第1話 「名前が、ない?」
花の香りがする。甘く、やさしく──懐かしい香り。目を閉じたまま無意識に、少年は鼻をひくつかせる。乾いた喉に優しい、湿ったあたたかい空気を吸い込むと、胸にどっと郷愁が溢れた。おかしなことだ。少年に故郷などない。帰る場所を、まだ知らない。
目覚めたくない、とおぼつかない意識の中で少年は願った。
許されるなら、このままずっとここで、揺蕩うようにまどろんでいたい。
ここは静かで、あたたかい。どこも痛くないし、少年を脅かすものの気配も、今は遠い。こんなに穏やかな時間は久しぶりだ。
伏せた瞼の下から、少年の頬を伝い、ころり、ころりと涙が転がる。
その涙を、拭うものがあった。
「……っ!?」
「あ、起きた」
反射的にがばりと飛び起きた少年の目に最初に映ったものは、萌え出ずる春の若葉を思わせる明るいグリーンの瞳だった。好奇心と期待にキラキラと輝く、警戒心のかけらもない、アーモンド型の大きな瞳。頬を薔薇色に染めて、新しい刺激と非日常を歓迎する、子どもの瞳だ。
「大丈夫? どこか痛いところ、ある?」
薄暗い視界の中、そう言ってことりと首を傾げたのは、少年とそう年も変わらぬ黒髪の少女だった。先程少年の涙を拭ったのは、彼女の右手にあるハンカチでどうやら間違いなさそうだ。しかしわかることと言えば現状それくらいで、胸中からわき上がってくるたくさんの疑問が、一瞬少年の喉を塞いだ。少年の返事がないのを不思議がるように、きょとんと少女が目を瞬く。
「おばーちゃーん! あの子、起きたよー!」
しかしそれもつかの間、大きな瞳をきらきらと輝かせた少女は、やおら後ろを振り向くと弾む声を張り上げた。返事が待ちきれないのか、軽やかに駆け出していく背中が、1メートルもしないうちにまばゆい光の中に眩む。一瞬虹色の油膜に似た光が少年を中心にドーム型に浮かび上がり、翻った少女の髪の先をとぷんと沈めて、すぐにまた何事もなかったように静まり返った。走り去る少女の後ろ姿が、やがて部屋の角を曲がり見えなくなる。
それを追うように、少年は思わず手を伸ばした。とにかく何もわからないのだ。さっきは咄嗟に口が回らなかったが、彼女に聞きたいことが山ほどあった。今だって増え続けている。しかし、伸ばした指は、先程少女が難なく越えた一線を越えられなかった。バチッと静電気が弾けるような音と衝撃に、少年が驚いて指を引く。恐る恐るもう一度試しても同じだった。衝撃に耐えて指を押し込もうとしても、その度浮かび上がる虹色の光が、更に強い力で少年の指を弾き返す。訳もわからず、少年はじりじりと後ずさった。後ずさりながらも、本能なのか、自分の状況を少しでも把握しようと目だけはせわしなく動いている。
そうしてよく見てみれば、少年のいる場所は、部屋と言うよりまるで洞窟の中のようだった。ごつごつとした岩壁が四方を覆い、先程少女の出ていった場所だけが開かれている。しかしそれも出てすぐに行き止まりになっており、正面には周りと同じような岩壁が立ち塞がっていた。少女が曲がった方向から、うすぼんやりとした光が漏れ出している。薄暗いのも当然で、その他に光源と言えるものは壁にかけられた燭台の、蝋燭ただひとつきりだ。やわらかいオレンジ色の光が、ゆらゆらと揺れながら、少年の周りをまるく照らし出す。かろうじて羽織っているのは薄いシーツ一枚で、他に身に纏っているものはない。
「──あそこには近付くなと言ったはずだぞ。何かあったらどうするつもりだ」
「だっておばあちゃん、まだ子どもだよ? それにあの子、泣いてたんだもん。きっと何かつらいことがあったんだよ」
あちこち必死に目を凝らしていた少年は、カツカツと足早に近付いてくる二人分の足音に気付き、ぎゅっと身を強張らせた。
長くは待たせず、やがて先程の少女と見知らぬ声の主が、連れ立って角を曲がってくる。彼女と目が合った瞬間、少年はしかし、それまでの混乱も、警戒も、いっそ瞬きすら忘れてしまった。
少年の記憶が正しければ、先程少女はおばあちゃんと呼んだはずだ。
おばあちゃん。
しかし少女と共に少年の元を訪れた彼女は、“おばあちゃん”という言葉から人が想像し得るおおよそ全てのイメージから、まるでかけ離れた美女であった。
腰まで伸びた、贅沢に波打つ黒髪。ニヤニヤと少年を見やる、星空を抱いたような瞳。つり上がった艶やかな赤い唇から覗く牙は、真珠の輝きをしている。
漆黒のローブの下に着込んだ同色のロングドレスは、何故だか胸元だけがこれでもかと強調されたデザインで、豊かな白い胸が、そこから今にもこぼれ落ちそうだ。とはいえ豊かなのは胸元だけで、ぴったりとしたドレスは、彼女の引き締まった完璧なボディラインを惜しげもなく浮き上がらせている。
性には未熟な少年でも、訳も分からず赤面してしまうような、妖しい魅力が彼女にはあった。
「おや、照れているのかい」
いくつもの指輪で飾り立てられた、刺さりそうに長い爪で、「なかなか可愛らしい顔をしているじゃないか」と、笑いながら彼女は少年の頰をなぞった。
「……ッいっ、た……!」
「おばあちゃん!」
そのまま頰にぎちりと爪を立てられて、痛みに身を硬くした少年が悲鳴を上げる。彼女の腕にぶら下がるようにしながら、慌てて止めに入る少女の声を聞いて、ようやく少年は我に返った。
「ふむ。すまんねルチア。少し、確かめたいことがあってな」
少年の血のついた爪の先をぺろりと舐めて、悪びれもせず彼女は、傍らの少女の肩を抱き寄せる。
「さて、まずは自己紹介からだな。私はエルザ。そしてこの子が、わたしの孫娘のルチアだ」
「あ……、すみません……俺──いや、僕、名前はないんです」
どんなに贔屓目に見ても30歳以上には見えなかったが、孫娘と言うからには、やはり彼女に対する”おばあちゃん”という呼称は正しいのだろう。
再度めまぐるしい混乱に襲われ始めた少年は、そっけない自己紹介を返すのがやっとだ。
「名前がない?」
「思い出せないんです。小さい頃の記憶がなくて……だからナナシとか……あと、時々
「……フォーリナー?」
「はい……あの、ここはどこなんですか? 僕は一体どうなって……どうしてここにいるんですか?」
聞きたいことはたくさんあって、一度口を開けば、質問は矢のように少年の口をついた。
「そ……そうだ、村のみんなは? 突然、ものすごい地鳴りがあったと思ったら、いきなり辺りが真っ暗になって……僕、気を失ってしまって……それから──」
説明するために記憶を辿り、段々と少年はこれまでのことを思い出した。無理矢理髪の毛を掴み、藪から少年を引きずり出す加減のない大人の力。心臓を、肺を、身体中を四方八方から貫かれる痛みと衝撃──。最後の方はコマ送りのように、思い出したくもない記憶がめまぐるしく押し寄せ、少年が思わず口元を押さえる。
「そうだ──僕は、ころされて……槍で胸を……それで息が──息ができなくて……」
「しっかりしろ!」
蒼白な顔でガクガクと震える少年を一喝し、その前に膝をつくと、エルザは少年の肩を揺さぶった。
「落ち着きなさい、少年。君の体はどこも、傷ついてはいない」
エルザに導かれて、少年は震える手で自らの胸に触れた。痛みはない。息も苦しくない。意を決してシーツをずらしてみたが、エルザの言う通り、胸どころか体のどこにも、目立った傷はなかった。
「どうやら我々は、よく話をする必要がありそうだな。その驚異的な回復力についても、洗いざらい調べさせてもらうぞ」
上半身裸の少年にちょっと恥ずかしそうにしながら、ルチアが手鏡を手渡してくれる。先程確かに血が出るほど抉られた頰の傷が跡形もなく消えているのを見た少年は、青褪めた顔で頷いた。
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