霊性遺伝

東方雅人

第1話 遺伝という名の呪い

 榊原さかきばら柊吾しゅうごの父、巌三げんぞうは、感情が表に出やすい人間だった。

 機嫌が良いときは、コッ、コッと舌を鳴らす癖があり、悪いときは顔を醜く歪ませ、ぎぃぎぃと音を立てて歯軋りをする。

 柊吾はその耳障りな音が怖かった。耳にした途端の、ぞわりと背筋が粟立つ感覚をいまでもはっきりと覚えている。そして彼が機嫌を損ねるのは、決まって柊吾が自分に逆らったときだった。

「何年かかってもいい。とにかく医学部に入れ」それが榊原巌三の口癖だ。

 若くして優秀な精神科医だった彼は、大学病院で辣腕を揮ったのち、いまから二十数年前、祖父が開業した榊原メンタルクリニックの院長の座を引き継いだ。柊吾が高校に進学すると、診療や治療などの実務を勤務医たちに任せて自身は経営に回り、その余った時間を息子の教育に充てた。柊吾には二人の姉がいたが、巌三がその妄執じみた異常な熱心ぶりを見せるのは、彼一人にだけだった。早い話、彼は息子に自分と同じ精神科医の道を歩ませたかったのだ。

 親というものは往々にして子を思い通りにコントロールしようとし、時にその若き肉体に在りし日の自身を投影しては果たせなかった夢を託そうとする。だが自分は父の分身でも操り人形でもない、などと柊吾は心の中で敦圉いきまいてみせるが、結局、巌三が敷いたレールから外れることはただの一度もなかった。

 尤も、当の本人は精神医師になりたいとは微塵も思っていなかった。自分に医師の素質があるとは到底思えず、漫画家というかねてからの夢もあった。それでも父の云いなりにならざるを得なかったのは、彼が息子を従わせるためなら暴力をも辞さず、挙句「精神科医になれなければ家を追い出す」とまで云い放ったからだ。結局、柊吾は二流の末にT大学の医学部に入学した。彼には精神科医以外の選択肢など、最初からなかったのだ。


 そんな巌三が亡くなったのは、大学に進学して一年目の秋――。まだ五十二と早過ぎる死であった。

 これといって持病はなく、柊吾の目にも至って健康そうに見えた父。死因は不明だったが、自身の死を予期していたかのように、彼は家族に遺書を残していた。主な内容は二つ。大学を卒業した柊吾に院長の座を継がせること、遺産の半分を柊吾に、残りを二人の姉で分けろというものだった。

 巌三の告別式には全国から多くの知人友人が集まった。医院のスタッフから研修生時代の同期、大学病院時代の同僚、元患者に至るまで実に百人超。息子にとっては理想とは程遠い父だったが、精神科医としては一定の尊敬を集めていたようだ。

 しかし柊吾は彼らに対し、ある違和感を覚えた。悲しげな表情や素振りを見せる者が誰一人としていない……どころか、誰もが一様にうっすらと笑みを湛えているのだ。会場には彼がイメージしていた陰鬱とした雰囲気は欠片もなく、さもハレの日だと云わんばかりの、そこはかとない祝祭感さえ漂わせていた。薄気味の悪さを感じつつも、自分が慣れていないだけで葬式とは抑々そもそもこういうものなのかもしれない、と彼はすぐさま自分を納得させた。

 式は滞りなく進み、柊吾が遺族を代表し、参列者の前で型通りの告辞を滔々と読み上げているときだった。彼の目が〝それ〟を捉える。喪服姿の群衆から成る黒山の人集り。その只中にあってひどく場違いな風貌がいつも以上に目を引いた。真白まっしろな服を着た男――。しかし、その白い異物を気にする者は、彼の他には誰一人いなかった。

(まただ……。また、あの男だ)

 柊吾はうんざりしたように目をぐるりと回す。

 あれは小学校を卒業して間もなくのことだった。配られた卒業アルバムから自分が映っている写真を探していたとき、彼はその存在に気付いた。自分に目を向けているように見える、ぽつんと小さな白い人影。それは彼がいる写真のほぼ全てに映り込んでいたのだ。

 以後、意識して周囲を見渡すようになり、彼は確信した。遥か彼方より何者かが自分を監視している事実に。だが誰に話してもそんなものは見えないと云う。

 彼にしか見えない、この世のものではない何か。俗に云う〝霊〟だ。尤も、それが霊だと客観的に証明する術はないのだが、少なくとも彼自身はそう信じていた。

 その白服の男は特段何をするでもなく、ただただ遠くから柊吾に顔を向け、ぼんやりと佇んでいるだけだった。その相貌はぼやけていて定かではない。昔から見慣れている彼にいまさら恐怖心などあるはずもなかったが、二つばかり気に掛かる点はあった。

 その一つは、まさにいま柊吾の身に起きていた。彼は白服の男を見ているうちに、くらりと眩暈がしたのだ。目の前の景色がぐるりと渦を巻くように歪む。男をしばらく見ていると必ずと云ってよいほどその不可思議な現象に襲われるのだが、奇妙なことに、その渦巻く眩暈は決まって反時計回りをしていた。

 二つ目は、男との距離である。肉眼では到底把握できない僅かな動き――年単位で比べてようやく気付ける程度だが、確かにその距離は縮まっていく一方だった。そして男が近づくにつれ、徐々に眩暈もひどくなる。――ように彼には思えた。


 火葬後の骨上げを済ませて帰宅したころには、すでに日が暮れていた。

 巌三の書斎に骨壺を置いた柊吾は、誰もいない部屋の中途半端に引かれた椅子を目にして、ようやく「父はもういないのだ」との実感が沸々と湧いてきた。それは深い悲しみを伴うものではなく、これで父の理不尽な支配から解放される、という一種の安堵に近い感情だった。

 部屋には彼の遺品が並べられている。その中に一冊のノートを見つけた彼は、何気なくぱらぱらと捲ってみた。筆跡は巌三のものだ。あの父が手記を書いていたとは……らしくないなと思いながらも、彼は一頁目を声に出して読み上げる。

『先月、父の崇仁たかひとが死んだ』

 日付はいまから二十五前の二月十八日、巌三が二十七のときだ。この数年後、彼は死んだ崇仁――柊吾の祖父――に代わってクリニックの院長に就任する。

『俺は幼少期から霊が見える』

 柊吾はその一文に愕然とした。

『あの白い服を着た男は、俺に危害を加えるわけでもなく、ただひたすらに、じぃっとこちらを見ているだけなのだ』

 その経験は驚くほど自分と似通っていたのだ。見知らぬ白服の男。なんとも奇妙な一致だ……と、そのときはそれ以上気に留めなかった。

 そして次の一文を読み、彼の中にあった仄かな予感は確信へと変わる。

『先日、父の遺品から手記を見つけた。それを読む限り、どうやら彼にも霊が見えていたようだ』

 遺伝だ――。霊感が代々遺伝しているのだ。彼にはそうとしか考えられなかった。巌三も同じ考えだったらしく、

『これはひょっとすると、遺伝ではなかろうか。父の霊感が息子の俺に遺伝したのだ。我ながら正気を疑ったが、そう考えれば何かと辻褄が合ってしまうのも事実。俄かに怖くなった俺は、無我夢中で手記を読み進めた。すると榊原一族に纏わる、ある恐ろしい秘密が発覚した。

 もしこれが本当だとしたら、俺はどうすればいいというのか。いや、事実だと決まった訳じゃない。俺の頭がおかしくなってしまっただけなのかもしれない。きっとそうに違いない、俺は気が触れてしまったのだ』

 手記はそこで終わり、次の頁は見開き一面が黒く塗り潰されていた。仔細に見ると、それはただ乱雑に書き殴られたものではないと分かった。渦巻だ。ぐるぐるぐるぐると何度も何度も……真黒まっくろになるまで繰り返しなぞられた渦巻模様。よほど力を入れたのか、ところどころ下の紙まで破けている。

 その筆跡から柊吾はあることに気付く――や否や、ぞくりと身震いした。渦巻は、反時計回りをしていたのだ。


     *


 柊吾は祖父の手記が無性に気になった。自身の正気を疑い出すまで父を追い詰めた榊原家の秘密とは一体……。実家を隈なく探し始めて三日、ようやく屋根裏部屋から一冊の手記を発見した。表紙には「榊原崇仁」の文字。

『今日もあの男を見た。白い服の男。遠くてその顔までは見えない』手記はそう書き出されていた。

 やはり、祖父も自分や父と同じ白服の男を見ていた。符合はそれだけに止まらない。ぐるぐると渦を巻く眩暈、じわじわと縮まる距離。祖父の手記を読んだ父の手記を読んだ自分……まるで円環のように繰り返し反復する事象。これらは単なる偶然なのだろうか――柊吾はもはや頻出する奇妙な一致を無視できなくなった。

『私がどこへ行こうとも奴はあとをついてくる。何をするでもなく、只々じいっと……私から目を逸らそうとしない。何もしないことが却って恐怖をそそった。その絶え間のない凝視が次第に私の精神を狂気の淵へと追い込んでゆくのだ』

 その後も三頁にわたって彼の精神が徐々に蝕まれていく様子が克明に綴られていた。

『昨日のことである。父、儀一ぎいちの書斎から古びた白いガウンが見つかった。胸には〈うてな脳病院〉の刺繍』

 臺……。柊吾はその名に聞き覚えがあった。

『私は直感した。父は精神科病院の患者なのではないかと。彼も私と同じようにあらぬものが見えていたのではなかろうか。精神病の発症には遺伝の影響も大きいと聞く。私に奇怪おかしなものが見えていたのは、精神疾患のせいなのかもしれない』

 どうやら崇仁は、一連の怪現象を霊感ではなく精神病によるものだと考えたらしい。柊吾もその線を検討しなかったわけではない。ただ、曲がりなりにも精神科医の卵である自分が精神疾患だとはどうしても信じたくなかったのだ。

 誰かに監視されている、霊感がある、悪霊が憑いた……。改めて考えてみれば、すべて典型的な妄想型統合失調症の症例ではないか。次第に彼も精神疾患の可能性を疑い始めた。

『父は何を患っていたのか。この病に治療法はあるのか。私は試しに臺脳病院を訪ねてみた。ところが、そこはすでに潰れていて廃墟と化していた。向かいに店を構えるタバコ屋の主人に訊いてみると、一部の医師は他所の精神科に移ったそうだと云う』

 崇仁は一週間かけてその一人を隣県の総合病院で見つけ出す。名は橳島嗣郎ぬでしまつぐろう、当時はまだ研修医だった。

『私は橳島に榊原儀一という患者はいなかったかと訊いたが、そんな名は知らぬ存ぜぬと冷たくあしらう。それでも私が執拗しつこく詰め寄ると、あんな事件があったんだ、もう臺の名も聞きたくはないと激高し、私は敢えなく追い出された。あんな事件? 事件とは何のことだ?』

 戦後まもなくの精神科病院で起きた事件……臺……。柊吾ははたと思い出した。

 通称〈ウテナ実験〉。当時はちょうどロボトミー手術が注目を浴び始めた時代だった。臺脳病院の院長、うてな久義ひさよしの指揮の下、当時入院中の患者四名に対して人体実験を行い、その後に無断でロボトミー手術を施したのだ。実験の結果、三名の被験者が死亡し、唯一の生存者も脳内に甚大な後遺症を負った。

 その非倫理性から責任者の臺は猛烈なバッシングを受け、同院は閉鎖、関係者の多くが医学界から追放された。

『私は臺脳病院に関する資料や文献を片っ端から読み漁った。そしてようやく知ったのだ。彼らが秘密裡に行ってきたいとわしき所業の数々を。

 事件の第一報を告げた地元の新聞記事には、実験の中心人物だった執刀医の名前が記載されていた。患者から〝悪魔〟の異名で恐れられていたという、さかき貞雄さだお。その顔写真を見て、私は驚愕した。それは私の父、榊原儀一そのひとだったのだ』

 予想だにしない事実に、柊吾は思わず手記を取り落としかける。続きが気になって仕方がない、とでも云わんばかりに勢いよく次の頁を捲ると、挟まれていた新聞記事の切り抜きがはらりと落ちた。

 そこには「榊貞雄」の名前とともに三十代半ばほどの男が映っている。その形容しがたい没個性的な顔が、しかし二人には同じ血が流れていることを彼に確信させた。

 〈臺実験〉の執刀医だった〝悪魔〟榊貞雄は、崇仁の父――そして柊吾の曾祖父、榊原儀一だったのだ。

『そういえば、私は父のことを殆ど何も知らなかった。私が知っている榊原儀一は、心の捻じ曲がったロクデナシだった。日がな一日飲んだくれては私や母に手を上げ、耐えかねた母は七年前に家を出ていった。長年の不摂生が祟ったのか、父は三年前にぽっくりと逝ってしまった。そんな男が元精神科医だったとは……父の書斎から患者のカルテが見つかったいまでも俄かには信じられない。

 ただ、彼が人体実験をしていた件に関しては、私は不思議と腑に落ちてしまうのだ。父なら……あの人を人とも思わない冷酷非道な人間なら、何食わぬ顔でやってのけたであろう、と妙に納得がゆくのである』

 崇仁も柊吾と同様、父親を芳しく思っていなかった。

『父は精神病患者で、私の幻覚もその症状の一つだと考えていた。しかし父は精神科医……患者を治療する側だった。ならば、あの白い服の男は何者なのか。これを書いているまさにこの瞬間も私を凝視し続けるあの男は、私の幻覚でなければ、一体何だというのだ。私は心の底から怖くなった』

 その文字が僅かに震えているのが分かる。崇仁に芽生えた恐怖が紙づたいに伝播したかのように、手記を握る柊吾の手も微かに震えた。

『私は白い服の男を、次第に〝本物〟だと考えるようになった。確かに実在するが、私にしか見えない存在。そう考えたとき、ある疑問が頭をもたげた。なぜ彼は私に付き纏うのか、何が目的なのか。誰かに恨まれる覚えなど全くない。では父ならどうだろうか。人倫にもとる人体実験を行ったあの男になら、恨まれるに足る理由がある』

 実験の犠牲者となった患者の誰かが加害者である父と、その息子である自分を呪ったのではないか。崇仁はそう考えるようになった。

『あの白い服も患者衣だと考えれば得心がゆく』

 柊吾も確信した。これは精神疾患などではなく、やはり遺伝なのだと。ただし遺伝していたのは霊感ではなく、霊そのもの――。恨みを募らせた同一の霊が榊原家に代々取り憑いているのだ。

 次の頁には、実験の被験者のものと思しき四枚のカルテが挟まっていた。

『この四人のうちの誰かが榊原家を呪っているに違いない。一体誰だ。誰があの白い服の男なのだ』

 立津たてつ敬之けいし江熊えぐまきよし古茶こちゃ波留夫はるお泰道和虎たいどうかずとら——。柊吾はカルテの顔写真を穴が空くほど見凝めるが、どれだけ見たところで白服の男か否かは一向に見分けられなかった。

 ……ぎぃ……ぎぎぃ……。

 その音に柊吾はハッとした。歯軋りの音だ。答えに届きそうで届かない歯痒さと焦燥感からか、彼は無意識のうちに歯軋りをしていたのだ。あれほど忌み嫌っていた父と同じ癖が出るとは……やはり血は争えないのだな、と彼は苦笑を漏らす。

 手記の次頁には〝悪魔〟の息子に生まれついた崇仁の、 遣り場のない苦悩と恐怖がありありと綴られていた。

『一体全体、父は彼に何をしたというのか。何が末代まで祟るほどの深い恨みを生んでしまったのか。しかし、それが如何ほどの恨みであろうと、子孫は先祖の咎まで背負わねばならぬ道理はなかろう。嗚呼、恐ろしい、恐ろしい。これは呪咀のろいだ。榊原一族に罹った呪咀なのだ』

 遺伝と呪いは似ている。柊吾はふとそう思った。恵まれたそれは祝福になり得るが、そうでなければ遺伝は呪いとなってその者の人生を蝕み続けるだろう。善かれ悪しかれ自身の在り方をどうしようもなく決定づける。我々の肉体は、ともすると思考や精神さえも血脈という呪縛からは決して逃れられない。遺伝とは、世代を跨いで継承される「血の呪い」なのだ。

 人には無限の選択肢があると云うが、現実は違う。己の目が届く範囲の数え切れる程度の選択肢から選ばされているに過ぎない。生まれる前からすでに在ったもの――社会、文化、道徳、宗教、言語……伝統や家族もそうだ――目に見えないひどく漠としたそれらが無意識裡に思考を制御しているとも知らず、人はそれを自発的に選び取ったと錯覚する。

『では、どうすれば解放される? 父ならうに死んでいる。私はどうすれば赦される? 父の罪は父ひとりのものだ、私が代償を払う謂れなどないはず。その余りの不条理に私はムカムカと腹立たしさが込み上げた』

 彼の悲嘆は次第に怒りへと変貌し、やがて同じ立場にいる柊吾にも似寄った感情が伝染うつる。それは自身の父、巌三への怒気が綯交ないまぜとなったもので、その矛先は実験の犠牲者ではなく曾祖父に向けられていた。怨嗟と罪科の連鎖を生んだ源泉は、やはり榊貞雄なのだ。

 ヒトは生殖という循環する自己複製システムから生を授かる以上、過去から、歴史から、そして血からは決して逃れられない。過去の亡霊は背後に付き纏って離れてはくれないのだ。だからこそ、人は禍根を後世に残すような悪業をなすべきではない、と柊吾は考える。

『どうやら私に残された時間は長くないようだ。白い服の男がゆっくりと私に近づいてきている。あれに捕まればただでは済むまい。父もこうして呪咀に取り殺されたのだろうか……ならば次は私の番だ。しかし、ただ手をこまねいて死を待つ気など毛頭ない。とことん抵抗してやろうではないか』

 そう崇仁が腹を据えるのも至極当然のことで、彼の妻は柊吾の父、巌三を身籠っていたのだ。

『何としてでもこの忌まわしい連鎖を断ち切らねばならぬ。この負の遺産を後世に残さないためにも。生まれてくる我が子のためにも。私の代で断ち切らねばならぬのだ』

 ぐんぐんと加速度的に近づいてくる白服の男を前に、彼はなおも筆を走らせた。

『もう少し。あとほんの数歩で顔が見えそうだ。さあ、来るがいい。お前の正体を拝んでやろうではないか』

 美しく整っていた字形が次第に崩れ始めた。

『知っている。あの顔、あの悍ましい顔を、私は知っているぞ』

 その筆致にこれまでになかった荒々しい勢いが乗る。そこから彼の動揺が否応なく伝わり、自ずと手記を握る柊吾の手にも力が入った。

『ああ神よ、なんてことだ。そういうことだったのか』

 もはや殴り書きである。

『恐ろしい、なんて恐ろしい。あれは――』

 そこで文字はぐにゃあと大きく歪み、以降は全くもって判別不能となってしまった。

 手記はその頁を最後に途切れる。彼は何を目撃したのか――柊吾は気が気でなくなったが、捲れども捲れども、白紙。

 崇仁の享年は四十九。短い生涯だが、手記の日付よりはずっと先だ。この直後に死んだわけではない。あるいは、すべて祖父の妄想だったのかもしれない。いや、きっとそうだ、彼は正気に戻ったのだ。柊吾は楽観的に考えようと必死だった。

 しかし彼は気が付く。祖父の儀一は五十一、父の巌三は五十二――榊原家は三代続いて五十前後で亡くなっている事実に。

(若い……若すぎる。何かしらの病でなければ、やはり呪いが原因なのだろうか)

 父も呪いで若くして死ぬと知っていたのでは? 彼の度を越えた教育熱心は、自分が死ぬ前に息子を自立させるためだとしたら? そう考え始めた柊吾は、父を疎ましく思っていた自分を恥じ入った。

 彼らを襲った災厄はいずれ自分の身にも降りかかるかもしれない。呪いを解く方法はないものかと家中を探し回り、またもや古びた一冊の本を発見した。今度は先の二冊とは趣が異なる。

 その〈霊性遺伝実験録〉と題された書物は、どうやら榊原儀一、もとい榊貞雄の研究成果を纏めた実験ノートのようだ。

 その序文には、実験の目的がこう明記されていた。

『ヒトはなぜ精神を病んでしまうのか。何がヒトを狂わせるのか。われわれの実験はそうした疑問を解消する目的のもとに始まった』

 どうやら〈臺実験〉は、純粋に精神疾患の治療を目的にスタートした実験らしい。ところが、研究の過程で偶発的にある事実――曰く『人類の体軀からだに隠された世にも恐ろしい秘密』――を発見し、実験の趣旨はがらりと変貌してしまったという。


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