翻弄される者 2
A・ファーレンハイトはマスターRの部屋の前まで来ると、一つ深呼吸をして息を整え、気合を入れて強めにドアを叩いた。
何も知らないマスターRはのん気な返事をする。
「どうぞ。開いてるよ」
ファーレンハイトは真顔でずかずか乗りこみ、例のゆったりした椅子に座っているマスターRに詰め寄って、タブレット端末の一時停止中の動画を突きつけた。
「これはどういうことですか?」
「ああ、どうもこうも……見たままだが」
マスターRは画面に少し目をやっただけで状況を完全に理解する。彼女は何でもないことのように涼しい顔で言った。
「いったい何を怒っているのか、私にはさっぱり分からない」
「マスターTを利用するのは止めてください」
「利用とは人聞きの悪い。私は本気だよ」
「嘘をつかないでください」
「なぜ嘘だと思うのか」
わざとらしくおどけてみせるマスターRにファーレンハイトの怒りは募る一方。
だが、マスターRはさらに挑発するように言う。
「私は本気だよ」
「あなたは彼の技を当てにしているだけでしょう!」
「それの何が悪い? 私たちには彼の技が必要だ。彼の記憶があろうがなかろうが関係ない。今の彼に居場所がないなら私が彼の拠り所になる。全ては組織のため。何か間違っているかな?」
彼女の覚悟にファーレンハイトは怯んだ。
それを読み取った彼女は不敵に笑う。
「そもそも悪く思っているような男には、そこまでしてやる気にはなれないぞ。それとも何か? 君が私の代わりに、記憶を失ってしまったかわいそうな彼と関係を持って、彼を組織に繫ぎ止めてくれるのか?」
「それは……」
「フフフ、君は若いな。羨ましいよ」
マスターRは大人の余裕で、言いよどむファーレンハイトを許した。そして彼女の手からタブレット端末を取り上げると、動画の続きを再生して彼女に見せつける。
動画の中でマスターRはカメラ目線になると、いたずらっぽい笑みを浮かべてマスターTから離れた。彼女はカメラにゆっくり歩いて近づき、レンズを覗きこむように屈みながら、ウィンクして手を伸ばす。
……そこで録画が止まって画面が真っ黒になる。
「隠し撮りに気づかない私ではない。これを君に見せたのはバールだろう。全く、困った子だ」
マスターRは何もかもお見通しで、ファーレンハイトは打ちのめされた気持ちでうなだれた。しかし、彼女は抗議を諦めない。
「……あなたはマスターTのことを何も知らないでしょう。今まで彼がどんな気持ちでいたか」
マスターRは少しムッとして問う。
「君こそあいつの何を知っているというのか」
彼女にとってはマスターTの心など、どうでも良いのだ。彼の記憶も戻らない方が都合がいいと考えているかもしれない。
そんな人には負けられないと、ファーレンハイトは心を強く持って言い返す。
「あなたは知っていますか? マスターTが任務の時にはいつも暗い顔をしていたことを。彼が重い宿命を背負わされていることを。彼が記憶を失ったのは、逃避願望の表れなのかもしれません」
「……詳しく話してくれないか?」
この告白にはマスターRも驚いて興味を持った。
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