邪悪な魂 5

 今からでは何をしても間に合わないと、A・ファーレンハイトは無力感に打ちひしがれて死を覚悟した。


(お父様……)


 彼女は父親の死の記憶と自らの死の恐怖から逃げるように目と耳を塞ぐ。

 仮にマスターTのプロテクターが爆発に耐えても、沈む船からの脱出は不可能だ。絶望の中で彼女は爆死と溺死ではどっちが楽かなど、ろくでもないことを考えはじめた。


 ……だが、いつまで経っても爆発の衝撃が襲ってくることはなく、その代わりに彼女は潮の香りを感じた。すっと体の拘束が緩む。恐る恐る目を開けて上体を起こすと、そこはA・ノットが待機しているボートの中。

 死の恐怖は薄れるが、今度は混乱で震えが止まらない。現状をどう受け止めたら良いのか、ファーレンハイトは地に足が着いていない感覚だった。

 マスターTはプロテクターを着ておらず、黒い海に炎上したまま沈んでいく輸送船を、ボートのフロントシールド越しにただ見つめている。

 ついさっきまで二人ともあの船の中にいたはずなのに、今は海の上に浮かぶボートの中……。


 夢でも見ていたのかとファーレンハイトは自分の正気を疑い、マスターTに事の経緯を尋ねた。


「……何をしたんですか?」


 予想外に情けなく震えた声が出て、彼女は恥ずかしくなる。

 しかし、マスターTは聞こえなかったのか、彼女には見向きもせずA・ノットに呼びかける。


「ノットくん、急いで離脱してくれ」

「分かってますよ」


 彼はファーレンハイトとは違い、何の疑問も抱かずに平然と応じた。

 ボートは静かに加速しながらターンして潜水し、I国の領海を離れる。


 無視されているのかと思ったファーレンハイトは、気丈に震えを抑えて立ち上がり、改めてマスターTに声をかけた。


「マスターT!」


 二度目の問いかけでやや強い口調になった彼女に、マスターTはびっくりして身をすくめる。彼はゆっくりと振り返り、気まずそうに言った。


「あっ、ごめん……。緊急事態だったとは言え、何か無理やり押し倒したみたいになって……」

「そんなことは聞いていませんが」

「悪かった! 怒って……ますよね、はい」


 萎縮して丁寧な言い方になる彼に彼女はいら立ちはじめる。


「違います」

「本当にごめんなさい! すみませんでした! 女の子だとは思わなかったんです!」

「は?? 何?」


 衝撃の告白に彼女は目が点になった。さっきまでの恐怖も混乱も完全にすっ飛んでしまう。まさか性別を把握されていないとは思わなかった。


「え、え? 今の今まで? 私を何だと?」

「いや、その、背は高いし、力も強いし、格好だって……。少し声が高くても、年もまだ若いし、そういう男の子もいるかなって」

「えぇ……」


 ファーレンハイトは困惑しながらも普段の自分を顧みて、男だと誤解されるのもしかたないのかなという気持ちになる。本部でも任務でも仕事中は気を張っているし、プライベートのつき合いもないのだから。


「逆に何で女だって分かったんですか?」

「それは……胸が……。こ、故意じゃなかったんだ!」


 過失を主張するマスターTに、ここは女の子らしく恥ずかしがるべきか、誤解されていたことを怒るべきか、それともクールに気にしていないと言うべきか、ファーレンハイトは判断に迷った。

 彼女は彼が何も言わなかったら、触られたことを意識しなかっただろう。生きるか死ぬかの場面でそんなことを考えている暇はなかったし、実際何とも思わなかった。今さら恥ずかしがるのはわざとらしいし、怒るのも大人げないと彼女は思うが、一度意識したら気にしないようにするのは難しい。

 マスターTは彼女が無言のままなので怯えている。

 ボートを運転するA・ノットは涼しい顔で何も聞かないふり。


 バカみたいなことを考えている内にファーレンハイトは気が抜けて、疑問点は後で聞けば良いかという気持ちになる。

 マスターTは何か大きな秘密を抱えていて、それが彼の任務にも関係している。

 もしかしたら他人には明かせないことなのかもしれないが、秘密にされたままでは気分が良くない。

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