爪を隠す
F国での任務を終えた翌日、A・ファーレンハイトはA・セルシウスを新本部内の運動場に連行し、そこで若いエージェントたちに格闘術の指導をしているマスターDに会わせた。
――マスターDは旧本部の防衛に失敗したことから、今は一線を退いて後進の育成に専念している。
ディエティーを止められなかったことで彼は自信を喪失し、急に老けこんだようになってしまった。
彼の部下の中で腕利きのエージェントはほとんどマスターGの下に異動させられ、実行力もないに等しい。それは彼なりの自戒のつもりなのだろう。
A・ファーレンハイトはマスターDに依頼する。
「マスターD、お忙しいところすみません。彼と手合わせしていただけませんか?」
「ああ、構わないが……」
彼はセルシウスの嫌そうな顔を見て、ファーレンハイトに視線を送り暗に再確認を求めたが、彼女は強気に押した。
「彼が実戦で使いものになるのか見ておきたいのです」
「自分は現場に出たいだとか、そんなことは全然……」
及び腰のセルシウスを彼女は睨みつける。
「今は戦闘員が不足している状況だ。猫の手も借りたい」
「それは分かってますけど……。ああもう、分かりましたよ、やれば良いんでしょう? お手柔らかにお願いします」
彼女の圧力にセルシウスは屈し、やけになってマスターDに頭を下げた。
マスターDは小さく頷き、訓練の準備に取りかかる。
◇
稽古着に着替えたセルシウスは、マスターDと一対一で向き合う。
周りのエージェントたちは手を止めて、二人の勝負を見学した。
セルシウスのボクシングのような構えに対して、マスターDは背筋を伸ばした半身の姿勢。
「どこからでもかかってきなさい」
手招きして挑発するマスターDに、セルシウスはステップを踏みながら時計回りに様子を窺う。
マスターDはゆっくり体の向きをセルシウスに合わせて、彼を正面に捉え続ける。
お互いに様子を窺っているかのような状況から一変、セルシウスは急にステップを止めて走りはじめ、加速しながら渦を巻くようにマスターDとの距離を縮めた。
マスターDはセルシウスの動きに合わせて逆方向に回転し、彼の先を制して地獄突きを叩きこむ。
喉元に突きを食らってよろめくセルシウスに、彼は追撃せず言った。
「まだ余裕があるな。私がマスターだからといって、手加減する必要はないぞ」
「ゲホゲホ! もう降参です、できません!」
右手で喉を押さえながら後退して情けなく許しを乞うセルシウスだったが、マスターDの目は冷たい。
「いいや、今の突きは入っていない。上手く避けたな」
彼の指摘にセルシウスは苦笑いして言いわけする。
「ぐ、偶然ですよ……」
「もう良い。君の実力は分かった」
マスターDは呆れたように告げると運動場の隅に下がり、ファーレンハイトとすれ違う瞬間に小声で言った。
「A・セルシウスの実力はかなりのものだ。私の下にいた精鋭たちにも引けは取らないだろう。本人はそれを隠したがっているようだが……」
「本当ですか?」
「私の目に狂いがなければの話だ」
マスターDは自虐して、少し自信のなさそうな笑みを浮かべる。
それでもファーレンハイトは彼の観察眼を信じることにした。
セルシウスは使える。嫌だと言っても、次の戦闘任務には同行させる。
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