになる。これほど真剣勝負な話なのです。


愛とは、互いの人格が融合し合ってこそ愛。双方の独立した人格は尊重しつつ互いの心に一つとなって共生しながら成長し合うもの。

オ―シ! 佳菜を盗られる前に捕ってやる! というと、奪うか、襲うと捉えるかもしれないが、まぁ、似たようなものだけど。要は優しくか乱暴かの違いだけなのです。

人を優しくしてくれる母の懐への想い、と、恋人や家族から貰う思い以外にどんな優しがあるってんだい。

優しさっていうのは、これと引き換えに何かを期待することじゃなくて純粋な気持ちを上げることで、悩んでいたら一緒に考えてあげて。 笑っていたら一緒に笑ったり。 苛立ってるときは取り除いてあげて。どこにいても寄り添うように心から「ガンバレ」と応援してやることじゃね―の!?

だから、優しさをあげたくなって、優しくして貰いたくなって、恋をするんじゃあ! 

優しは心の海! 命の源! ここから幸せって生き物は生れるにちがいない。つぎにチュッなのだ、これが恋の順番ってもんだ。


とまぁ、そんな事を考えてると真の胸のうちに深まる彼女との距離差を近づけるてやろうじゃねえかという日がやってきました。

『準備良ければ事は成就す』と実際の効果のほどとなると怪しいが、願掛おまじないみたいなもので、事はシッカリ準備してあるときはすでに八割方は成功している。であるから(そう思わなきゃ!)となりきってみる。

先程来から洗面所で五分が十分、髪を左にそして右に、また左にとついに二十分。シャネル N°5 をパッと仕上げにひと吹き鏡の前を後に、顔もパッと『天気晴朗ナレドモ浪高シ』と日本海海戦で打電した秋山真之少佐の1 /10程の意気となって(よっしゃあ!)と玄関を跨ぐとサッサッサと我が道を大股で闊歩する真の姿格好。振り返る通行人たち。香水の所為か?


 「ドン! ドドン!」 「 ドンドン―ヒャララ―ドンヒャララ~~」お祭りは、皆んな姿格好を童心へと、天真爛漫な面立ちへと回帰行―ぉお、磁力マッハ! となって(進路、ヨ―ソロ―! 面舵おもかじイッパイ―!)と、我ながら無邪気なことをゆうもんだなぁ、とつい苦笑してしまう。

――(因みに。皆、と、皆んな、とは趣意が異なる由使用可としたい――「誤字である」という国語学者がいるので――では「非文法的」とされる根拠は? と問いたい。すると表現は、その使用が規範から逸脱して不適切つまり文法的に誤りと応える。そうでしょうか? 事実は、言語は変化して広く受容されていくべきものであるからです。「根性ある!」は昔は「曲がったキャラ」ないし「島国根性(今でも使われるが)」であったがナウは「たくましい精神主」であるからです。ちな、竹取物語の「おのが身はこの国の人にもあらず。月の都の人なり」とする古文中の『あらず』及び『なり』は現国では『ではない。ないのだ』と『にいる。である。です』として通用するから全部が全部ではないが昔の規範で「変わった使用だ」というのはどうかと思います)。――

長原駅前のスペース。所狭い一角。れど大きい。 

煌煌こうこうと七色の虹が(人は、よーく言葉を飾るよね、よーく視ると七色は嘘だ)六(むつ)色の虹が二重(ふたえ)三重(みえ)と架かり、盆踊り大会「あぁ―そ―れぇ~~~ぇえ」の祭囃子まつりばやしのリズムに乗って浴衣姿で踊る佳菜さ―ん、皆そこだけ耿耿コウコウ耿光ひかり放っている。お祭り王国のよう。五色にも六色にも染まる心持。(おまけに七色にだーい! ……『七』と云う文字が持ってる語感がいけねぇ)。

ルンルンとあっちもこっちも、きらめた、包み込んだ、響いた、身を、心を、どこもかしこも身体中を、全神経を、ドン! ドド―ン! ビ―ヒャララと奮わせていた。こずえ提灯ちょうちんも電球たちも奮って揺れていた。時たま吹く風は後押しか……の心地好さにノリ~ノリ~ィ、となってい―る。

半円形に囲む屋台の一角、Goldfishきんぎょ釣りをしてる佳菜さんの姿、待って! 待って! 待ってた! ついにスペースが空いた、思うが早くポイを手に隣へサッと滑りこみセ―フ! やり―ぃ!

気付いてくれてない、気付かせなくちゃ!

「オシイ、見て! ポイの紙が張ってあるほうが裏、張ってない方のこれが表! この表を上に、上の方に近寄って来る大きいのは避けて、ちっちゃいのをゆっくりとサッと掬(すく)うとね、ほら! またゲット」抑えられない口上(速過ぎて通じただろうか?)。

呆気に取られる佳菜たんの顔を無視して突っ走る真の攻め、まるで怒涛疾風の如く押し寄せて次々に波状攻撃をしかけ圧倒的な強さで軍門に下した武田騎馬軍のよう(これだから当時武田軍は勝ったのだ)。 恋とはこんなもんさ……他人には「バカじゃね―の―」と映っても……エネルギーは爆発するモノなんだよ―ぉ。

饒舌じょうぜつほとばしりは、恋のおまけと悠久以来のキメごと。おとなしく黙っていたら「この人キショ!」と云われるに決まってる。

誰が決めたのだろう? きっと、小説家たちにちがいない。一般大衆も小説家の内である。人は生れ種々さまざまな生き方をし様様さまざまな思いを致すことからやはり小説家と云えるのである。職業小説家は彼ら大衆の弁護士です。

「ワオ―、スゴ! 見て! 見て!」捕れたゴールドフィッシュを片手に佳菜さんのデッカイ声! 口はあんぐり、歯は真っ白、口の中奥奥まで真っピンク、乙女美人キメ―! (めっちゃ嬉し、やっと話せた! 金魚が捕れたかはど―でもイ)真もつられ口も目元も悉皆すっかりニコニコマークとなる。 


恋『効果』ですね。この逆は『失望』では無い。『憎しみ』である。

だから一度壊れた恋の修復はフロリダになって、一旦メンデイーとなるとたとえイケつらでもダサ顔に見え出す。その人の貌(かお)を見れば面倒チッと書いてある、本人が気付いてないだけに余計厄介になるのです。

振られたらサッサと身を引く、これが男の美学ってもんだ―い。泣きたくなっても泣くな! みっともない、帰ってから一生懸命泣け。男はどこまでも恰好よくいかなくちゃ! 無理してでもある。追いかけてはいけない。ただ見送るのです。そうすると振り返ってくるのです(やってみなければ分かりません)。

だからね、なんも呼びかけのない相手に対しては唯待ってお呼びがかかるのを待つ、かかるようにする! つぅのが紳士のたしなみってゆうやつなんだよね『待てば甘露の日和あり』こんくらい余裕を持って行かなきゃモテるわっきゃない!

ただし『千載一遇の好機を逃す』チャンスと見たら即! 攻める。 これも紳士のうち、どこまでも優しくね。これを逃したら千年来ないと思え!(おもって下さい)。

『チャンスの神様は前髪しかない』――『Grasp Fortune by the forelock.』とギリシャ以来のれっきとしたとした格言なのだから素直に聞いておいた方が身の為である。「あっ、チャンス!」と気付いたらすぐ掴め「えっと」等と留まるな、その時はすでに神様は通過中、どうやってツルツルな頭を掴むんだ?

ぶっちゃけ云うと、取り逃がすのは(ここだけの話!)自分に魅力が無いと飽きらめてるか、莫迦ばかか、のどっちかなのです。

魅力が無い、可哀想。

そうなって当然。

自分を魅力あるように改造しないからだよ。が、無理めな男に美女が惚れる、逆バージョンもあるにはあるが、これは誠心誠意尽くす心が魅力的に映った時なので殆んどは相手を惹きつけることはないであろう――恋の入り口は、見た目、だからです。

ひとつだけ手があります、純愛一途の小説を、ム―ヴィ―を、コミックを、全力で暗記したらいい。『模倣は習熟の始まり』です(結果を保証するものではない)。


「ちゃうちゃう、追っちゃだめ、ポイがやぶける。ね! 見てて、ほれ! 来た来た、向こうから近付くのを! そっと素早く、ね! ゲットしたろ」

「なーるほど、そんなに浸けといていいんだ、破れるかと思った」やっと十年来の友だちのような顔付となってくれた佳菜さん。

「浸けたままにしておく方が紙繊維の強度が増すんだよ、動かすと水の力が加わって破ける、ただジッと待つだけね。やってみて!」

ここまで来れば! とついに生な佳菜さんに触れました。温かった―ぁ! スベスベな手に腕(こっちのキブンも滑滑すべすべだよ―ぉお)自然を装ってワザと触れたのでした。

「うん! してみる!」と云ってポイの先を見るかと思いきやジッとこっちの顔を見入る佳菜「…………」アツかったあ―! ガン見は、チゲ、温かな瞳の見入りは、恋へと登竜門、トワの繋がりにだって。

見なくなったらおしまい―だ―あ―。シカト・スル―で苦々しくなるのがその例。甘いガン見はお誘いの交通信号。何色かが問題だ―ぁ。

と! 継いで出た佳菜の言葉が「『張ってない方が表! 動かすと破ける』これは使える―ぅ! 文化祭金魚すくいあっから自慢したるわ」

真もとっさに(ん、チャンス!)「文化祭いつ?」

「九月八日九日だよぉ」(やった―! 行かなくちゃ! ぅう? 日付訊いてないのにゆった、ああ、お誘いか)と宝物を得た気分になる。文化祭での自己ショーに始まりいろいろ話を交わすことができ後々の水族館行きになるという実際の宝物ゲットへと繋がっていくのでした。

 「ぱすてる長原商店街」の特賞3万円、大田区内共通商品券、狙っていた! が当(まさ)にパステル、淡い色合いで終わった。けど Goldfish が招いてくれた Gold 記念日になりました。

ドッコイ! 良い事は続かない「これ! 良かったら、佳菜ちゃんに!」と差し出す焼きそば。やはり現れましたか、その顔は見上げなくても腕先が教えてる、無駄な数を巻くミサンガ先輩。

「ありがと」としゃがんだままの佳菜さん(まま! 居ろ! このまま居ろ!  居ろ! 居ろ!)。

「なぁ、なぁ! 是非、是非! 見て貰いたいのがあるんだ、来て! 来て!」ミサンガの化粧いつも以上に厚盛り、必死な口説き戦闘モードの下、ついに佳菜さん軍門に下ったか、共にモゴモゴの彼方に行ってしまう。

引きずられてゆく佳菜さんをただ見てるしかない(悔し―い―!)が顔はポーカフェイス、手は握りこぶし

連れ立って行く佳菜さんの友だち結夏さん、こっちを時たま振り返りつつ(いいの? どうするの?)と言いたげに右へならえ。

「あぁ~~そ~~れぇ~~え ドン! ドッドドン、ン、ン」の祭囃子の音弱々しく遠くに去り、胸の内に燈っていた灯かり遠のく。

 

 いつも通り学校行って何してあれしてこうして(…………)けど悶悶モンモン雲。いつも通りでなくなっていた。

たった一つでこうも全部が狂ってしまうものなのか。

「好きになる、好きでたまらない」は英語で「CRAZY for you」という。しょうがない、世界的にどの者も狂うんだよ――『真っ赤な他人が自分以上に大切になる』真正面まともじゃ考えられない。狂うからそうなっちゃうんだよね。


『ねえ、無理だよ。ふっきるなんて無理だよ。揺らがないなんて無理だよ。会えて苦しいよ。会えて嬉しいよ。ぐちゃぐちゃになってもいい。 いつか変わる気持ちでもいい。 転んだら自分で立ち上がる。 泣かされたらあたしいっぱい泣くから。 バカだなって笑って(マーガレットコミックス椎名軽穂作 CRAZY FOR YOU より抜粋コピペ)』ねーぇ! 誰もが云ってるでしょ。

――かと言って馬鹿正直は損、追えばどの動物も逃げものです。これでもか、これでもかと「好き好き」を見せれば見せるほど、それほど、早く相手はウザく感じてしまうのだよ。たまには引いてみましょう、気になって振り向くことでしょう(「!」か「?」は断定できないが)、「!」な時こそチャンス!


 以後、何かと理由を付けては、佳菜さんの家が長原! 長原教会の直ぐ傍! 

ならば、と今日もダチんちが長原にあることを良い事に一個先の洗足池駅からの方が家は近かったが、そっちから遠回りして帰るようにしていた。

この長原教会は、長原駅舎と共に渋いのだが、あっち観こっち観しながらゆっくり歩いても7分もあれば着くロケーション内。オートマティカリーに口笛は出るし、両手は目一杯振るし、つま先は踊ってるし、このテリトリはおれだけのもの! 歓びの途(道)になっていた(他人がこの姿を見たら「狂ってる」としか見えないね)。

この駅舎に向かい右方は、JR五反田駅を右目に経て目の前の坂道を登って SONY 屋舎を左目に過ぎてくとほどなく右手に品川駅がどっかり、ここまで来れば、もう! 銀座への道、一直線! の所にあります。

この左方は東京都民飲料水の水所、実際は他水源もあるが、父の時代は「スイカを浸けながら格好の泳ぎ場として遊んだもんだ」と聞く大河川多摩川に通じる中原街道。ワズ牛車行き交う生活路、ナウびゅ―! びゅ―! カッ飛ばす車の幹線道路。

それらに位置するローカル線の駅、だが真のうちにはやがて賑わうことこの上ない地となる。というと、他人には「恋の空騒ぎ」といってただ騒ぐだけじゃないか! と映るかもしれないが、どうでもいいこと、本人には大真面目なことなのである。

いつもの学校帰り「自転車で銀座まで行ってみた―い!」と云い切ってみる。(いつか行ってみるぞ!)とデラ思っていた。

「馬鹿か! チャリで!」普通にいや―、いいのに、一人わざと大声でだ!(妬きもちヤロウ奴(め)!)。

「真くんらしい―!」(やっぱ女子はイ―!)『男子は女子とは一生引っ付くもの』と決めた神様はエライ! ――『神は言われた。「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」(創世記1章26節)』そして『神は、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された(創世二・二七)』人は自由、その生き方は生き方として認めるが、ただ自由とは有意義なものでなけれなりません。なので互いにのうちに意義あるものを育むことができるのが愛ってもんさ(人界も宇宙界も全て+ (プラス)と-(マイナス)。そうなると男女間だけでなく社会・隣人・仕事・友人・家族へもである)。きっと、神様は「だ! だ! ガンバ!」と仰るにちがいない。

十五年前、一目見ビビッと恋心にが点いた場――二階の窓辺から、長原教会で、洗足池でのデートで。その後長く続く惚れ惚れをはぐくんだ出発地、この時からふたりの相思相愛は始まり、運命は動き出していた。この運命を左右したのは、ずっとズット後になって知ることになる自らを取り巻いた四囲しいってやつだった。『人は環境の生き物』だからです――『あなたが出会う最悪の敵は、あなたご自身。最良にするのもあなた自身』のたとえのように。

 

今日もダチんちが長原にあることをい事にそっちから遠回りして帰るようにした。

最近よく話すようになった同級生、豆牛と名乗る豆腐屋さんのとっくんちナウ。先程までのザアザア雨も上がり、モワッとした風も戻る。夏らしい。 

この寄った先のダチんちでデッカイおぼろ豆腐「旨えな―あ!」 『搾る前だから汁が残って甘いんだって』 「それにして豆腐がこんな甘いとわ」たっぷりのマヨネーズと鰹節付レシピを、旨! 旨! ピチャピチャ、舐め食いしていた。小一時間ほどのト―クを楽しんだ、いや、むしろピチャピチャ旨旨の方が目的だったのかも知れない。

「じゃ、またね―!」とその家の前の両腕三つ四つほどしかない短い坂を一気にホップ! ステップ! ジャンプ! っと一跨ひとまたぎ。

登りきると直ぐに商店街のメイン通りにご対面「よっ!」っと御挨拶。このメインを雀足(スタコラ)さっさ! 長原教会の方を通って帰ろう、と。

 突(と)、その時「オ―! 相変わらず威張って歩いてるな、食べるかい?」

トリ吉の源さんでした、結夏さんのお父さん、佳菜さんとは同いクラスメイト。「ハァ―イ! 食べたいす」 「じゃ、裏へ周りや」 『あら! 真ちゃん、丁度揚がったとこ』佳菜さんのお母さんとも相変わらずの優しさありがたい「こんちわ!」 『ゆっくりしていって』そこへ店に戻ろうとする源さんに「結夏さんは?」と訊くと振り返るでっかい目玉以上にでっかい口で「もう直ぐけえってくんじゃね」(だいじょうぶですよ、盗らないから)。ニャん子まで「いらっしゃい」と顔をのぞかかせて来るこのファミリアな空気が一層腰を落ち着かせてくれる。

佳菜さんとの事は第一ランド終了、次のゴングのときこそ!

それにしてもナウ高嶺の花の華の女子、けど! けど! どうしてもゲッチュ~したい標的。(それでは! その友だちの結夏さんを大切にしなくちゃ―!)とばかりになって、オマケにご馳走にもありつけるなんて。

 

「高嶺の花を羨むより足下の豆を拾え」誰でしょう? こんなことを詠った人わ? 

大物狙いをするより小物で我慢しろってっか、ムリ! ムリ! 

「志高ければ道は見える」リアに拓くかどうかは別にして、最初からなんも見ることなく諦めるなんてもったいないではないか。

と云いつつも(物事は妥協も必要、程々が丁度よいのである)と分からないわけではないがやる前から尻ごみするなんてその本気度を疑われても仕方ないぞ! と何所かプライドか見栄か或いはただ単に欲でしかないのかは分からないが、ガツンコと頭を突かれる気がして自らを鼓舞してるのであった。


間口狭く奥行き長いお店の裏庭。

猫の額ほどの一筆のキャンバスのようなスペース。

屋外用テーブルにイス。所々色は剥げさびも 3/10 程、が辺りの空気には食い物屋の匂いが一体に漂い、居座るとどうだい! このちっぽけな一角が、広く感じ、水彩画のよう、柔らかく透明感があって、落ち付くではないか。

隅っこにバジルが埋められていた。隣家の塀の白色が反射して光っている。白い可憐な花々は、幾段にも重なり合い大きなひと塊の房となって、一つひとつは数ミリ程でも誇らしく咲いている。

近付くとなんとミントな香りを数十センチも放つ、手に触れるとこの香りは付いたまま離れない、野の花は強い! 流石、つわもの、人類より前にデンと誕生していただけはある。

日本では一年草二年草だが西洋と同様に「癌予防、美容効能あり」と、健康葉として愛用されてきた。

『夏草や兵どもが夢の跡』――「野草は、むかし、武士たちがいさましくも、はかない栄光を夢見た戦場のあとを見ていた」と芭蕉さんは詠んだのだろうが、別な顔は、紀元前4000年前後には既に人間・子孫繁栄に大いに役立ったイノチの葉――「野草は兵」という謂れ(由縁)なのだろう……野の花の特徴は小さい。が、その小粒には、一般栽培のより、凛とした強さを垣間見せ。凛とした強さを誇って。これが却って大きインパクトを与えてくれるのです……今日では大きな花が好まれるがこれは元々の姿ではなかったのです。やはり自然の下で咲く物には本来の美しさが備わってると見えてならないのです。強さとは美しさであると人の人生に重ね合せて見るからである。――

源さんが育てるにちがいない、さっき話しながらしきりに葉を花を愛おしく触れていたからです。弁慶似の源さんの形相とは全然とてもお世辞にも云えないが優しさの一端が伝わってくる。

「ほれえ―! 食いな!」 「ありがとうございます! バジルに花が咲くの初めて見ました、源さんが育ててるんですか?」 「植物は嘘付かねえ! 面倒を見てやるとその分だけお礼の笑顔を返してくれてるみてえだしな。花にも義理人情ってもんがあるんじゃねえ―!」(捉え方が任侠道ぽい! さすが元やくざ稼業の親分さん)テーブルの上には店頭に出せなくなった切れ端の照り焼きに甘辛サツマイモ所々千切(ちぎ)れて、形はどうでもいい、四方八方味が染み込んでこれが旨いったりゃありゃしない!

 そこへ丁度部活から帰宅したままのジャージ姿の結夏さん。

押忍おす! 今日、駅で待ち伏せしてた中学んときの進藤くんに告られちゃった。おどろいた―!」云う言葉と動作は裏腹、満更まんざらでもない顔付、ああだ、こうだ、ピンピン手と足を交えゼスチャーしながら説明する結夏さん。

「あ―、あの先輩、日替わりでいろんな女子を口説いてるらしいよ」と横やりイッパツ。

この進藤先輩の弟が真の学校の同級生、上っ面だけの調子コキな野郎なんだ、「返す !返す! ゼッテイ明日返すから! なぁ―!」と懇願され1200円貸したのに三カ月経ってもシカト―(金高ではない、この図図しさ、このヤロウメ!)。

『金の貸し借りと政治の話しは不和の基』の通り、友を失うとは本当だった。

「知ってる。だから云ってやったわ。うち、チャラっぽい人無理! って」な―んだ、チャラって知ってたんじゃんか、ということはおれを惹くためにわざとピンピンなふりをした陽動作戦だったのか――女子ってちっちゃい頭してよく考え回るな。

「ハッキリ云ったね」わかる! わかる! 男子とて、スケバン、浮気症な女は論外!「隠れて見つからなければいいんだよ。騙される方が悪いんだよ―だ―あ―」と平然と言いのけるのが流行はやってるだけに結夏さんの言葉は一入ひとしお身に共鳴つまされる。

「お母さ―ん! 私も甘辛の―ォ!」喋る口と聞く耳と同時にポイポイと口に放り投げる。

形崩れのものほど味が微妙に染みうま―い! モノに人も含むなら、少しくらい傷持ちの人の方が却って味のある人ってことにしよ。源さんのことを念頭に云ってるのではないが、まぁ、そんなとこだ。

「ほれぇ―! 揚げたてソースメンチだあ」普通の楕円形がコロッケ。が、上半分と下半分の形が全然違ってる。どうやって揚げるとこうなるんだ?

直径二センチはあろうかという程のぶっとい指、これに載せられ皿の上でジュジュウとした音に合わせ匂う湯気が猛烈にいきり立っている。

「アっツっツっ! フゥ―フゥ―! バリバリ」立ち所に喉を通って無くなる。「口の横ブッチュ! ふたつもソース跡、左右均等! 逆三角形―! ケラケラケラケラ!」と大口笑いをする結夏さん。

「テッへヘヘへへ」と応える真。

それを見た結夏さん「可愛い」と返してきた「いやいや―! どもども」と応じるしかなかった。

テレクサを封じるのは笑ってごまかすにかぎる。だが、これが可愛いとまで云われると余計にテレクサ倍増『穴があったら入りたくなる』女子って、よ―く観察してるな。

女性の方が注意力は上だろうか? だから男の嘘を、浮気を、よく見抜くって話になるのかぁ。

そうでないと大型動物時代、男が狩りに行ってる間、強く鋭い勘を持ってないと独り自らを、子を、守れなくなって食べられてしまう。

そうだよ! きっと。


ほんのわずか一口半残した皿を下へ置く、さっきから頭を身体を尻尾しっぽを行ったり来たりスリスリして来るあっちゃんのためでした。口を小気味よく左右にプルップルッ振りながらガツガツごっくん、これまた、瞬く間にペロりと平らげてしまう。やはり口周りに、おヒゲちゃんに、鼻に、顎下に、ソース跡が残る。

フゥ―フゥ―! バリバリの音は猫もするんだな、まったく同じ人間じゃんか! 人と同じ動作をするモノは皆、仲間・人・身内なのです。同じ人間同士でも気持ちの通じないヒトはアブナイ物としていた。

この界隈ではボス筆頭らしい、威嚇するときの声が「フ―ッッ! シュ――ッ! グワッ!」ではなく仔猫の時から「アァ―――ッ! アッ―アッ―ァ!」と甲高く長い雄叫び声をあげることから、あっちゃんの名が付きました(確かに! 進軍ラップの音は甲高かんだかい)。

「坊ちゃんの先生にはいろいろ世話になってる、ん―っと食べな。足りなきゃ持ってくるからな」


 『人は過去ではない現代いまである!』これを云ったアインシュタインは当に的を射てる。きっと目が三つも五つも脳ミソも八つもあったにちがいない。

しかし、今だ解せぬ話は、一般相対性理論であるがこの成立に影響を与えたとする『二つの平行線は交わる』とした考え主のアインシュタイン様はやはり宇宙人である(これ以上は口にしない事にす。彼の理論を解せぬゆえボロが出る)。

ただひとつ彼の云う意見と一致するものあり『空想は知識より重要です。知識には限界があります。想像力は世界を包み込むのだ―!』(イメプは別です)、空想とはイメージです、この世のモノの存在は、善悪すべて、イメージから始まってるのです。イメージ正しき豊かな人と絡んでいきたいものである。

――若干40歳にして事の核心を云い切ったイスラエル人歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリによる世界的ベストセラ―本『Sapiens: A Brief History of Humankind(サピエンス全史)』は興味深い。彼の云う「この世のものは全てフィクションから成り立っている」は同感である。フィクションとはイメ―ジ、経済紙幣の一万円はイメージなのだがそれ自体の貨幣価値は不動のように、宗教も正義も愛も戦争もすべてイメ―ジだからです――例えば「愛は命」とする「命」とは「心の全て」或いは「生き甲斐」と捉える、この不動のイメージの許に人は生きる、即ち、そういったイメージの確立だからです。――


 イメ―ジが人の考え方を変える、変わって行くのが人である。このきっかけとなるのが環境(出会い)というたったの二文字(環境)です。ここからすべては始まるのです、そしてこの環境が人を変え、幸不幸までも決してしまう。


 最悪な環境を挙げればその一つに『井の中……』――なうは、エコ―チェンバ―とも解されるが、自分と同じような意見が彼方あっちから此方こっちから返ってくるような閉じたコミュニティで暮らしていると同じ意見の人々とのコミュニケ―ションだけに影響されて特異な意見や考え方が増幅されてしまう。

そうすると、自分の意見は正しいと勘違いして、いつもの変わらない同じ人種達間同士だけで見聞きすることが全てとなって、ぬるま湯に浸かるが如く抜け出せなくなる。

もっといい事がいっぱいある世界に気付かないなんて勿体無―い!


 誠実に向き合う者同士でいたいではないか。あのねえ、どんな人か見破る方法があるんだよ、それはねぇ、何に笑うかでその人柄がわかっちゃうんだよね―え―。

たとえばのひとつ、人の悪口や欠点に全力で笑うやつは要注意。云い難い事でも穏かに伝えようとする人は 7/10 信頼できる人、得意気に云う人は 1/100 信頼できる人。(あとは、目下研究中です――判らないとも云ふ)。

 職は、いろいろある、社会に貢献するものでなければなりませんと何度小学校以来云われてきたことか。

同時に職はその人を形作る。先生は先生らしくいくら自分好みタイプの可愛い女子が居たからって依怙贔屓えこひいきをしないでみんなに平等であること、お巡りさんはお巡りさんらしく、大工らしく、クロネコヤマトらしく、裁判官らしく、落語家さんらしく、芸能人らしく、作家らしく、と何所までもなのが基本である――大学教授がホストしたら可笑しいだろ……といや、H-IIロケットの開発祖である東大教授の糸川英夫先生が「アメリカに依存しねえぞ!」 「日本初のペンシルロケットを成功させてやる」と云って実現していなければ今日のロケットは大分遅れていたことなるのだが当時バレエレオタ―ドを身にまといバレ―ダンスを舞うのが好きだったそうだ、いや、気休めにバレーダンスを取り入れたのかもしれない、どっちにしてもやることをきちんとやっての趣味ならいいじゃねぇ、勇気ある人だ! 見たいとは思わない。

が、人としてはそれぞれ、相応しくないことをする者もいるのが片やの姿。職意識が緩慢だからよ! 威張りたい! 儲かるから! 止むを得なかった! だけの訳の分からない屁理屈を自分の内に作るからです。このように何を理由にするかでその人が分かっちゃうということね。

どうせ仕事をするなら、遊びの延長とまでは行かなくても趣味の延長上くらいに仕事を見据えて職をまっとうできる者になれば正真正銘の『倖せ』者。だって相手にも『幸せ』は行くからだよ。自分だけ良くての幸せってあると思う? 勿論、仕事を遊びくらいに捉え創造的に働くというその喜びは、自身の『幸福』とも直結しているからだが、独りだけの幸せってなんと侘びしい姿か。 

そんな抽象的な話じゃなぁという人もいるけど、確かに幸せの形は千差万別、と昨日まで思っていたが、答は意外やシンプル、必要以上に複雑にするのは専門家に任せてさ『幸福とは充実感』だからです――『充実感は目に見えた形』、『幸福感はそこから得た精神的なもの』なんだよね。そうなると一緒に分かち合いたい人が欲しくなるでしょ。

職を選んだ以上はその責任がある。

責任の持てないような職は職ではない。丸出しの欲(亡者もうじゃ)つまり、さまよう魂)である。

職とは、人の役に立って、自分も成長して、の道場であるからです。


 物事はそう格好良くばかりは行かない、そうさせたがるのは詩人さんや小説家、そして車や JAL のコマーシャルだけであって、リアは、どんな身分差、様々なイメ―ジ差、貧富の差はあっても、皆に等しくゆきあうことなのです、独りだけ際立ち勝ちってのは行けねえよ――そんなのを見た時は引くぜ。

 「子供が、女房が、極道に居るとしがらみを残す、迷いも生じる。こんなこと能書き垂れるやつは、ほんとは弱いんや! 勇気がなんや! アホなんや! ホンマの強さはな、わしは女房子供に普通な生活をあげたいんや」と四代目山口組組長竹中正久が云ったことを念頭に考えだしたかどうか定かではないが、異口同音とばかりに、堅気な道を! と意を決した源さんでした。

後にこの四代目はヒットマンにられるがその者のうちに源さんの組が送った者が含まれていたかも有耶無耶うやむやの彼方云々という者もいる。

『人は環境、環境は人、人は幸不幸の元』こんな簡単な物差し(規範)が解らずに「ああ―! もっかいやり直せたらなぁ!」と唯願望だけ! 只行動ナッシング! また具体的解決策をどう講じたらいいか考えようともぜず他人のせいにばかりして云うだけで終わっている。

環境とは自分だろ。自分が良くなっていないのに係わり来る者が善い人である筈がない。誰が汚いやつのとこなんか行くもんか!

しかし世は非情、一方的に潰しにくるときも。

誰も助けに来なければ直(ただ)冷酷な運命に没してしまう。だからこそ日頃から環境――人選びを整えておくべし。これしか交通事故保険となるものはない。

巡り会った人たちに運が無かった竹中正久。祖父が助役、実父が村議会議員を務めた裕福な良家に生まれ、引き継いだ頑張り屋さんに成績も優秀な遺伝子を受け継ぐが十二歳の時に実父が亡くなる。

全ての歯車はここから狂い出す。

……弱い者へは更に寄って集ってよってたかって潰しに掛かる。こんなのヒト動物だけの現象。動物の世界では襲うことはまずない、腹を上に見せるとどの動物も襲うのをやめる――ヒトは、他者間にトラブルがあると、守ってあげようと止めに入ると今度は自分が攻撃される、見て見ぬふりをする弱い動物ってことだ。いくらでも止める方法はあるのに。たとえば即通報だ。こうしないと世は丸く回らないのである、社会にトゲをまき散らす人であってはならないのだよ。

兄が「不当逮捕です」と抗弁こうべんする。『なにお! ガキのくせに逆らうのか』 「みんなに訊いてみてくださいよ! 僕じゃないことが分かるから」 『生意気だ! コノヤロウ!』という理由だけで特高警察による拷問が原因で死亡していたこと。

父を失いその上に兄まで失って貧苦のどん底に落とされお金がなかったから昨日も空腹、今日も一日中下を向いて歩いていたが食べ物はナッシング、無茶苦茶な世に腹を据えかねたか、世情も戦後の食糧難の時代、そこへ持ってきてご飯代を稼いでくれる者は皆無、不図つい空腹に耐えられずスイカ一個を持ち出してしまうがこれだけで「泥棒―め!」と即少年を逮捕してしまう。

その際に警察官から数日間にわたりボコボコに殴る蹴るの暴力を振るわれた末に少年院送り。

イチ少年を。独り孤独な逆境を。未成年者を保護する立場の大人。倫理も道徳も人情もかなぐり捨て。一体目の前にしてどんな大人たちだったのでしょう。

普通なら未だ少年、初犯でもあるから補導として始末書や説教やゲンコツの一つくらいで済む話。今の法律ではゲンコツひとつでも、しないまでもしようとするだけでも即違法行為でその刑事は処分されるはずだが、実際はとなるといまだに危殆あやふや

父親が死亡していただけで誰もこの少年をかばう者がいない境遇が招く悪戯なタイミングというやつだ。結果は関わった警察のせいで悲運の極みってやつに追い落とされてしまう。

少年院送りとはまさにゲッの骨頂! せないぞ―!。これから警察官を目指す者は、法の番人以前に、人として優しい人であってほしい。いくら北風を吹かせても旅人は服を脱ぎません。あたたかな陽を注げば犯人は脱いでくれます、立ち直る機掛きっかけにもなるかもしれません。そのような人であってこそ世は温かく回るからです。


 万が一、上司に恵まれなく非人道的な立場ないし意に反する職責に堕ち入ったときは、他の職にとらばーゆするか、予備試験をパスして巡査部長昇任試験及び警部補昇任試験の一般昇任試験にチャレンジしてその上司を見返してやれ(『警察官の任用に関する規則、人事委員会規則第14号』詳細は各都道府県の定めによる)。

もし今中高生大学生であって、警察官全体を指導するキャリア組に入りたいとするなら先ず著名な大学へ進学すること。これを足掛かりに国家公務員採用総合職試験にパスして、幹部候補生として中央省庁に採用されるという手を選べばいい(給料は、初任給が総合職試験パス後で年収二百四十万円辺りから始まってそのうち数千万円ってこともあるし)――しょうがない、学歴社会っていってるからね―え―。


 弱い立場の者へは更にその弱さをき責め立てるこの世の風潮、囲み心理。

多くはないがこの一部の者たちの為に全体へとワルい影響を及ぼしてしまうこの不条理な社会格好。

そんなヤツ程どこかで弱い者いじめされ虐げられた原体験主か、現に社会の底辺でうごめいてるやからにちがいない。

うっぷん晴らしにふけるしかない能のない弱虫さーん。少しでも自分より大きいと真っ青に顔色変えて必死になって逃げるチンケという名の虫螻むしけらってこっちゃ! ――虫さんに失礼である。アサギマダラって蝶は一日100キロ、延べ2000キロも天敵・過酷な気候を物ともせず飛んでいく勇気、この虫様の 1/100 でもいいから見倣みならった方がいい。


 十七才で入所し十九才まで少年院暮らし、たった一つのスイカでだ、どこが更生なんでしょうか。

成長の芽を摘んだのは誰だ? 更生施設行きはその大人たちだろ! 裁判官分限法の厳正化、並びに、警察官職務執行法の改正化をいつ行うんだ? この21世紀になっても、まさか50世紀になってもこのままかしら? ……(あり得るね、伝統好きな国民性だからね)。

この期間三代目山口組宇野組組長・宇野加次の息子宇野正三と出会い親交を交わすようになると意気投合し兄弟分の約束まで交わしてしまう。互いの心情を理解するようになるとやがて警察や権力への不満・敵意・反感をむき出しにしていく。

こうしてこれが後に竹中正久が山口組に入るきっかけとなり大親分まで登り詰めるが、そりゃもう様々な事件の首謀者へと変貌して行ってしまった。

環境の恐ろしさを垣間見る思いです。

ワルいのは関わった者たちだけじゃない当時の社会も、警察も、裁判所もである。しかし、悪に染まらない者も居るのだから竹中正久も相応にワルいとなるのだが、不運としか云いようがない。

気付いた源さんは運が良い。組同士の抗争の果て命のやり取りは日常茶飯事、殺され残された女房子供たち達の涙を、その後の貧窮を「これ以上どうにもならないの!」という奈落のドン詰まりの生活を見るにつけ、当時若手武闘派組長であった源さんはついに組を突然解散してしまう。

その時の舎弟の1人が、この者もだがガタイが大きく矢張り矢張り涙脆なみだもろ)いキャラして、金魚の何とかみたいに引っ付いて来て、同じ路線の戸越銀座に居て今では真面目なカタギ稼業・運送業に芸能プロダクションにと就き社長業をこなしているそうです。

自らの行いが良かったから相応な人に巡り会えたのだ、このお陰で好環境を招いたのだ、これが運の順序ってもんである。

資本は自分の身独り! 人情味だったり人柄だったりどっちも似たようなものであるが、これに溢れる人には、運も微笑む、誰もが付いて来る。

一緒にいるだけで気が和らぐからです。

それでも若し、誰も味方になる者がいないときは、「『三人以上が社会』。二人だと双方は同調するよう務めるが、三人以上になると社会性ってやつが芽生え。この社会性ってやつは重要だが厄介。生じる四つの事由とは。『対人行動 - 他者を信用し認めようとする』 『集団行動 - 集団の中で協調的に行動したくなる』 『社会的欲求 - 仲間から好意を受けたいという欲求を持ち、仲間として認められたくなる』そして四つ目は『社会的関心 - 時代の情勢、風潮に感心を向けるようになる』」というから、人は様々さまざま考え方は様々ようよう。なので拘らずに。その者たちと戦うな! 耐えるな! 出来るだけ早く脱出せよ! 三人以上なんて世界は別にいくらでもある。毒蛇に向って行ってもなにもトクはないからだよ。


結夏さんのお父さん『源』さん名は、本名はマナミ甘美かんみである、皮肉くって『名は体を表さず』の方がより現実味を帯びている。

仮に、細井美美美ほそいみみよという名の人が居ても太って怖い顔をした人かもしれないし、悪者鬼太郎という名前でも良い人かもしれない。名は記号であって名の通りの意味を表すものではないが、流石に「不味い店」と書いてある看板の食い物屋だけには入りづらい。

ということからその本名は目立ってしょうがないのであるが、みなが付けた『愛称名』です。 

牛若丸を守ろうと、雨・爆弾の様な矢を独り身体いっぱいに受け仁王立ちしたまま絶命した弁慶の話になると、誰の前であろうとお構いなく泣くことがあるからでした。ウソにも柔和な面立ちとは云えないがやる事が優しいとその顔までが良く見え出すからフシギ。

『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』の逆バージョンで『痘痕あばたもえくぼ』の通り。これが人の人情ってやつである。

高原のヌ―が襲われた。食べられた大変とみな一斉に逃げる、一頭のライオンが一頭のヌ―の首元に噛み付く、つづいて何頭もが襲いかかる、前足をピクピクピク、後ろ足で立ち上がろうと必死、再び引き倒される。これに振り返った一頭、つづいて群れの塊が戻り始める、また別な群れも付いて来はじめる、食われる危険を顧みることなく襲っているライオンたちと弱って倒れている仲間のヌーを取り囲む、するとライオンたちは逃げ出す。

これがバッファローの人情じょうである。

人情の無い世界は暗黒だ。人情あっての人である。ひとつの棒がもうひとつを支えて人という文字の形ができているように。

意想外ひょんな行き掛かりから、この商店街の下働きをするうちトリ吉のお上さんに、次いで御主人に見込まれこの家の娘をゲットしやがて子結夏さんにも恵まれるようになったこの者もこの地に赫赫明明かくかくめいめいな碧の光りを見、あのバジルの真っ白な花たちが咲き耀くように、終生の地としてここに根を下ろしたのだろう。

謹厳実直な働きぶり、人との接し方、これさえあれば、少しくらい不器用であっても顔は三流でも魅かれるものです。

居丈高いたけだかな老若男女共、相手を見下したような尊大な態度なやつはやだね―え―!

人は共感で繋がるイキモノだからしょうがない。

この感情優先の社会を同情社会といって、実はこれが中心となって、社会は世界も政治も仕事も交友も恋愛だって、回っているのです。

「オ―! ナイスなプロジェクト!」と皆が褒めたとしても「アイツとだけはやりたくない」となってそのプロジェクトが実現しなくなるのは感情がそうさせるからです。「良い点も無いわけじゃないけどあの性格じゃなぁ……」とその人柄に懐疑を抱きつつも見た目優先で美貌主な方を選ぶ恋愛事情……まったく理に反してますね。このように理論整然とした小説は売れないのもこれが原因である……そりゃそうだ、中身が重要であることは認めつつもこれを別に追いやって、どうしても面白い、或いは、綺麗な方に行くのが感情だからです。

感情優先のこの「同情社会」は「『environmental sociology 環境社会』といって人間社会と環境の関係を研究する新しい学問領域」で、云い換えれば『人間社会の社会的、文化的環境だけではなく、その生物的、物理的、化学的環境にも目を広げ、主に人間社会との相互関係を解明することを目的とする研究分野』(飯島伸子初代会長、現首都大学教授)」だそうです。この点では実は、真も彼の恋人もその例外ではなく、それどこか二人の話しはこの渦に巻きまれて行くのであった。

若いから大目に見るやろうと一見物分かりの良い事を云う人がいるが無理して言っているのです。幼くても少しくらい変わり者でも又年配者であっても実直さは、怠けは、といった類は生れた時からの気質なので――16才藤井聡太七段・14才卓球の張本智和が王者・10歳仲邑菫のプロ棋誕生等々――という具合に年齢はさほど関係なく持って生まれた気質は幾つになっても並大抵のことで変わるものではない。

生まれる以前からそう遺伝子がプログラミングされているからです(いくら連勝を目指して努力をしたとしても成らない人も居るのだから)。そうさせた親か生い立ちに文句を言っても詮もないことだが、これで諦めては弱虫さん。本人のやる気次第では好性格つまり好環境となれる可能性は幾分かは、いや、大いにあると捉えましょう(やってみなければ分からない、やる前から諦めるのはもう負けています)。

『能ある鷹は爪を隠す』元々の由来は中国からの『有能な鷹が示す捕獲の知恵』となっているが「爪を見せない」ことで獲物を油断させて一気に捕まえると解釈されている――「意気がる」も含むと解した方が為になるであろう――好性格という獲物を得るはずだったのに逃してしまった、これはこの爪(意気がり)のせいだからです。

 居場所ある者は幸せ。無い者はどうしたらいいか? 支配するな! 貢献しろ! OKを貰う者になれ! そうやって居場所は手にいれるものだ。環境は、相手のオファーを待つ、期待する、であってはなりません。自分から先ず作るものです。

 「出会いはタイミング」と人は云うけど、恋も仕事も運も殆んどはタイミングなのです。

とピリオドを打つことはカンタン、凡人は皆そうしてる。ではどうするか? ここからがスタートなのだ、スペシャルな人となるチャンスなのだ。


 かのノーベル文学賞のパイオニア的な存在であの時代にしては新しい喋り口の川端康成も菊池寛に認められていなければ又第二次世界大戦で失った人の間のマコトという心を探す世界的な風潮になっていなければ又又国際ペンクラブ大会で尽力していなければ更に英翻訳が優れていなかったら、その賞を逃していたというタイミングであり、ジャンボ宝くじ五億五千万円! それ―え! あいつの前に並んで取ってやるわ! と列捕りには成功しても自分の直ぐ後ろに並んでいた人に当ったとなるのも当にタイミングなのです。

当時ノミネ―トボ―ドに挙がっていた日本人作家は賀川豊彦・谷崎潤一郎・西脇順三郎・川端康成・三島由紀夫の5名で、誰にも等しくチャンスはあったのだからタイミングの為せる技としか云い様がない。

なお、冒頭の作家は、創刊当初は発行部数3万部のうち多くが返品されたが改めて当時の社会改造思想を正面にすえた特集を組み直し,多くの読者をつかむことに成功。宗教文学を確立した『死線を越えて』を単行本化してベストセラ―となる。プリンストン大卒の秀才で大正・昭和期のキリスト教社会運動家であったことから長原教会に講演に来た記録もあり。

このように創作もタイミングなのです。だからって諦めることはない。スペシャルな人になるか凡人でオワルかの瀬戸際なのである。

死後になって日の目をみた、後の人がこれを参考にして世に出した、出た作品が何何文学賞に輝いた、なんていう作品はいくらでもあるからです。何故創作してるか? 商売のためならしょうがないが自己確立のためならどってことはないのである(生きてるうちに越したことはないが)。

ちっぽけでシンプルな蒸気式内燃エンジンを搭載した農耕機を見て自動車を思い付いたフォード。

ギリシャ神話の『ピュラモスとティスベ』を元にイタリアの作家バンデッロが書いた作品を二次作品『ロメウスとジュリエット』歳、更に三次作品として『ロミオとジュリエット』として書き直して世に出したシェークスピア。「これこそが彼らしいオリジナル! 素晴らしい」とまたまた真似をした作を世に出して得意顔をしてる小説家ナウたちも。

アップル社のコンピューターをパクって出したマイクロソフト社のビル・ゲイツ。アップル社のスティーブ・ジョブズもゼロックス社の技術をマネしていたのであるからマイクロソフトが「盗んだ! 盗作だぞ」と叫び大見得を切っては責められないアップル社。これを似せて技術の積み重ねして「おー、技術立国ニッポン」と国民全体がその気になったり、これまたまた取り入れて「中国が、韓国が、独自に開発したテクノロジー」と主張する両国。技術の、文明の、成果とはこんなもんさ。

今厳密に当てはめるならどれも、盗作! 著作権! とゼッタイ騒ぎだす……郵便制度や鉄道だって当時の習いから真似して文明開化を成した明治政府だって或る意味盗作さ。

伝染(伝播)するのはなにもウイルスだけじゃない、人間もである。幾代にもわたる多くの者の知恵が積み重なって出来上るのが文明であって、それに合わせて成るのが人間性であって、独りで出来上ったものでは決してない。

ただ断りもなく持ち出し、スパイ、ナリ、自分のオリジナルと主張――典型例として、直木三十五賞・大阪府芸術賞・婦人公論読者賞・菊池寛賞・文藝春秋読者賞・毎日出版文化賞の作家yさんのようにどの作品にも他人が書いた文章が散見。ついに松本清張氏も「『引用の頻度からいって、これは無断借用じゃなく盗用だ』という」が、しかし本人はどこまでも「秘書がやったことで自分ではない」と主張――言葉ほど信じられないものは無い。何処かの国の長のよう「私でないことは明らか、やった者に訊いてほしい。もし私と家内がやってると分かればそりゃ直ぐ総理も議員も辞める」とソックリである。

結果、絶版になった小説あり――地に信用落ちぬ。ああ―、勿体な―い。

何故一言「これはどこそこの引用です」或いは「二次作品です」と云えなかったのでしょう? パクリの多いの小説家世界に限ったことではないのだが活字世界だけに、言葉と違って残る、目立つぜよ。

シェークスピアも『恋はほどほどにするものだ。そのような恋こそ長続きする』この名言は彼のオリジナルだと、とんでもハップン! これ以前に瓜二つなセリフは幾つもあって。三次作品だからこそ書けたのである――ほどほどに彼も評価しないとね。

っていう具合にカンニングてのはいけね―よ。万引きと同じだからね。「何何のお陰で学ぶことが多かったことから更に考察を試みた文章だわウンヌン」的なことを云えばおけ、長長云うのが嫌ならたった一言「何何によれば」を添えればイイ。

「アイツの作品はパクりばっかじゃん!」と云われたら誰も読み気はしない、小説家人生はジ・エンド、只の作文じゃんかといつか、いつの世紀かは嘲弄ちょうろうされることでしょう。

「元ネタだからパクリとちゃう!」という方がおられる。そうでしょうか? ヒントだから許される? だったらそう云えばいい、云わないのは、自分のアイディアだ、エライと見せたいからだ。たとえ一部でも引用した文(コピペ)が作品の趣旨になってればパクリなのだよ。趣旨とは作品のテ―マだからね、つまり、目指す方向なんだよね。道の方向は自分で決め(考え、考えて)なくちゃ。


 あの「あ―ぁ―! そ―れえ―! ドンヒャララ~~」のゴ―ルドな記念日の直ぐ後、結夏さんに相談すると「そ―なの……わかった、じゃ、後でね」と慎重な言い回しだったがその日のうち十一時頃寝ようと思った矢先にようやっと教えて貰った佳菜さんのアド、さっそくその夜からメ―ル! メ―ル。のような具合に世はタイミング次第なのである。もし、翌日になっていたら、部活だ、塾だ、宿題だ、でう一気に萌えまではいかなかったかもしれない。

それからは天国ぅ―う。連日連夜深夜過ぎまで有頂天になって、やがて水族館デ―トでのファ―ストキスとなり「水族館はチュッする場所!」と先輩たちが云ってたことはあの暗がりのあの所々の隅っこじゃあ―な―あ、とホントだったと知る。更にヒ―トアップますますアツアツなメ―ル・電話はつづいてく。

それでも恋は続いても数カ月、もって半年、これが中高生恋愛のパターン。それ以上はあってもイチパもいないだろう? たま―に「旦那さんと何所で知り合ったの?」 「うん、中学生ん時のタメっこだよーぉ」という話は珍しいから大きく出て来る話であって、遭ったとしても数パにちがいない。

そりゃあ! そだ! モテ期だもんなあ。構っちょが居ない方がおかしい、時には見も知らぬチェ―ンメ―ルまで回って来ていきなり写真見してナンタレと知り合いになってその日の明け方までつづいて「いいも―ん、若し別れるようになっても、また告るも―ん」と云って実は一ヶ月後には別々になってまた違う人に同じことを云ってたという具合にその場は大本気、後は冷めてしまうのが恋の裏の顔ってやつ。FBフェ―スブックのメッセンジャ―だって一気に何十枚も写真を見せられことがあってもまたまた次の人が同じように見せてくると……。このように事欠かないのが中高生である(体育会系とン系は別、疲れて寝ちゃうから)。

といっても恋は続くのが目的ではなく一生を楽しく添い遂げるかどうかであるからなにも真剣に受け止める必要はないのです。『運命の人に出会う』これが肝要。ところがこの確率はなんと 0.0000034 % だそうで、1961年にアメリカの天文学者であるフランク・ドレイクによって考案されたドレイク方程式から算出したんだって。この数値の信憑性はそれはそれ、それほど『運命の人に出会う』とうことは極稀ということなのでしょう。


 研究者っていろいろ居るなぁ、連日連夜四六時中、コンピュ―タ言語と睨めっ子してたり(この理工系技術者のお陰でスマホもホイホイ利用出来てるように)、黴菌や細胞に没頭してたり(ノ―ベル生理学・医学賞に輝いた山中伸弥教授のように)、わたしたち一般人だって同じようなもの、幸せだったり愛だったりの研究を連日してるでしょ。だからおれらもみんな研究者なのさ。


じゃあ、本当にハッピ―ィな相手に恵まれ「あ―あ―! この人と百年後も再びやっていきたい!」と云い切れるような人はほぼゼロに近いってことか? とまあ―なるが、気にするこっちゃない。

ドジや欠点が却って好く見えてダマシだまし素敵な恋を一生終えるって考え方にシフトしたらイイ。

まさか居ないだろうけど、居るんだよねぇ、こんなの信じちゃダメ! TVドラマや恋愛小説の「かっけ恋! 理想的な恋なんだよね―え―」 「もうだめ! したい! そな恋を! 永久の恋を」 「こいつと付き合ってるけど全然だめじゃん。あのロマンチック一筋の恋をしなくちゃぁあ」と。こんなことしてたら一生理想的な恋なんて無理ってことになる。今ある恋を理想形に近づける努力をしてこそカッケ恋になるってもんさ。ならなければ電車を乗り換えればいいだけの話。

虚構の世界と事実とどっちを信じますか? 虚構とは実際には存在しないどこまでもイメージであって演劇とか小説等の実際には起きていない事なんだよね。

併し! 幸せを運んで来てくれる青い鳥に違いはないであるから自分が求める形の――物語上の虚構ではない――恋を探す価値は大いにあるのです。

モテ期だからってモテている保証はない。真も佳菜も例外ではなく、中間だ、期末だ、体力測定だ、見学会だ、合唱祭だと一日が数日・数カ月やがて気が向いたらのナガラメールとなるときもあって段々と回数は減っていく。

そっか、そん程度だったんか、と妙に悟ったようになっていた。


 受かりたい! みなもそう思ってる筈。勉強すればレベルなんてそう変わるもんじゃない。ならどうすれば?……このままじゃ「千日手(せんにちて)」となって互角勝負に……よーし! 一日も早く「先手必勝策」を! と。

真は、春休みも終わりに差し掛かる頃、もう中三になるんだぁ、オ―レェ! やるぞ! とばかりに洗足池に隣接しているダチんちへ。そこのお兄ちゃんが中3時だった時の教科書を借りに行った。

「よっ! げんき!」

「ハイこれ! 変な落書きしてあるけど貸すんじゃなくあげるってさ。二年前のになるけど大丈夫かって? で、その数学ドリル集は使ったら返してくれる?」(オッ、おまえもやるのかぁ)。

「おけ! おけ! 了! 借りとく! サンキュ―だわ、宜しく云っといて。ところで何? それ。目ワルかったっけ?」

「コンピュータ部に入ったはいいけどやり出すと二時間が四時間と止まらなくなって気付くと目がトロトロ、TV のテロップもボヤっとだぜ、んだからUS 製のブルーライトカットメガネをパパが買って来てくれたから。やたら面積広いけど」

「お―、やってるとこだったのか、わり―わり―。 言語は? 汎用性高なjava だったり?」

「C++プラプラもね。ところで、おまえ慶応受けるんだって」(チッ! 誰だ、おしゃべりは。もう情報は回ってたか)。

「あ―ぁ、ダメ元でね。お前が羨ましいよ。もう東大合格は決まったようなもんじゃ―ん」中学進学時に超難関な聖光学院中を目指し受かっていたのである。

予備校・塾が云ってるランク評価によるとミッション系学校としては最高レべでなんと偏差72でも落ちる超難関校のひとつだそうです。2017卒業生231名中東大合格者だけでも70名以上(一浪含む)ってのがこの凄さを物語ってる。

裕福な家ほど受かり易いという民間会社による「有名校合格のバロメータは金銭豊かな家の子弟」という統計データがあります。

東大京大他国立有名校及び慶応等は元來もとより全て! 世は金ってことか。

そりゃそうだ! カネをかけなきゃ良い先生もゲットできないし、月々数万円もする塾だ、予備校だ、家庭教師だ、一冊数千円もする参考書たぐいを十冊以上で普通、好環境だ、連日連夜栄養価高いバランスあるグルメだ――「人間の1日に消費するエネルギーの20%は脳で使う。受験生ならそれ以上だ」といずれも例外なくカネがかかることばかりのこの仕組み――食いもの悪くて落ちたなんて洒落にもならない。

真逆は、貧乏人ほど学歴においても上へは行き難いこの現実。家庭を仕切ってるのは誰だ? もう少し意欲と学力ある者には金を出したらいい。


国家とは、何だろう? 家だろ。

家が家族を守らなくて誰が守る。国家の盛衰はそこに住む人に負うところ大きいということを忘れたのでしょうか。それが明治維新の目的ではなかったのか、今も五十歩百歩かもね。何が? 誰が? 悪いのでしょう? 民主主義の最大人数である構成員の国民です――『国民のレベル以上の政治家は生まれない。一国の政治がバカなのは、国民がバカだからである(英国の作家サミュエル・スマイルズの「自助論」の主意』(これはシ―! だよ。「非国民め!」という過激右翼が居ないとも限らないでしょ)。

優秀な人材なくして技術も文化も政治も良くなるはずはない。1機102億円もかかる自衛隊ジェット戦闘機を二つ三つ買うのを減らしてでも、優秀な人材に充てることは国防にも繋がるのではないか……純国産ジェットならその1/3ほどの費用で出来るそうです。じゃあ、作ればいい、阻んでいるのは『日米安保条約』正式名は『 Security Treaty Between the United States and Japan 』と何所にも「日本を守ってやる」の表題にはなっていない「『 Security Treaty 』とは治安の取り決めだ! 『 National defense』が国防だ! そうは何処にも書いていない。書いてないということは日本がアメリカと交わした「日米安全保障条約」の『日本安全』が無いってことだ。無いということは、政府は国民を騙して「日本を守るため」と云ってるようなものだ。 唱えてる趣旨はアメリカ第一を利益として次いで日本とした呼び方です――「日本が再び強国になるのを抑えるのが最優先意図」 「アメリカ軍が最も多く駐留している国は第二次世界大戦の敵国であったドイツで次いで日本もであることからも容易に察しはつく」と云う方は多い。


 国民の財布を握ってるのは誰でしょう? 

あーね、あの三十五万円は疎か七十万もするスーツを着てる財務大臣元総理の a 氏かぁ、さすが漢字の誤読多過ぎレべな御方、低迷ていめい(小四・五で習う)をテイマイ・詳細しょうさいをヨウサイ・怪我けがをカイガ、ほか誤読オンパレ―ドだもんな―あ―。首相時代にはカップラーメンの値段も知らなかったとなると、いったいそんな庶民感覚ゼロな人が政治を行っていいのだろうか? (いつもの驕り高ぶった態度はそんな事実をカモフラージュするためだったり――囲み取材で高慢な態度をとるからこう云われる)。

じゃあ、その内閣のトップ A 氏がしたらいいのではないか? 似たカワズだからね、小三で出て来る熟語の背後はいごを(セイゴ)、云々うんぬんを(デンデン)、これじゃーあ、でんでんだめだわ。 学生時代、高級外車アルファロメオで通学してそのまま帰ったって、何のために学校へ通っていたのでしょうね。

間接民主制は民主主義なのでしょうか? 方便制の言い間違いだったのかしら?  

一旦当選すると、あとは国民の手を離れたところで自分達の思惑だけで政治を行う間接民主制の弊害ってやつだ。

『政治は国民を映す鏡』と謂ったサミュエル・スマイルズは、明治の福沢諭吉らにも大きな影響を与えたのだが、まさに云う通りである。

だから国政の代表を選んだ側にも責任はあるのです。かといって現行システムの許で変えるのもむずかしい、じゃあ、どうする? もっと国民一人ひとりは真剣に考えてその考えを直接政治に反映させる制度を考えればればいいのさ(文字屋さん、がんばれ!……って誰のこと?……小説家・出版編集長・マスコミ・評論家・類屋たぐいやさんや! 正義は回り回って結局は金になるんだぞ、チゲ、自らの心も会社も社会も潤うことに繋がるんだぞ)。

抽象論はやめよう! 何の裏付けもない絵空事と云われ兼ねないから――具体的にいってみると。

あの選挙カ―演説に会場演説ってのはいけねよ、その時だけの言葉に、雰囲気に、国民は飲み込まれる。これをそのまま放送してる報道屋さんの云ってる事を国民は鵜呑みにしてしまう。

ではどうするか? 立候補者列席の元、一定のル―ルに従い、国民の各界代表による討論会をSNSを始めとしたネットやTVで公表して万民周知の許で、国民も投票所まで行かないでスマホに住民基本台帳ネットワ―クシステムをプラグイン(実装)して投票すればいい。

投票した側には何所でも使えるキャッシュレスポイントを。一見いちげんさんには千円、継続者には倍、以降者には都度五百円を上積みという具合に与えれば相応に真剣に選ぶ気になるだろう。巫山戯ふざけて選んだ者は次回は選挙権を一旦停止すれば良質な選挙民にもなって一挙両得――このような措置はすべてに通じることであって。選抜するモノ全て(選挙・入札・コンベンション・応募作品・会社運営の実態・社会的人間関係・恋愛だって……どの界も良くするためなのだから必須なのでその者たちのファイルを作り一定時間停止しにすればより質の良い世論結果を得られるのさ。「巫山戯」とは、社会にとって生産性の薄い乃至ないし無駄な事象であるあるから。また生産性とは一部の為の利益になる事ではなくより多数の人たちの果実となるものです。腐ったリンゴは捨てちまえ!……佳きルールの下では其其それぞれは健全な果実となって社会を豊かに育てるからです。

そもそも選挙は膨大なコストはかかっているのだからこのくらいのサ―ビスもル―ルも常識だ。いや却って、ポスター代・選挙カー代・演説会場代・スタッフ代・通信費代等々は掛からなくなるのだから安上がりになるかもしれません。

併せて、有能な人材をもっと徹底登用させるシステムを作ったらいい、そして、議員全員には点数制を導入して赤点の者は次の選挙からは出れなくするル―ル(法整備)も必要かもしれない。

こう日本だけでなく世界中で取り決めれば、小学生レべの思考力しかない指導者と政権内のマティス国防長官からも云われたような大統領も出現せず、高関税率だ、メキシコに壁だ、ロシア疑惑だ、弱者蔑視だ、軍拡だ、マスコミはフェイクニュースだ、女・有色人種・貧乏人は頭のレべ低いだ、自分(自国)さえ良ければいい他人(他国)は知ったことか、セクハラだ、忖度だ、拉致だ、民間人暗殺だ、四島占拠だ、は激減する結果、社会も世界も、もっと穏やかになったいたかもしれない。

とまぁ、悪口を云うのが目的ではありません、事実であるものを事実でないとは云えません。

よく分からない云い方したけど事実から目を背けると嘘の世界が罷り通って偽物を掴まされるってことになります。 


 貧乏は悪か? ドンマイ!

跳ね返す撥条バネを与えてくれったと思えばいい。抑えつけられればされるほどバネの力は増すはず。

裕福でない、諦めた、このままでいるしかない、これは、いかんばい! 

無料で学べる学習サイトもあって、利用率高な「 Studyplus 」を活用する手もあります。他にも、もし意欲があるなら、手は色々あるのではないか! (と云いつつも、学歴がすべてじゃない。中高出だって資格を取って大成功してる人もいるしね)。 

『犬も歩けばタイミング(棒)に当る』何かと災難に遭うこともあったり思わぬ幸運に出会うこともあるの喩えであるが何もしなければゼロのままだべ。


「後悔だね、男子だけってやってみれば分かるよ、つまんねえったらないぜ」(共学で良かったあ!)。

「やっぱ天才軍師! 武田信玄! だね」苗字が武田というだけで、貸してほしい弱みがあるから天才とお世辞を云ったまでであるが「学歴社会! なら少しでも高学歴が出世への登竜門!」と意気投合し合ったのは、意欲を更に刺激して貰ったような気になっていた。


といっても、偶偶たまたま学歴とは縁がなかっただけで独立独歩でし上った者たちが居るのも事実です。

小学校中退の現在のパナソニック株式会社を興した松下幸之助、

小学校も通っていない第16代アメリカ合衆国大統領に就いたエイブラハム・リンカ―ン、

小学校は卒業したが世界の Honda をつくり上げた創業者本田宗一郎と世界を席巻しているトヨタ創業の元となった豊田佐吉、

ソフトバンク社長孫正義の父はろくに小学校も通わずパチンコ業や金貸し業等で稼いだ膨大な資金を息子の孫正義が元手にしていなければ一大通信会社を成功させることができなかった父孫三憲、

こんな人もです。貧乏と半グレの末にどこも行く学校も正面まともな仕事先もなくなり寝食代タダおまけに授業料もタダの自衛隊航空隊しかなくなって入隊し資格を取って民間航空会社のパイロットになりやがて大手航空会社へ就職先を変え金回りも良くなりマドンナCAフライトアテンダントと結婚、出産も近い、と幸せな人生を送っているコバヤシくん、

のように資格を取って身を、会社を、興したり独学で弁護士になって国の大統領まで登った人も居るのだから学歴がすべてではない、が、あればそれだけ有利って社会構造なのであって『こころざしあるとこ、道あり。無いと道無し、あっても行き止まりのおバカさん』ってゆう格言があったではないか?……正しくは『 Where there's a will, there's a way. 「意志あるところに道は開ける」第16代大統領リンカーンに依る』である。東洋(日本・中国・韓国)にもあるぞ『精神一到何事か成らざらん』――『為せば成る、為らぬは怠け者、チゲ、為さねば成らぬ何事も(上杉鷹山曰く)』

いくら超一流大学出ても、イケめんでも、美人でも、良家の出でも、三流な道をあゆんでれば元来た道を往ったり来たりするだけってこった。後戻り、すなわち、退化するってことね。退化は進歩マイナスってことだよ。実にもったいなぁーい!

じゃあ! 出世の才覚にめぐまれなかった者は諦めしかないの?

そ! 諦めたほうがいい。

では、ない!

ゆたかな心を作ればいい。

幸せは、そこにしか芽を出さないのです。ここに気付くものは、幸せへの第一歩だね(荒廃した地にどんな植物が咲くってんだ―い)。


真の小学校は地雪小であったが一クラス三十五名を超え五十名にも達する時期にぶつかり一時的に洗足池小に移されたとき親しくなったのが武田くん、この家を訪ねた折の会話であったが、これをきっかけに再び親交は始まってゆく。

環境はタイセツ! 悪環境は人を邪に変える。今のそれも環境(裕福な子弟ほど受かり易い)、これも環境(親交再会)――大気汚染物質の「PM2.5」や豊かな山野だけが環境じゃない、それ以上に人の幸不幸を決めてしまう『人対人という名の環境』の方が大切ってこちゃあ。


人を選んで、自分を変えてくれるのはその相手の人。

ではありません。

自分を変えるのは御自身です。

好か邪かの環境は、己自身です、己次第である。少なくても好ってのは自分自身がそう動かなくて始まるわけがない。何もせずに待って訪れたとしても大したことないものばかりなのです『残り物に福あり』ではなく『残りものにわけあり商品』なのである。


ちょっとだけ今より大きく目を見開こうではないか! 今まで見えなかったものが見えることがある。出目金の目ではない、鳥瞰ちょうかんの目である即ち俯瞰的ふかんてきな目、どっちもかした云い方なのだが同じ意味であるから、だったら最初から「広い視野を以た目」といや、いいのに。

つまり『天空海闊てんくうかいかつ』といって『変なわだかまりに、今までの先入観にもとらわれず、心広々として、度量大きく見よう』ということである。

幾つか事例を挙げてみます……とゆうと佳菜との恋愛を通して、人って? 幸せって? と考え出し、学んだという方が正しいのかもしれない。

『喜びの声を発すれば喜びの人となり悲しみの声を発すれば悲しみの人となる』また『死魚は流れのままに流されるが、活魚は流れに逆らって泳ぐ』と云い並べたクリスチャンであり文学者であり思想家でもあった内村鑑三はうまい含蓄(がんちく)あるフレーズを云い放ったものだ、同感である。

『喜びの人、悲しみの声、死魚、活魚』どちらの環境に業するか、これは己自身の選択であって他者が決めることではありません。本人の意思次第で進む先の道は決まってしまうからです。

また、この方は「信仰とは、建物(教会)の器に非ず、心の器に在り」的なことを主張された無教会主義の先駆者でもある。

確かに! 信仰の大切さは心うちの良心という姿を築くことなのであるから当然と云える。神とは、教会でも偶像でもなく、道念そのものなのだからです(大仏さんやモナリザの顔はそれはそれでいいのであるが要はエスプリ(精髄)のあり方であるからです)。

時は明治24年(1891年)といや―、昨日のこと? 講堂で挙行された教育勅語奉読式において、前に進み出て明治天皇親筆の署名に対して奉拝する(うやうやしくお辞儀をする)ことが求められていた。内村は舎監(寄宿舎の管理人)という教頭に次ぐ地位でいたから最敬礼までとはいかずに壇上からおりたのです。

このことが同僚・生徒などから一斉に非難され社会問題化する――これを右翼化という。敬礼はしたが、最敬礼をしなかっただけなのです、これが不敬事件とされ世間から疎(うと)まれることになる。正(まさ)に『変な蟠(わだかま)りに、先入観』である。

変な思い込みですね―え―。ちょっと考えて見れば誰でも分かる事。たとえれば、自分の生きる場として耕していた土地を或る日突然暴力で奪われた、大怪我をしたかもしれない、最悪は殺された人だって、それを親分だ、長だ、従え、大君だ、帝(みかど)だ、王様だ、いつの間にか天子だ、神だ、と。天皇は神だから支配する側と一方的に決め付ける。そうすると大衆は王様だ、神だ! といつの間にか盲信して祭り上げてしまう。これに気付いた世界の大衆は王政を排除し本来の姿に戻した国々はいっぱいあるが、いまだに国民の精神的支柱だと唱えている国もある――これを何化かというと、もう申し上げています。

いったい民主義国家とは何なんでしょうね? 王は人の上に立ち民はその下の者と暗に認めてることになりませんか? 王は、国民の一人ひとりではなかったのか。勝手に身分制度を作ってほしくないね。しかし彼はやがてこれを機に著作を試みる――勇知ある態度だ。

心ある者は次第にこの思想に共鳴して行く(秘密時に! 当時の国家統制厳しい軍国主義的な世相上止むを得なかった)ようになり、近代思想家として後の多くの文化人・識者・文学者を輩出することに繋がっていったのです(やはり正義は儲かる)。

信じる道を切り拓く勇気! この英知こそ環境なのです。

自分自身で拓き掴んだ道。だから環境とは己自身で拓くものなのです。若し著作に入っていなければ社会から疎まれたままで終わっていたでしょう。

『朱に交われば赤くなる』……朱色が入って混じれば自然と赤味になり易くなる、アタリメエだ。この喩えのように、人は付き合う相手の良し悪しによって善悪どちらにも感化されるもの、だがこの性善説は一見相手任せな捉え方にも見える。

先ずは自分から善へと変わっていないのにそれに呼応した人が現れるわけがない。誰がワルなやつのとこなんか行くもんか! 

そろそろ自分の悪いとこ直さなくちゃ! じゃあ! 直してくれる人を探そお! 虫が良すぎるぞ! 

云い過ぎですか? しょうがない『忠言は耳に逆らえども行いに利あり』ってことにしよ(孔子さんの本が毎年売れ筋ランキングに入ってるわけだ)。

性善説、耳触りの良い言葉である、『善』という文字が入ってるからです。

はて? 正体はとなるとどうでしょう?

孟子さんは『性善説』つまり『人は生まれながらの心は善である』と説く。『天に近い山間地から湧き流れ出た水は皆清らかな水。これが下流へと自然に流れるように人の性もまた元々は自然な清水だったのだから善である』とする考え方、巧い云い様を取って付けたものだ。

我が子を殺す親、親を殺す子、人・猫・鳩・兎を切り刻む、可愛いと昨日まで長年一緒の家族であったワンちゃんを引っ越すからと捨てる、殺処分場に送る。振り込め詐欺、ヤリモク、強盗殺傷、ストカー殺人、ひき逃げ、日常茶飯事に甚(いと)も容易(たやす)く人を中傷、フェイクニュースを捏造、人を陥れることはヘッチャラ、等々をどう説明が付くんでしょうか?

満腹な人が「腹減った―!」と云うはずはない。

空いてるから云う、空いてもないのにいうやつは唯の病気。

邪の部分があるからこそ善になりたい、と人が望むように元々の自分を善とは思って無い事になる。

 (だ! だ!)とこの性善説を覆した荀子の『性悪説』参上! 

ここで言う『悪』とは『人は弱い存在』とする説。

人間の本性は本質的に悪であるとしたわけではない。

荀子は『人間は四囲や欲望によって悪に走りやすい傾向にある』と指摘したかったのであろう。

そ! そ! 欲望のない人はいない! 出世したい! モテたい! 食べたい! 遊びたい! 知りたい! 達成したい! 生殖欲! まだまだ! ある! ある! これら全ての欲によって人間はできてるのです。

そのためには中には悪事を働く者も居ると捉える方が自然! しっくり収まってならないのです。

それでも大方は『道を以て欲を制すれば則ち楽しみて乱れず』というように『自らの欲望を正義に照らしコントロールすれば迷子になることなく幸に近づける』を行っているのであるから、そのような生き方こそがインテリジェンス(知性)というものです。

いや、大方ではないかもしれないが数は問題ではない、たとえ僅かでも居ればそれでいいのである。

そんな欲だらけの中には優越欲や攻撃欲も含むのだがこれが厄介なのです。

大和民族は単一民族と声高に云う者が多いが、これは少数民族をさげすむ考え方と同じであって、この辺から『ボタンの掛け違い』は始まってるのです(ドイツ人は単一な民族、イギリス人も単一。ウソ付け! 種種な民を内包しての民族なのです)。

縄文人と弥生人は人種(DNA)がまったく異なるが次第に融合して行き今日の日本民族の礎になったではないか! 分かっているだけで他にどれほど多くの異人種が混じり合いながら日本人と称する民族が出来上ってきたことか。

が、いまだ弥生人にも劣る人たちが居るのはどうかと思う。

直近の研究報告(医師崎谷満らのグループ)及び2015年5月29日「NHKニュースおはよう日本」によるが)。

これら二者に依る説を要約すると次のようになっています。

ロシアのバイカル湖畔から南下し華北に暮らしていたD系統は漢民族――人口比優位性、千人より万人の方が勝つに決まってる――の圧迫から逃れるために南下し日本列島にやってきた。これが縄文人の中核を形成している。

一方、弥生時代をもたらした渡来の人々は長江流域で水稲栽培をしていたO系統である。やはり、漢民族に滅ぼされて逃れてきたという。また、朝鮮半島の人びともO系統である。

現代の日本人の体の中に占めるD系統の割合は3割(今でも比較的身長が高い。北海道を中心として東北地方によく見られる(一概には言えないが)。O系統は5割(身長はさほどではないが働き者が比較的多い。怠け者も居る)と、このように日本人全体での比率は占められている。

ところがここ22世紀を迎えようとしてる時代に、日本民族は純粋な単一民族! と思い込んでいるように、そうでない他者に対し重大な人権無視を為してる者がいまだに少なからず生息しています。

歴史が教えている。ヒトラーは第一次世界大戦後のドイツで純血主義を唱えユダヤ人が居るからこの国家は貧乏から抜け出せないんだ! 排除してやる! と決め国民的支持を受け現実に行うために、どうせするならユダヤ人たちが住んでる周辺の国々もやっつけちゃえと、第二次大戦を起す(怖わっわ)。

結果ドイツ国民死者数689万人を招く(ちな、日本は310万人。アメリカ29万人、この24倍ほどの落差は何なんでしょうね)。日本だって似たようなものだ、大和民族は単一な優秀民族、周辺の国々を植民地にしてどこが悪い、我らが支配すれば近隣諸国と共存共栄になる――この『大東亜共栄圏』を世界に向かって声高らかに標榜した日本国――などと堂々と侵略を正当化したのだから。

社会のコアとは何でしょうか? 国家が栄えること。文明が発達すること。経済的に潤うこと。ではない。一人ひとりが人権を有することです。これが民主主義の始まりです。これが崩れて、社会が、国家が、健全になることはけっしてありません。

若し、少なくても自分が文化人・知識人・良識人・社会に貢献するクリエーター等の範疇はんちゅうに居ると称したいなら「混血こそニッポンジン」と云い換えた方が宜しいのではないでしょうか。 

どうしてかって? こうだからだ。純粋、イコール、混じりっけのない水が清水ではない。この辺をごっちゃ混ぜにしてるようです。

混じり合ったものこそ純粋なもの(清水)。

山の湧き水には、素記号 ca カリシウ、人間の体の中に最も多く含まれるミネラルや骨をつくる栄養素並びに人体に必要不可欠な Na. Mg. k. 等の元素が多く混じり合っている(ただし大腸菌対策として煮沸した方が良い。秩父農工科学高校協力のもとでの測定機器による調査)。だから山の湧き水は美味しいのです。

ゴールドもダイアモンドだって炭素 (C) 同素体1つだけでなく窒素 (N)やホウ素 (B) などを含み皆それらはそれぞれの元素が交じ合ってあの輝きなのである。

日本人は純粋な血筋を有する優秀民族だといって他を排除してるといずれ大したモノを含まないただ只の痩せた泥になります、世界から嫌われてあのヒットラーのような結果を招きかねません。

もうそろそろ妙な固定観念はやめよっか! 天照大御神(あまてらすおおみかみ)といった紙芝居にもう気付かなくちゃ! 家電品を使う島国土民! 発展途上国! と云われかねない。

しかし今尚つづいている。

大阪なおみが全米オープンで優勝! 二十歳になったばかり! グランドスラムでの快挙は日本人初!

と、日本人! 日本人! と一斉にことさら前面に演出すのとは裏腹にテレビ局記者9名が行った質問は違和感マッハ、ピント外れなことばかり(この取材陣人たちの質問には同席していた海外マスコミもこぞって非難)。

テニス快挙に係わる話しを飛ばし、最初から人種に好奇の目を向けてたからです。

冒頭一番にこう云うのがマナーじゃないの!

「おめでとうございます! 日本人として誇りに思います。また、国際人としても高く評価されたことは人としても学ぶことが多いテニス試合だったと考えてます」みたいな事を何故開口一番云えなかったのでしょう?

何故、欧米人は有色民族を差別するのでしょう? 何故日本人は同種の他アジア人を蔑視するのでしょう? どうして黒人を受け入れようとしないのでしょう? なんで都会の人は田舎の人を見下すのでしょう?(そして何故、人は動物を見下すのでしょう?)自分と違う形は、種は異物なのでしょうか?。

同化して行けば三世代先には皆が同じ種類の人間同士の姿になるはず(最初にガイジンを見た時、みんな同じ顔に見えなかった? これと同じ――『異人種間の結婚は優秀な子が生まれる確度が高い』vs.『血縁の近い者同士の結婚は時に奇な子の出生に影響を与えかねない(日本醫史學雑誌第15巻第2号)』である。

差別とは、人がやるから自分もしてまた人がするようになる感染病です。

原因は、偏屈な理解力に存るのです(偏りはいけね―よ―! 偏食してると力も健康も衰えて病気になるからね)――偏屈は狭量って事、狭量はひとつの考えに囚われるって事、偏屈の反対は許容、許容とは心広い事。人は『広量大度(懐が深く)』じゃなきゃね。そんな人は、きっと、モテるはず。

実際はこうです。

「インスタグラムにたくさんの写真を掲載されていますけど、先ほども行きたい場所の話とかがありましたが、次、日本でお時間できた時に、どんな写真を誰と、どんな場所で掲載したいと思いますか」(「何が『次、日本で』だ」、母が、祖父母が居る日本が母国だろ。ハイチにも祖父母はいる。国籍がひとつとは誰が決めたのだ? いいじゃないか、幾つあっても、いずれも祖国にはちがいはないであるから)。

質問はつづいて。

「日本に帰ってきて、日本でメッセージを伝えるとしたら、どんな言葉が頭に思い浮かびますか」

「大事にされている日本語ですとか、好きな言葉はありますか。もしありましたら、理由も教えてください」 (もう完璧ガイジン……異人種扱いしてら―)。

「アメリカの生活の中で、日本語を学ぶときは、どのように勉強されているのでしょうか」(何処で生活して居ようと、アフリカでも中国でもアメリカでも北極でも、自分が日本人と思えば日本人なのだ!)。

どの質問にも「日本・日本」をことさら強調するまるで私達とかけ離れた異邦人に接するかのような質問が90パ以上である。

「人となりを知るのに当然の質問だった」とこの異様な対応を世間が一斉に非難したことに対し反論してる記社達がいたが思わず吹いたぜよ、どうみてもこっぱ恥なこじ付けの上積みであることはお見通し。

心の底のどこかに、意識的か無意識かのうちに、他民族に特に黒人に対する蔑視意識があるから、そういった言い訳しか思い付かないのだ。

あげくは相も変わらないツマライない受け狙いのお笑芸人兼映画監督の b 氏72歳のTV での発言には愕然、

「日本人といっても、日本語は片言、生活場所も日本ではない、ハイチのルーツはあの奴隷だった黒人の国から来てモゴモゴ(では、マンハッタン十年以上駐在の日本人は外人なのか?)どうみても矛盾だらけ。喋ってる途中で気付いてモゴモゴと茶を濁しても遅いってんだい。流石に長年苦楽を共にした奥さんがおばあちゃんになったからって愛人に走っただけはある。

と老臭を放つかのような嫌味な空気観を漂わせた。なーるほどねえ、エレベターボーイ・ストリップ小屋(ストリプも立派な職である。が、彼らしい選択であった)からスタートした人生を送って来ただけはある(そう云わなければ一応げー人さんと認めたのに)。

次いで他局のワイドショーの司会者 m、どっかのげー人、ゲスト、大学教授 t、元裁判官の弁護士の i、評論家の s までも付和雷同とは、なんと根の深いことか。

人の生まれや生い立ちや姿格好を他人がとやかく言うほど見苦しいものはない。

片足を失った人に対し「『歩く姿がおかしい』君のためを思って云うんだけどもっとうまく歩けませんか?」また女性に対し「顔のシミは何故あるんですか? 無ければなぁ」と謂うようなものである。

本人たちにはどうしようもなかったものを他人がとやかく言うのは、どうみても異様としか云い様がない「君のために云うんだけどその馬鹿な頭治るよね?」と云われて怒らない人がいるもんか。

一部だろうが全体に悪い影響を与えているごく少数の人、社会悪を撒き散らしてることに気付いているのだろうか? いないだろう? いや、いるだろう、悪いと思いながらしてるだけに質が悪い。これは、治りません、根が深い病気だから交わらないことだ、伝染するからね。

それが、みな人は生まれながらは善(性善説)だと、笑っちまう。

ところで性悪説の言葉だが、これはもっと別な云い方に変えた方がいい、『悪』の文字が印象悪くする、この悪を省いて性正説はどうだろうか?

――事後になって気付くことが多いのが人間ってやつなのだろうか? あの時に他者の言葉でたとえ分陰ふんいんか、陰陰滅滅いんいんめつめつか、であったにせよ偏見視していなかっただろうか? もっとたしかに見て遣れた筈、少なくても恋をする側の男なら。と佳菜との事が時折よぎないと云ったら嘘になるのだが。


(時は戦国時代。先手必勝!)とばかりに少しでも中3内容を予習して来るべき戦い(受験戦争)に備えておきたかったのです。

同いクラスの正方形顔のタカノにだけは負けたくなかった、傲慢なキャラ主で「『月給2百万円! 先生! 先生!』と云われて俺も困っちまう」と親戚に国会議員が居るからって何かというとクソ威張りし上から目線で話しかけて来るチビデブ! 

何がエライんだ? 教養も素質もなくても、喋りさえうまくやれば誰でもなれるのがゲー人と国会議員だ(一部だろうが目立ってならない……立派な方々も居るのだが)。

おまえけに短足なくせに女子と話してると爪先立ち目いっぱい背伸びしてツマラナイ話題をふってくる「真はそんまえサヤカにも同いこと云ってたよなぁ」「真はちゃうだろうけどヤリモク多いしねぇ」なにが真、真だ、気安く呼ぶな! ヤリモクだと、おれだといってるようなものじゃないか、失礼な!

この手の奴にだけは負けたくない! 何気に自慢する気持ちは分からないわけじゃないが正面切って云われると一遍でそいつの何もかもがイヤになるからである。傲慢不遜ごうまんふそんな態度は人を馬鹿にしてると気付けってんだい!  わかったぁ? 傲慢不遜さん!――わからねぇだろうなーあー!?――これが傲慢不遜さんの特徴なのだよ。

 


 貰った教科書を携えダチんちを後に家路に就く途次みちすがら……。


いま目の前を桜の照る光

眩しく跳ね上がる

辺り一面に朱色が広がる

地上に近い天一帯を穏かに染め上げてゆく

(きもちい―!)さらりと吹く風

頬から胸までを撫でゆく

これが春だ


ここ洗足池に位置する小高い丘を、といってもちっぽけな広さしかないのだが、桜山と呼んでいて真の胸のうちでは季節の除幕式が始まるスポットとなっていた。ああ―! 三春! 初春・仲春・晩春、ども! 「待ってたぞ、遅いじゃないか、晩春さん!」

夏も遠からずあと二歩だ! スプリングだ、弾機バネだ、跳ねよお! 夏休みだ! 花火だ! 祭りだ! 恋だ! となる。

ピンクの彩りに辺り一帯を染め上げると、その許では人も染まります。混雑ごった返すお花見の老若男女衆たち。

「ドッボ―ンンン!」滑った! ……舞ったか? 池に飛び込みました。

上がって来た姿はブリーフ一枚の裸姿、さむそ―! 下着一枚って事はわざとでした。やっぱり! 酒はきちがい水。


『ぶどう酒は、あざける者。強い酒は、騒ぐ者。これに惑わされる者は、みな知恵がない(旧約聖書、箴言(道徳上の格言)20:1)』

vs.

『愉快にぶどう酒を飲め(伝道者の書 9:7 )。

前者の『程々』の意が分からない人はみな知恵が無い人。後者の『ある人は顔の良い人』(かもしれない)。


性急そそくさとお池紳士さんは足早に同僚と思われる者と共に、蹌踉フラフラ何か呟々ぶつぶつ云いながらゆく姿、千鳥足蹌踉スタコラよろよろ。酒は飲んでも呑まれるな! 池に呑まれましたね。

一斉に注視していた人たちの輪が解かれることはなかった。密々ひそひそ指を差す者まで。後になって知ったことだが大田区議会議員さん、こども文教委員幹事職の看板が泣く。

 そのドボーンさんから垂れた水で泥濘ぬからんだ土、所々にデッカイ素足跡と水分たっぷりな土面、踏まないように(白のスニーカーに染み付いた泥跡を落とすのは大変なんだ!)二歩三歩と跳び! 飛び! に歩くと「あら! 真く―ん!」の声に振り向く真「あ、姫!」との二部合唱。偶然、天がプレゼントしてくれたイベント。ラッキーにしなくちゃ! と咄嗟とっさに算段す。

「王子様! 背高くなった―ァ! どんくらい?」王子様とわ、ご丁寧なお返し。じゃ、お世辞のツバメ返しにと「乙女た―ん! 184! コメ縦に食べてるから」とわざとらしく上顎うわあごを引き、上へツ―ンと首を伸ばし、目一杯背筋を伸ばしてみせる。

口はあんぐり目は笑いの佳菜。

「デカ。じゃ、横に食べたらデブになるの?」

「胃袋が縦に修正してくれるから」

「負けず嫌いだね」

「正直なだけ」

「もお―ぉ!」 

「アハハハハハハッハ」顔を見合わせ笑う混声合唱はやはり綺麗な旋律となっていった(笑う角に恋来る! 笑い過ぎはアホと映る)。

華奢きゃしゃな肩に乗っかた花弁を取る真。それを、そっと引き寄せた佳菜の手の平に乗せる。

「…………」少し恥ずかしげになった目を上げた佳菜の口元は一層優しくなって「『私を忘れないで』と云うフランスの花言葉があるんだって。うちの学校のシスター先生が云ってたんだけど、確かに咲いたと思ったら直ぐ散る桜の花の命を惜しんでだよね」とさっきの恥ず照れした顔は嬉しかおになっていた。

その優しに反応した真はその上の優しい事を教えたくなって「そうなんだぁ。もう一つ! ポジティブな話もあるんだよ」

「どんな?」

「桜の樹はブッ太いだろ。他の木よりもいち早くパッと花を咲かすことによって身を守ってるんだって」(花と葉を同時に咲かす天然桜やまざくらもある。山の神が程良く水分調整してくれたり、品種によってわ)とまでは冗長じょうちょうになるので云わなかった。

「花が? 身を守るぅ?」

「生きてくのにみんなあの手この手! 樹も虫も黴菌までも」

「えぇ? どうゆ―こと?」

「早く葉を付けたら、大きなカラダを維持するため栄養も水分も必要なのにまだ夜間の気温は低いからたくさんの水分が蒸発しちゃって末端の梢は凍って死んじゃう」

佳菜の聞く貌が、うん、うん、と云ってるのを確かめると調子に乗って一気に云い継いでみる。

「みんなより早く花を咲かせればお腹が空いている虫や鳥が寄って来て栄養を落として行ってくれる」

「なかにはその身の後、ご飯として桜本体に吸収され、その後に悠然ゆっくりと葉っぱを出せば、季節の変化に伴う多雨量も重なって、その栄養たちと共に 精々せっせと今度は葉で栄養も作り易くなる」

(エッヘン!)と得意顔を気取って見せる。

「おお―、ガチ―? なんでそんなこと知ってるの?」

「頭良いから」

「まっ―たく! 図に乗るかね! うん確かに頭良いよね、金魚の時そう思った」

「実は、全部お祖父ちゃんからの受け売りさ」

「だよね! 未だ寒いなか、初めの白桜は最初の一歩。この誇った勇気がみんなの花たちに咲け! 咲け! と促す」そう佳菜は云い返し微笑み、ドヤ顔に!(真似したな)。

が、その表情は、汚れを知らぬ透き通るように美し、まるで白色ボレロ一輪が咲いたように辺りに溶け込んでいる、と云いながら(この子、マジかわいやっちゃ!)と唸ってる自分がそこにいる。これを恋にハマる初期症状という。『花、水、のある場所でのデートは成功率が高くなる』とみなが云ってたことは本当だった。

「キザ―。でもぉ―、グッ―」

「ワッハハハハハハハ」二人顔を見合わせ、空へ突き上がる桜色の笑い声(相思相愛度もう一息!

調子良く、歩幅大きく、更に大股で歩く、相思相愛役を演じてみせる王子様である。

遅れてなるものかと付いてゆく佳菜もお姫様役になりきっている。

そっと見上げた佳菜の眼に真の横顔が溌剌(ハツラツ)と映り、チラッと見、また視入る(相思相愛度60パ!。

池の半分ほどを歩いた水辺の端っこの方。

眼前に寄せ来るさざ波の、少し彼方向こう側に映る曲線形な弁天橋が見える辺りの、ベンチに腰を下ろす二人。

この時の為と花柄のハンカチをそっと敷いてあげる。

「ありがと―ぉ―」のスイートな声、大きな瞳(薄可愛い唇だな―ぁ! 笑顔がまだつづいてら―! きっとおれに気があるにちがいない! 好きになってくれてるぞ―ォ)にポッ―とする真(妄想ともいう)……(相思相愛度80パ~!

「ね―! 突然だけど、うちのこと好きぃ?」

「でなかったら1728円もするハンカチ買わないって」

「えぇ? そんな! 1728円とかよく覚えてる! どれどれ、あ―ね、Lanvin 製だあ! パリのお洒落え―! ってうちの為に準備しておいてくれたのぉ―。 カワュ―!」

「まぁ―ね―」(あんな高いハンカチ人生初めて。忘れるもんか!)。

「照れてるぅ」

「奥ゆかしいだけ」

「『奥ゆかしい』って控え目だよね、真くんが控え目? ありえな―い!」(もしかしたら根は控え目かなぁ? あ、だからメールしてくれなかったんだぁ――恋は盲目、視野狭窄しやきょうさく、その人のすべてが良く映る。

「シツコイと嫌われるから」

「嫌わないよ!」

「ぶっちゃけ、待ってたのはおれの方だったんだ」

「…………ごめんなさい」と、急にギュッと真の手を握った佳菜(相思相愛度完成―!

「アツい! つづけ! いつまでもアツく!」と殊更ことさら明るいセリフを発していた、流石に能天気なセリフを口にしたもんだと呆れもするがいつものようなテレではなかった。しっかり握り返す真の手に力が入る。ソフトに押しつけてくる佳菜の肩が(うん! つづけ! つづけ!)と応えてくれる。

唇を合わせる「…………」目を閉じる佳菜「…………」桜たちも気恥ずかしく「…………」数秒だったか数十秒だったかひとつ絵姿になる。

左手をそっと下ろす真、握っていた右手をゆっくり離す佳菜、穏やかな容貌の目・口・鼻、となるふたり。その目の前をヒューっと二羽の雀が翔んでゆく(きっと、雀さん達には、口と口を合わせていたから餌遣りと映ったにちがいない)。

「これで二回目えぇ」

「お―、水族館かぁ、また行こうぜ」(ホントは行きたくなかった……囲いの魚たちが、可哀想、と思った。が、キスできるしなぁ……)

「うん、真くんとならいろんなとこに行ってみた―い!」

「そうだね、地球の果て宇宙のかなたまで、どこへでも百年!」

「ホントぉ? ガチ―! うれしい―ぃ! 信じてるからね!」

佳菜のこんな本気な顔貌かおかたち初めて見る。

「オ―! 信じてくれ! 合うしね、落ち着くしね、これって重要でしょ!」

心内に、真剣マジ真剣まじな、気持ちが湧いてくるのが心地好い。男に生れて良かったぁ!

「お嫁さんになってあげるぅ!」

「旦那さんになってあげら―!」

「ハッハハハハハハハハハ」ふたりの笑いは照れ笑い。いや、佳菜のマジ笑顔におどろく。自分もこんなにも素心そしんになってることに吃驚びっくりす。

これまで心に溜まっていた思いがそのまま噴出したからにちがいない。溜まったマグマは噴出したほうがいい、後に地を、山を、湖を、草原を作るから……反比例してすべてを焼き尽くす危険もあって、全身まるで恋の情火のよう。恋は永遠、終わることは無い、と允允まことにまことに心底思った。

ただ純粋な想い、恋心がそうさせたにちがいない。後になっておもうことだったが、これが初恋というやつだったのか! とその後、そして今もふと熱く過ぎることがあるのでした。

そんなこと云ったら連日初恋してら―! 電車で、街頭で、スタバで、信号待ちで、来訪者で、幼稚園の時の愛美たんだって初恋だった。いや、これはただ好印象を抱いただけ。時から時に、変わらずいつまで経ってもふと心に灯る人が初恋といえるんだ―。 

この灯が消えることはない、ますますキレイな炎となっていくのがヤバい、初恋はどんどん美化していく―。

「初恋の人は胸の中に鍵をかけて仕舞い込むの」そして「心の中に一生たいせつにしちゃうの」それで「その後の人と恋愛になったら裏切ることになるの」と思う日がやってくるのだろうか?


光陰こういん矢のごとし』唐の時代の詩人李益(りうぃ)の言葉です――何故日本では「りえき」とその人そのものであるアイデンティティを他国の日本語読みに置き換えるのだろう?「北村さん!」を中国現地で「ペェィツウ!」と呼ばれたらどうするんだ? 相変わらず手前勝手な習性――「井の中の蛙大海を知らず」→「されど空の青さを知る」→「どっこい! 自己満に過ぎず。視野が狭くなる」って事になるんじゃないの?

10年なんて過ぎてみればジェットコースターのよう。

「幸だった、不運だった、は今にして思うと考え方次第でどっちにもなるものだ」と云う方がおられる。

だがもう一方では『幸だった、不運だった、はその原因となったものがある、幸不運はそうも教えてくれる』と云い直した方が適格しっくりくるのです。

『考え方でどうにもなる』と捉えると失敗を認めないことになる、失敗にふたをすると臭くなるぞ。かといってそれはそれで、一見大らかな捉え方で良いかもしれない。

くない。 

一間いっけんの奥所に隠そうとする方便に置き換えてるようだからです。

(悔しいぞ! けど、ああやってあんなやり方で休憩をしてはまた勉強に集中してるからオール5なんだぁ)と認めるものは認めないといつまで経っても5はおろか3以下にもなりかねない。学んでこそ、真似してでも、しないと進歩はないと教えられるよう。

きちんと内省するとこはしていく人ほど見てる方にも人の大きさをおもいみるのです、人から思い巡らされなくなったらオワリだ――なるほど、そうかぁ、なるほ―ど、と考えてみるからである。

勇気はチャレンジ、チャレンジしなければ何も手に入らない。ほんのちょっとの一歩が富士の山も半分登ったキブンになる。

要は、『 forward-looking attitude(生きる姿勢)』――過ぎた不運を振り返るな、前を見ろ! 積極的に行け! 未来を見る目を持て! と云ってるではないか。これは万国共通、有史以来、未来永劫、ヒト相応しい生き方なのだよ。動物だって学習能力はあるのだから。


 26 歳を超え、今にして思うと六年間の学生生活は長かったようで短かったようで、にもかくにもようやっと卒し、更に二年間の研修医も経て(長かったーぁ、過ぎて見れば早かった)ホッとしていたところ、両親をはじめ周りから「おめでとう!」の声やお祝い品を頂くようになって初めて「お―! これで卒業したんだ」よ―し! これで「一丁前の医者かぁ、やるぞ―!」という感慨を新たに実感するのでした。

信濃町、煩雑ごちゃごちゃした新旧建物、奥は細い路路、カフェ色色、行き交う人様様、な雑踏の街。ここの大学病院、臨床研修センター管理の元、研修医27名として k 大学病院スタッフの一人となり始めていた。

院内付設の百花百兆レストラン、和洋折衷色取り取りなメニュー、毎度毎度注文してしまう野菜が適度に入った蕎麦にコシのある田舎そばを食うとき(おお! 我日本人! と再認識す)が多かったが、今日は来院者と懇談。

この後、電話をすることを思い出し、医者といえ院内スマホ使用は禁止となっていることから、携帯電話通話可能エリア、2号館1階エスカレター下に行くと、なんと! なんと! 佳菜さんが天から舞い降りて来るではないか。

エレベーターは格好の主演者登場の舞台と映って宝塚歌劇のミュージックも流れて、おお、ロミオ! ロミオ様、といったような妄想域になる。

「ワオ―! こんなことってあるんだあ! 元気―イ!」

「あ―! 真く―ん! 偶然! 久しぶり―ぃ!」と佳菜は云ったが会えるという微かな、きっと大いなる、望みを託して当病院に来たにちがいない。長原駅から信濃町駅に来るより途中にはいくらでも大学病院はあるのだから。

 外務省国際協力課の政策課付秘書補見習を拝命していた佳菜に対し「あの時国家公務員試験Ⅰ種受けるって意気込んでいたが本当だったんだ」を今認識を新たにして「ついに国を預かる官僚様だね、すげ―じゃん! これからは佳菜女史様! と呼ばなくちゃね」と軽口を飛ばすと「真くんこそ、医学博士なんて。しかも一流病院で!」いやいや、お互い様じゃん、と互いに軽やかなエ―ル交換となる。

「頭良いからね」

「自分で云うぅ! 相変わらずだね」ちょっと間を置いて気遣い「そこが真くらしいさだけどね」

「ところで、どこか具合が悪くて病院へ?」

「ちがくて、ちょっとお見舞いにです」 「そっか」と返事を返して継ぎの言葉が滞って「…………」ほんの一秒が長く感じ「その後、お母さん、元気?」と訊くと「うん、元気。歳なりにね」

「だね! 元気がイチバン」と殊更元気な声を装って云い返してみたが、これ以上この話題を継がなかった。

 既に一年程前にビッグニュースが勃発し町内近辺そこいら中TVワイドショーもどきに甲論乙駁(こうろんおつばく)のごとく「こうなんじゃない、ああそういえば、でなくてこうなんじゃね、ありえるな、それとよ、私も聞いたんだけど」と商店街一帯の人達の口はヒ―トアップする一方「髪もすっかり白くなって、時には財布を忘れて買い物に来ることも」等々云い触れ回れるようにもなって、更に、髪真っ白を上積みにする一因を聞き及んでいたからです。

 「東京地検特捜部です。ここから動かないで下さいっ」令状を振りかざす。たった一枚の紙が殺気をふるわす。袖に腕章をつけ顔に厳しさ浮かせデンと居並ぶ。

対峙する空気の下、覚悟のすえの開き直りか、余裕のふりか、被疑者の面持ちであることに変わりはなく平静な表情につとめるけど顔が固まってる、微かに顳顬こめかみ痙攣けいれんがはしる。

裁判所即ち国家強制力による許可状だから何人も従わざるを得ない。被疑者オオバ氏は感窮かんきわまる、佳菜の父である。


これが社会と人の正義を治める最高権力――法治国家というものなのです。こわっわ! 

そんなことはね! 

これぞ近代国家! 素晴らぴーい! と云える。

悪の傀儡かいらいを退治するのが法律、この法を以て裁判の執行を指揮監督する権限を執行するのが検察。

とは言っても諸刃の剣っていうツラを見せることがあって、もう一方のやいばで善良な個人を殺すこともあるのです。

原因はカンタン。

検察が、国民ではなく国家に迎合すると、庶民とチャンバラをやりたくなって、所謂いわゆる剣刃けんじんあいまみゆる」形ってのを好むようになるからである。

何か時代劇みたいな言い方をしたが、分かり易くいや―、検察が国家に忖度――上の者の顔色に付和雷同するってこっちゃ――「君はどうして検察を選んだのですか?」と尋ねられ「悪を被った人を救ってやりたいからです』と答えたあの司法修習時の初心を忘れたのかしら。 

一歩間違うとナチス国家のように。

庶民の幸せより全体の利益のためだから貴様の命を差し出せとなった何時かの国の軍国主義のように。

或る日突然、民一人ひとりは臣民国家のためにあるのだから問答無用と押しかけ、善良な個人を引っ捕まえて殺してしまった特高警察のようになりかねないからです。

国民によって選ばれた者が社会の正義を行うために作ったのがルールであり「法律であり『善行』」――世の為、人様の為ということが絶対条件で「お礼」や「賞賛」「見返り」を求めない行為であって――また法律に明文化されていなくてもいわゆる長年続いて来た慣習や道徳までもが法律であって、これを執行し番人となるのが国家であり正義でもある筈。

そのためには、執行について、国民は監視する義務があるのですが機能してるとはいえないのです。イチバンの番人である最高裁判所トップを決めるのが、国民ではなく、時の人独りが決めるからです(憲法第6条第2項)。その独りって誰だ? 内閣です――表向きは『内閣総理大臣と他の国務大臣とで組織される合議体』とされているが実質は総理一人である。

極端にいえば、国は、王のように自らの都合のよいように人民を支配できる『人治主義』に陥る危険性があるということです。文字づらからは一見、人を治めると見えるがとんでもね―! 

法を恣意的につまり自分勝手気ままに援用するってことで、どこにも合理性も論理性もへったくりんもない政治ツラをしたヤバいやつなのだ――「この予算を回しやれば待機児童数は大幅に減って優秀な女性が社会に進出し易くなって社会への貢献度も増すし、これを謳えば次の選挙では票は頂いたようなもんですな」 「おっしゃる通り。そうしますか」 傍らにいた秘書がそっと耳打ち『何何法人らから先生の政治研究会の方へ既にン千万円の寄付が入金されていることを確認してございます』 すると前言を覆し「政府が安易に介入して託児所を増やすと却って民意の自助努力を削ぐことなるから、しばらく民間活力を期待しましょう」 「そうですか。そうおっしゃるなら」と仮の仮の話だが、これは自分の損得で政治を動かすだけの、人を利用するだけの、所謂いわゆる『人治主義』に堕ち入ることになるのです。

一部のための利益になる政治を行うのではなく、より多くの一人ひとりの人達のために政治はあるべきだからです。

 こんなこと中学生なら誰だって知ってる――公民教科書に載っている『立憲主義は、権力者の思いのままに政治が行われる「人の支配(人治主義)」でなく、憲法を頂点とする公正な法のもとですべての決定がなされる「法の支配」によって、はじめて実現されます(教育出版 p34 )』 

『国の政治権力は強大で、国民の自由をしばることができます。そこで、この政治権力から人権を守り、保障していくために、憲法によって政治権力を制限するという考えが生まれました。これを立憲主義といいます。立憲主義の考えは、政治が人の支配(人治主義)によってではなく、法の支配に基づいて行われることを求めています(東京書籍 p39 )』

『権力者の好みや思いつき(偏好即ち人治主義)で、政治権力が行使されると、私たちは、安心して自由な生活を送ることができなくなります(日本文教出版 P31 )』

いやあ、それどこか小学生だって知ってるよ。

社会の教科書には「日本の主権者は日本国民」としっかり書いてある。

すると「先生! 『主権者』ってなんですか?」と質問した生徒に先生は「『主権』とは国民一人ひとりの人格を尊重することです」と答える。

ねぇ、思い出したでしょ?

等々を四十代六十らの政治家は時間が経ってるから忘れてるのでしょうか? 

知らないんだよ。

えっ、小中校行ってないの?

爆睡してたんだよ、机によだれを垂らしながら。

まさか! そんなやつが政治してるの?

実際に『人治主義』をとるやつが居るからそうなんだよ。

フランス革命もロシア革命もアメリカ独立宣言も実はこの『人治主義』を打倒することを原点として起きたのです――ニッポンの革命は別。個々個人の人権の復権ではなく一握りの者(王政復古)の為だったからです。『朕躬ヲ以モッテ衆ニ先ンジ』とどこにも『個人ヲ以モッテ』とは書いてないぞ。朕躬ちんみとは、珍味なら歓迎だが、天皇中心に仕切れってことだろ。「そんなことはね! 誰が云った?」vs.『五箇条の御誓文が云った』vs.「なぬ! 貴様は国賊だ」どっちがだか。

監視係は国民一人ひとり。ここがいい加減だと権力者中心による横暴な社会へと逆戻りします。

と、まぁ、悪者退治をする鉄砲が法なのだからそれはそれで立派なルールであるが、どのように行うかが重要――法はみなが平穏に共生してくための相互尊重のルールであり,国民一人ひとりの生活をより豊かにするために存在するルールであるから、けっしてどこかだけの体制を維持するための、恣意的意向のための、ルールであってはならないのです。


オオバ氏は既に政府系銀行の任から経済産業省本省へ戻っており更に内閣府へと出向していたが、当時の内閣府内筆頭審議官らによる疑惑が野党をはじめ様々な関係者によって次から次へとスキャンダルがすっぱ抜かれ事件化となる状況下にあって、その関係者として特捜部から事情聴取・任意同行、ついに逮捕される身となった。

拘置所へ長期間にわたり収監、ようやっと出所し、一審の結審が下り、控訴しようと更に上級審である高等裁判所に不服申立て係争中の数ヵ月ほど経った頃、最後の最期まで世間体悪く奥さんとは別の女性と男女関係の末腹上死してしまった父。

相手は親子以上年齢差のある売り出し中の銀座ヤングホステスさんのお腹の上で事切れたのでした。年齢差は男女同意の上ならなんぼでもいいじゃないか、しかし事はその行状にある。

噂話では、傍らには動画撮影中のスマホが残されており三十万円程の札束を手に持ち口にもくわえピースしてる女の子の姿。20歳として店に採用されてるが実年齢は不詳――十八歳以下での深夜飲食店勤務は労働基準法ないし児童福祉法により禁止、当女子に対してだけでなく雇った店舗にも刑事罰が待つため曖昧あやふやのままにしておきたかったのだろう――の画像までおまけに付いてきた一夜だったとの話です。

特に誰彼となく叫泣さけびなきする者はいなかったと聞く。誰も死を悲しむ者がいなかったとは何とも寂しい顛末であったことか。

少欲知足しょうよくちそく』といって(舌が回り難いが)平たく言えば『がっつかず、与えられた現実を素直に受け入れる』つまり、あれもこれもとどんどん欲をむき出しにすればするほど反比例して失うモノも大きくなる。

結果、誰かを追い落とさなければ出世できなかったため友を失う、家庭を顧みなかったことから家族からの思いまでも失う、いっときの快楽のため盲となって誠の幸せを見過ごし、取り返しのつかない程の一生の何たるかを失う。

気付いたときは、ツ―レイト、孤独のまま最期を迎えることになる。本人が招いた結果とはいえこれほど傷傷しいことはない。

犬も猫も人も孤独だと死ぬそうです。厚生労働統計協会によると「20歳以上の男女において(二十歳だぞ、青春真っ盛りだろ)一人で暮らしている人のほうが、誰かと同居している人よりも自殺死亡率が高くなっている」という報告があります。死なないまでも孤独が健康や不幸せが顔の表情に影響を与えないはずはない。そうなると『キツイ顔面かおつき』にもなりかねない。『険のある顔』やだ―ね―え―。

幸せとは、まことの人と心を通わす血液だからです。

伴侶だったり、恋人だったリ、心友だったり、世のため、人のためになる仕事だったり……なになに? 仕事(会社)は人じゃないと。社会的ルールでは歴とした人なの! 法人とゆうでしょ。

じゃあ、犬は? 猫は? 

家族として暮らせば、人なのっ!(これが人の仁義ってやつだ)。 

このように物であっても自らが社会ルールの中で動くものは一定の人格権を与えようとする考え方のほうが、社会的に有益だし安定化させるためにも役立つからなのです。近代国家ほどそのような概念を抱きはじめてるのが現状です。

こと法解釈上から言えば、東大教授内田貴氏はこう認めている「自然人(実際に生きてる人)以外の主体が契約の当事者になる場合を扱う。契約の主体主体となる資格は、権利能力であるが、自然人以外に権利能力を持つ主体がある。これは、法律上法的人格を認められた者という意味で『法人』と呼ばれる(民法Ⅰ総則・物件総論。東京大学出版会)」

だからね、物である会社その類に人格権を与えるならば当然係る拡大解釈も成り立つわけで、日本の動物園・水族館のように狭い範囲内に囲って飼育してるのはどうかと思うんだよね。人間だって、いくら三食タダ昼寝付きでも、家賃ゼロでも、懲役ン十年の檻の中じゃ困るでしょ。


ちなみに、ドイツでは動物殺処分数ゼロ、スウェーデンは皆犬を外で飼わず家に中で一緒に暮らす。アメリカでの殺処分は年間300万頭に上るといいます、流石日本と同様に差別意識の高いアメリカだけはある。

日本では全国の犬猫殺処分数が2016年度の数は2015年度の8万2902匹から5万5998匹に減ったと関係省庁(環境省等)は喜んでいる、その意味が理解不――五万の命が一年で、月に五千以上もの、殺処分だよ、どうして生かす方法を執らないのでしょう? 

冷淡だからです(哺乳類のクジラを追いまわし殺してしまうのも日本だけ。それを食生活だからって気にしない一部か? 大多数か? の国民もどうかと思うが……)。

世界の死刑執行国順位は日本は世界で四番目。アムネスティ・インターナショナル日本の報告書よると『2017年末時点で106カ国がすべての犯罪において死刑を廃止し、142カ国が法律上あるいは事実上、死刑を廃止している』この世界標準に逆行してだよ――日本人と韓国人は恨み感情即ち返報性の原理の強い質だからねぇ。

しかも日本の社会的風潮として、ペット同伴でのホテル・入店の禁止が多いのもダントツ(ペットと暮らす人にとっては家族なのに!)、これが日本人の感覚かよ……冷たいね、何何『不衛生』ってか? 「勝手云ってほしくないね」人間の方が余程よっぽど不衛生、汗はかくし一日中洗わないままでいるし、脂っこいものは食ってるし、猫は都度洗ってます、舌で。犬だってあそこを舐めて四六時中清潔にしてるぞ。どれだけ人間の数の方が多く街中にいて、どれだけ髪をなびかせているか、その髪からどんだけゴミが飛び出しているか(夕陽にかざしてみれば分かる、霧のように舞ってるぞ)、三日も四日も洗わない人もいるんだよね(猫や犬のように日々自分の舌で洗ってるやつなんていないもんねぇ)。

此処日本にも勇知ある者が一人いる。中村毅代表である。犬猫等の殺処分ゼロに向けて社会に意識喚起を行おうとしている。生体ペット販売するペットショップを閉じたのです。そもそも西欧には、ブリーダーから買い主が直接引き取るのが主流になってることから、ペットショップなるものはないのであるから当然の事であって勇気のある決断だ。

彼の企業理念は「不幸な犬・猫を生まない社会をつくる」に基づいた判断であると聞くが、ペットショップでたとえ数日・数カ月檻に入れて見せものにすること自体が残酷なことであるからこの「不幸な犬・猫を生まない」の理念に含まれての事であろう。

どこかの惑星の住民の中には、どう見ても冷たい質としか見えない人種が生息してることには鼻に付いてならない(自分がまだおっぱいを飲んでいる母親から無理やり離され檻に入れられやがて飼われ捨てられ殺処分場に送られたら、わ・か・る)……多くの人は家族として添い遂げているのだが、年に五万もの命を奪ってる族が一部であろうが社会全体を暗く覆っているのが何処かの島の現状である。


誰にも強欲非道となる可能性は一パ以上ある。

かと云って溺れない者――自制心ある者――が殆んどなのだからやはり異常な終わり方というしかないだろう。

「地獄へ落ちろ!」

とは云わない。仏教他などの宗教と違いキリストの世界には地獄は無いからです。

どんな悪しき者でも悔い改めれば救わると謂われてるから今度生まれ変わるときはお坊さんに生れてやり直せばいい、治りそうもないねと思ったら、じゃあ! 人の役に立つ薬草いくらでもある、タンポポ・ドクダミ・ペンペン草・ハーブ・大葉名で知られてる青紫蘇あおじそ・朝鮮人参(儲かるぞ!)とかのどれかにでも生まれてきたらいい。

最大の被害者は誰であったか? 妻である母と佳菜であったことは云うまでもない。

身内とばかり信頼していた者から浮気という裏切を被るほど辛いことはない――特にその筆頭に「浮気」が挙げられが、これがなんと、「一般家庭であれ、企業であれ、芸能人や政治家の不倫であれ、発覚の理由の98%は身内からの告発である」という方もおらます。一体身内って何なんでしょうね? 浮気をする方も悪いが許す方も悪い。因果応報の罰を与えて当然。浮気をしない人も居るのだから。――


 裏切りは一遍でそれまでの百を失う。「悪かった、もお、しない!」 「絶対だよ」 「うん! しない!」 と云われても内心では「誰が信じるか」となる。

裏切り、即ち、夫婦間の暴力については「ドメスティック・バイオレンス。DV」として分けられるが、これは恋人など親しい間柄にあるカップル間において起きる暴力全般を指すと云われている(言ってるのは、司法三者――裁判所・検察・弁護士のプロの法律家たちである)。

この事例の全てがヤバイ。

プライバシーの監視、殴る、蹴る、突き飛ばす、髪を引っ張る、押さえつける・首を絞める、物をぶつける、物を使って殴る、物を壊す、熱湯や水をかける、煙草の火で脅す、なたぐい等を挙げています(厳密にこれを適応するとみんな捕まるぞ)。

時代だ、進化したのだ、人も進化しなくちゃ。 

法律を守らない者は原始人だ、いや、当時の人々の間にも法つまり倫理というマナ―(道徳)は有ったはずだ、守らなかった者は石の斧で処分されたことでしょう?


 亡くなった者に罪を問うのはナンセンスと母と佳菜は密かに出棺を済ませ、一息つく間もなく、遺品の整理をするうち生後間もない赤ちゃんを抱く三人が写った写真が、開かずの扉だったでっかいルイヴィトンから出てくる。

ようやっと鍵を見付け開けて見ると亡き義父の顔は分かったが他の二人は初めてみる顔であった。他にも出て来る! 来る! 手帳・書類・等々(死ぬ前に整理しとけばよかったのに!)ムリですね、何月何日何時何分に死ぬとは誰も分からない。だったら日頃から恥ずかしい生き方はしないこった。

見ていくうち驚いたことにその赤ちゃんはうの昔に伊豆高原に在る児童養護施設に出されていたではないか。どうなっているか? 気になってしょうがなくなり一度訪ねてみようとなる。

そこは人里離れた山間部のその奥深く急斜面な坂の途中に寂然ひっそりたたずむ平屋造りの一軒家。 

この伊豆高原エリアは、川端康成の『伊豆の踊子』の時代と異なり、人気のリゾート地となっていて。首都圏から近く、関西・東海方面からの交通の便も良い上に低廉なペンションにテニスコートに更に山も海も臨めるスポットとして海の幸山の幸とグルメを期待する若者を惹きつけ庭のように利用する者が多いそうです。グルメ処「和むら」も有名だもんなーあ―、何台もの観光バスで団体さん一行が訪れることは絶えないし、なんたって全メニュー活魚を料理(うまいったらありゃしね―え)――カツ丼もあるよ(食うために生きてる人!「行かぬが一生の損!」)

観光で賑わうお洒落なペンションが目立つだけに、周囲の背の高い木立に囲まれたせいもあって余計に全体的に暗い印象の建物と映ってしまう。

「部外者ではありません……斯々然々かくかくしかじか」と何度説明してもプライバシーにつき教えられないと云われ、その児のその後の足取りは一切手掛を掴めないまま帰るしかなかったのです。

この乳児院は、赤ちゃんの命を救い擁護して行く任務を負った施設であり預かった赤ちゃんの24時間養育のお手伝いをする大切な公的施設。

保護者がいない又は保護者の事情で、母親が刑務所で出産なら、生まれて一年は所内で養育可、必要と認めれるときはさらに6カ月延長までが最大。以後は母親が若し三年の刑期なら一切親子の接触は無くなるのです。また三年後に親子の絆を取り戻せるかというとその保証もないのである。

親が精神異常者(「疾あり」と認められなくても「挙動が異常」だと同扱い)、慢性的な虐待家庭等々で家庭での養育を受けられない乳幼児(「ちゃんと養育してる!」と云い張っても育児放棄と看做みなされると育児放棄扱い)の子を預かって養育する対象は法律の規定によって一歳未満を原則とし必要に応じて満二歳までと定められている。

しかし実際に親元に帰ることができる幼児は半数前後から1/3 ほどです。

親の温もりを知らずに育った上に半数以上もの児たちはその後も独り寂しく生きて行かざるを得ないとはなんとも惨い話。

社会的に大切な役割を担っている院だが中には不衛生から疾患や職員による横暴や虐待を起した事例があって、横浜市の某乳児院の場合には、泣くと躾と称し止むまで暗室に鍵を掛け閉じ込める、疲れ果てた赤ちゃんは翌朝には死んだようにグッタリ、実際に死亡した場合は赤ちゃんが口をきけない事を良い事に勝手に事実を捏造して報告。夜眠いのに起されるとヒステリーを起こしスリッパを口に押し込む等々が報告されたこともあります(ここに奇異な事実が起きている。グーグルで検索して知ったのだが、何故かその後はその事実を示す文言が一つもないのである……記事自体の真偽は?……誰かの意図的な要請がグーグルに対しあったのか?)。

この事件を契機に監督監視体制が強められたがそれでも人員不足や給与待遇面からなり手が少ないと聞く。大真面目に取り組んでいる院が大半であるだけに心苛苛イライラしくなる。

親の擁護を受けられないだけでも十分赤ちゃんたちは過酷な試練を被っているのだからもう少し手厚い保護を国も民間団体も大衆一般もしてやれないものだろか! 金とは限らない、励ます手はいくらでもある。有望な人材に育ったのなら自分の伴侶にすればいい。


写真の日付、前妻との離婚調停書類中の日付、手帳に記された日付、各々を照らし合わせるとその赤ちゃんの母親は愛人だったことも判明、ということは本妻が居ての不倫かあ。

どうして? どうして? こうなるの―? と更にめくっていくと、赤ちゃんのお母さんは美鼻とシワ整形を施された際に麻酔で死んでしまっていた。では残った子を預けたのは誰か? 何と無残な話。何と惨い仕打ちを残しこの父親は亡くなったことか。

エリートt大出、エリートな官僚生活(だから何だってんだ!)、学歴と人柄はまったく別なのです……博学と知は異なる……「博学は広く知識を有すること」で「知は道理に基づいて物事を認識したり判断したりする能力や知恵」この差は天と地ほどの開きがあるのです。

本当の知とは生きてくうちで学ぶ経験知……『真を、善を、美を、知る』にあるからです。古代ギリシアの哲学者プラトンから近代ドイツの哲学者カントに至るまで引き継がれ謂われてきたことだから本当なのである。経験知とは「ああ、あのケーキ旨かったぁ」ではなく『経験則といって実際に経験(哲学では「認識」という)した事柄から見いだされる法則』のことだからです。

日本にも同じよう人はおったぜよ。山本五十六は「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」と言ったように『人は認識することでしか動かない』という経験則、即ち、道理を知っていたのだろう。

だからね、地位や服装やツラで人を決めず、少しくらい安っぽい服を着ていても味わいある性格の人を選ぼう! 味のある人ってなんだろう? それら三つのどれかを備えた人。そんな人いるんかいな? 居ます! たとえば善とは人を温かくしてくれる人なのさ! よく分からないけど『善とは『イデア(理想)』つまり『愛』だとプラトンは云っている(もうこれ以上は分かりません)。知りたい人は哲学書を買って読めばいい、夜読まない方がいい、眠くなる。

カビ臭いボロボロの服装の上に体臭強いヒトは別です。何故って? 恋の対象者は清潔でなければなりません。でないと不衛生が原因で若しかして奇形で生まれてしまったら児に謝っても謝りきれなくなる。

と分かってはいるが、どうしても見掛けの良い人を選んでしまう。顔に魅かれるよね、が、骨相といって、その人の心にある性質や運勢が顔の表情に出るそうです。大したことない顔でも内にそれら三つのどれかを備えてるとナイスに見えるのはこのせいだ!


 何処の家庭にも云いにくい事情というものはある。いくら秘密事としても故事曰く『人の口に戸は立てられぬ』のごとく漏れ聞こえて来るのが普通。

いまだに「ああだ、こうだ」と噂は噂を呼び何所から何所までが真偽なのかは分からないが、うわさ話のヒ―トアップの末に出てきた佳菜に係る話には、一瞬言葉を失う。(な! わけねえ!)と何度打ち消したことか。それでも抑えきれない不安に見舞われる。

 「カタンッ!」……母の帰ってくる玄関ドアの音。父は半裸姿に遣ってた手を離す。

それまでは一緒にお風呂に入ることもあったが次第に何処か洗い方に違和感を感じるようになって「誰が小五になってまで一緒に入るか!」と義理の父に対し嫌悪感を抱くようになっていた。児には何が起きてるか訳も分からず唯唯怖くなってどう抵抗したらいいのかも覚束おぼつかず、この中一になってまたしても来た―!

「やだ―! やだぁ―! やめて―ッ! や―だ―あ―ッ!」必死な叫び! 逃げ惑う! 掴まれ押し倒され、強く抑えられ動けなくなって、マジ変態! とバタバタ必死! ついに立ちがり玄関へ一目散に駆け出しスニカ―だけはと握り裸足のまま跳び逃げた。

母が帰ってくるまでジッと悲しみに堪え木枯しの中なかを小さな公園の片隅で手を擦りながら待つ日も。帰ってきた時間を見計らい家に戻る事が何度遭ったことか。

このことを母には云えなかった。でも薄々気付いていたのか、高校進学のための受験準備時は母も何かと理由をつけては叔母の家で受験勉強に没頭するようにさせて貰ったお陰で今の高校へ進学出来た、しかしこの恐怖との表裏一体の生活はつづいていく。

「生活費は? 授業料は?  百万以上二百万も掛かる大学入学金は?  せめて志望大学に入るまでは頑張ろうよ!」何度母は佳菜を説き伏せたことか。何度公園に、フドコに逃げたか。友だちのとこなんか助けを求めに行けるはずがない。

(こんなのバレたら恥をかくのは自分とママだけ)今日も「…………」と苦悶するだけであった。ところが実際は友達んちでかおの表情から偶偶たまたま勘付かれ、思わずそれとなく苦痛な叫びを吐露してしまった。

友だちは云わないと約束を守ってくれた、この悩みを聞いた友だちは祖母に相談する、母は祖母から聞かされた、父も知ることになる、誰かが誰か他人に喋ったのである。

ゼッテイ云わない! 信じて! はゼッタイ云い触れまわれる。 

その場はどんなに固い約束でも漏れるものと心得ておいた方がよいでしょう。一旦約束した事は墓場まで持って行くことだ、これができそうもないときは、約束するな! 聞くな! 訊くな! 口に接着剤を塗れ!(無理だろ―な―あ―)。

 小三の時に来た義父であるがこれ以前の生活は、実の父、大正時代からの老舗和菓子店を受け継ぎ味も良し客扱いもグッな三代目店主であったが、ネット販売へ野望を馳せるようになり当初の数百万円から始まり数千万円の借金となりこの穴を埋めようとギャンブルに奔ったのが運の尽き。ついには当初の金高は億にも届く程の借財奴隷に堕ちるようになる。


だからねぇ、宣伝等の「何何銀行カードはその人の信用のステイタス」等の謳い文句に安易には乗らない方がよいのだよ、彼らは利息業とネット業に協力してるだけなのであるから。

原則は『曲肱之楽きょくこうのらく』無理して富を求めず、貧しくてもその生活を楽しむ、そのような生活の中にも楽しみはある――働けば入る、自前のお金でやってゆく、この方が健全な暮らしになるって。

カードは、一回が百回へと為り易く、ハマった人が次から次へ味を占め(『依存症』という病に冒され)て借財奴隷に落ちるケースが多いからです。

かといってカードの利便性が社会の流行ならいくらでも信用できるカードはある、Suica もである。これしか借金地獄を防ぐ方法は無い。起業だって『自己資金のみで――無いなら貯まるまで待てばいい――成功した会社の方が多い』というデータもあり――最大のメリットは「経営権を維持したまま思うがままに自由に経営することができる点です」もし借りると経営権の一部か大半を他者に奪われたまま(抵当権等の債務)の経営となる。つまり自分の会社の筈が他者のために働くという本末転倒が、いや、厳密には「主客転倒」が起きているのです、どっちにしても既に自分の会社ではないということです(借金つまり債務を返せなくなれば債権者の会社となる)。

仮に、住宅ローンを借りる金高が一千万円、十年120回、金利1.2%として総額10,616,933円となる、つまり『1,06倍の六十万円以上(616,933円)』を余計に払うことになるのです。では銀行カードローンとなると、金利は12倍以上の15%、ないし、15倍もの18%(この18%でも高いというのに遅延利率を別に17倍近くの20.0%と設けてあると、どんでもなく高い利率となる仕組み)だとすると借りたお金にプラス実質、数百万円、場合によっては一千万円以上を上乗せて払うんだよ。

ね! どっちが利用している利用されているかはしらないけど、程々に――ブレ―キをきかせろ! ってことね。異論がある人はそれはそれでいいが『後の祭り』といって『事が終わった後に後悔をしても、もう取り戻せない!』になるんだよね―え―。


連日連夜深夜にまたがることもあって「金返せ! ドロボ―!」の紙を家の周り中に貼り付けられるし玄関にゴミは置かれるし大声で脅迫はされるし、生きた心地は失せ、ついに佳菜が小一の時、父の自暴自棄の末 DV 度の重なりも酷くなり、逃げるように生活全てを跡に、やがて父は失踪不明者へ、交通事故で亡くなったとも風の便りに聞くようになる。

――失踪宣告効果(30条・31条)は『婚姻の解消』『相続の開始』『死亡保険金支払』の法的効力を発す。実際は何所かで生きていて7年間を経た後にこの民31条効果(死亡保険金支払ゲット)を悪用するのではないかと噂する者も居る。ここまでして全てを捨て逃げる者が居るものなのか? 他に救う手立てはあるのではないか? と考えるのは凡人だからでしょうか。――


 結果、生活のかてにと一時母がキャバで働き始め、その時に出会ったのが今の父となる。

「娘だと? 血が繋がってなければ男と女! Give and Take だろ! 自由恋愛だろ。寝食一切の生活面倒を見てやってるんだから受け入れて当然だろ。誠実さへの報酬はどの社会でも常識だ。そのくらい分かれ! アホ!」とかす者もおる。

これがリアな社会なのです。人によって抱くイメージは百人百様、これ次第で物事を天と地にも隔ててしまう。

互いに信頼という絆で結ばれていたはずの形が家族なら、そうでない者はhellじごくという奇形……気付いて逃げようとしたときはもう地獄というかたちに閉じ込められることになる、悪は染まり易いからです。

『この形と奇形とに隔ててしまうもの』とは一体何だろうか?

『人』です! 『環境』です。人が環境だからです。人は誰しも影響を受けるからである。

一旦染まると、空も草木もカメレオンも人間だってその色のままになり易くなるのが自然界則。

皆が皆で無いにしても、その割合がどの程度なのかは分からないが居ることだけは確かなのです、これが人を幸不幸のどちらかに振り分けてしまう性悪説(既出の由ご参照)が生れた所以ゆえんなのである。




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