髪の毛の怪 2
蓮の手にしたカツラの髪の毛が一瞬で膨らみ、触手と化した黒髪をうねらせ、藍へと襲いかかった。
幾本かの束に別れた魔手が数瞬前まで藍のいた空間を掻き、彼女を追うように軌道を変えた。
藍が身構えるより早く――。
「んなろ!」
蓮が右腕を引いて、カツラを放り投げようとした。
しかし、膨張した髪の毛は蓮の腕にも絡みつき離れようとしない。
それどころか、藍に向けて伸ばした触手を引き戻し、今度は蓮の頭へと絡みついた。
「ぐぉっ」
くぐもった苦悶の声が上がる。
右腕から胴、首、頭にかけ、蓮の体に髪の毛が絡みついていく。
身を捩り、左手で髪の毛を掻き毟るが、ますます体積を増す髪の毛に、今度は左腕も巻き込まれ、上半身全体を包まれた。
「ん、ぐ、ぐ」
凄まじい力だった。
あの蓮が、まるで抵抗できていない。
骨の軋む音まで聞こえるような。
「ちょ、え」
突然の事態に、藍は対応出来ていない。
(まさか、やられる? 久城君が?)
その時。
がらり、と、窓の開く音が聞こえた。
思わず藍が目を遣れば、そこには暢気な顔をして窓ガラスに手を置いた、響の姿があった。
「久城、いいぞ」
この事態に、まるで緊張感を抱いていないのは明らかだった。
藍が開きかけた口から問いを発する間もなく。
ぼん。
と、音を立てて、蓮の頭部が爆ぜた。
「さあんくす」
暗闇の教室に、紅蓮の花が咲いた。
炎の花弁を撒き散らし、爆発の中心から現れた蓮の顔は、笑っていた。
耳元まで裂けるような、獰猛な笑みだった。
『ライト・マイ・ファイヤ』。
『陽』属性の中でも、最もポピュラーで、尚且シンプルな、発火能力。蓮のそれは、全身を起点に発動する。
藍が短く悲鳴を上げた。
頭に巻きついていた髪の毛が炎と爆風に晒され、千切れ飛んだ。
一瞬動きを止めた髪の毛が再び蓮の頭部を襲おうと触手をざわめかせる前に、蓮は駆け出していた。
三歩。
右足で跳躍。
響が開けた窓から、蓮は飛び出した。
◇
「かかかっ」
蓮の口から、笑い声が溢れていた。
空へと飛び出す、この瞬間の開放感は、何度やっても飽きることがない。
束の間の無重力。
一瞬で世界が広がる。
全天に広がる、闇の世界。
空気が冷たい。
いつもと違うのは、体に絡みついたこの髪の毛だけ。
うざい!
両腕を中心に発火。拘束を引きちぎる。
両足からの噴火で姿勢を整える。
急停止の反動で右手を振り、爆発させた。
未練がましくしがみついていた髪の毛が弾け飛ぶ。
いや、今のは、爆発の直前に自分から外れていた。
吹き飛ばされ、闇に溶けた黒髪が、空中で再び触手を伸ばしたのが分かった。
闘る気らしい。
「そーうこなっくちゃなあ!」
瞳に火がつく。
蓮の叫び声に呼応するように、子供の腕程の太さの髪の毛の束が拡散し、四方八方から襲いかかった。
月明かりに踊る触手の大群。
その一つ一つの動きを目で追いかける。
一番近いのは、左脇から迫る一本だ。
右に旋回。
ロール・ターン。
待ち構えるように触手の網が広がる。
急制動。
一旦上へ。
月を仰ぐ。
一転、急降下。
追いすがる触手を、頭髪を爆発させて吹き飛ばす。
縦に一回転。両足を噴火させ、急停止。
地面すれすれを舐めるように滑空。
足裏を消火しつつ、両手を前に突き出し、地面に向けて噴火。勢いをそのまま、掌を支点に体が縦に回転する。
再び宙に舞い上がった蓮の体から撒き散らされた爆炎に、数本の触手が焼き払われる。
蓮の正面、伸び広がっていた触手の幾束かがずるずると収縮していく。
瞬き一つの合間に巨大な一塊と化した触手が、殴りつけるような動作で振り被られる。
蓮の顔に喜悦が満ちる。
右手の炎が燃え盛り。
「うおらぁあ!!」
ぶん殴った。
闇の世界に爆炎の花が咲き、消えた。
縦横無尽に宙を舞う蓮を捉えようとする髪の毛の触手は、重力を無視した蓮の動きに撹乱され、次々とその本数を減らしていく。
その度に、蓮はその中心へと近づいていく。
蓮が回し蹴りで二本の触手を纏めて吹き飛ばした、その時。
びくり、と。
蓮の肩が震え、その動きが止まる。
次の瞬間に背後を振り返った蓮の眼前に、それまでの髪の触手とはうって変わった硬質な質量が現れた。
レンガだ。
中庭の花壇から、髪の毛の触手が掴み上げ、投擲してきたのである。
「かぁっっっ!!」
怒声と共に口から爆破。
砕け散る。
完全なる死角からの攻撃を迎撃してみせた蓮の、その一瞬の隙をつき、一本の触手が左手に絡みついた。
強引に引っ張られる。
黒髪に埋もれ見えなくなった、その中心へ。
それでもなお、蓮の顔には獰猛な笑みがあった。
他の髪の毛が触手を絡みつかせる前に、蓮は両手を大きく左右に開いた。
左掌を前に、右掌を後ろに。
大噴火。
蓮の体が独楽のように回転し、巨大な炎のリングが、まとわりつく触手をまとめて薙ぎ払った。
大きく空いた間隙に滑り込む。
一際濃く闇が凝った中心を見据え、
右の拳を引き絞る。
ぼ。ぼぼ。ぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ。
炎塊が猛り、
「ぜぃやああ!!!!」
振り下ろされた。
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