Mater of pupetts

 MASTER OF PUPPETS



 前崎町、バス横転現場のすぐそば。工事途中で放棄された、廃ビル。コンクリートむき出しの、人の気配の感じられそうにもない空間。

「あーあ、やられちゃったかあ」

 だがそこに、一人の人物がいた。腹部を出したタンクトップに、デニム生地のホットパンツ、黒いレザーのロングブーツ。さらに初夏にも関わらず、黒いトレンチコートを着込んだ、女性。奇抜な服装と鮮やかなエメラルドグリーンに染められた髪は灰色一色のこの空間において、一際異質に見えた。

「いやあ、しかしおもしろくなってきたじゃない。ただの人間の小娘一匹、なんであたしがわざわざ出向かなきゃなんないのか、正直イラッとしてたんだけどねぇ」

 にやにやと笑みを浮かべながら一人ごちる女性の懐から、不意に音楽がなる。携帯電話の着信のようだ。相手の名の表示を見て、女性の笑みが嫌らしく深まる。

「ああ、こちらジルだ。こないだは文句言って悪かったわね。今度の仕事、使いっ走りなんかじゃなかったよ。なかなか相手してて楽しそうだわ、あの二人」

「楽しい、か。楽しむのはいいが、これは仕事だ。完遂してくれなければ困る」

 電話の相手が低い声で囁くように言う。

「そうかい? あたしは仕事は楽しんでやるものだと思ってるけどねえ」

「お前はそうだろうな。お前にとって、手段は手段であると同時に、目的なのだからな、ジル・ザ・リッパー」

 名前を呼ばれ、女性――――ジル・ザ・リッパーはくすくすと声をもらした。

「そりゃそうさ。あたしは楽しいからやってるんだ。そして、もっともっと楽しむためにね。それに――――」

 いったん言葉を切ったジルが、懐に手をやる。再び現れたその手には、刃渡り20センチほどの短刀が握られている。それはその周囲の闇よりもなお黒く、そして暗く、禍々しく闇を纏っている。

「これは勝負じゃない。狩りさ。獲物に逃げられちまったら、楽しくない。そうだろう?」

「心配する必要は、ないんだな?」

「これ以上、言わせる気かい?」

 ジルの顔に浮かんでいた笑みに、不意にかすかな怒気が混じる。

「いや。確実性が欲しいだけだ」

 その怒気に気圧された様子もなく、電話の相手は冷徹に言い放った。

「なんにせよ、事は急いでもらいたい。教会もすでに動き始めている。奴らに先を越されるとやっかいだ」

「ちっ。わかったわよ」

 舌打ちをしながら、ジルは電話を切る。

「相変わらず食えない奴だわ。せっかく久しぶりに楽しめそうだってのに、無粋ったらありゃしない」

 携帯を懐にしまい、文句を言う。

「まあいいさ。宴はまだ始まったばかりだからね。オードブルもまだ食い終わっちゃいないんだ。せいぜいメインディッシュを楽しみにしておくさ」

 舌なめずりするかのように短刀を舐めながら、ジルは再び目を細めて笑った。


「翔さーん、まだぁ?」

 翌朝。午前七時。翔悟の事務所前にて。紅香はすでに出かける準備万端でそこにいた。

 紅いフードつきの半袖パーカーに、黄色いミニスカートとスパッツ。脚には編み上げのブーツと、活発な女の子全開である。

「そう急かすなよ……。こっちゃあ、昨夜寝ずの番でへろへろなんだぞ……」

 対する翔悟は普段と同じ、黒いシャツに黒いハット姿だが、服もズボンもしわだらけでよれよれだ。その中身である人間も、目の下にくっきりとクマができ、ぐったりと事務所の入り口に寄りかかっている。

「うわ、たばこくさっ」

「ほっとけ……」

 鼻を押さえながら翔悟を見る紅香の目が、ふときょろきょろと泳いだ。

「あれ? あの子は?」

「あの子? ああ、雪ちゃんか」

 翔悟が入り口を開けると、白い子猫が飛び出し、彼の肩に飛び乗った。

「ここだ、ここ」

 その白猫を、翔悟が指差す。

「へっ?」

「昨日は人間のかっこしてたが、雪ちゃんは元々、猫の式神なんだよ。普段はあまり力を使わない、こっちの姿をしてんだ」

 彼のそのセリフに答えるように、その白い子猫――――雪乃がにゃ、と短く鳴いた。

「そっちこそ、静馬はどうした? あんまり離れると良くないぞ」

「ああ、それなら……」

「呼んだ?」

 突然、翔悟の傍らの壁の中から、上半身だけの静馬がひょっこりと姿をのぞかせた。

「どわっ!」

「あれ、ごめん。驚いた?」

 悪びれもせず、静馬はにっこりと笑う。

「驚くわ! お前、今霊体なんだぞ! 幽霊が壁から出てきたら驚くに決まってるだろ!」

「いや、久しぶりに現世に戻ってきたら、壁をすり抜けられるからおもしろくて」

「なんかさ、頭痛くなるよね……」

 ため息をついて、紅香は一人ごちる。

「で、翔さん。奴らを探すんでしょ? どこをどうやって探すの?」

「ああ、それなら……雪ちゃん、いつもの奴、頼むわ」

 そう言うと、翔悟はポケットサイズの地図帳を雪乃の前に広げて見せた。

 雪乃がその地図帳に鼻先をつっこむように覗き込む。それにつられるようにして、紅香と静馬も地図を見る。

 雪乃はしばらくの間、じっと地図を見つめていたが、やがて三つの点を指した。

「前崎駅周辺に、駅西側の商業地区、北側の工業地区か……」

「……なにが?」

 一人理解した顔の翔悟に、紅香が頬を膨らませる。

「ここらで式神やら霊やら、そういったものの気配が濃い場所さ。向こうさんが人だか人外だかわからんが、そうした気配の濃いところにいる可能性が高い」

「……ちょっと待って。式神だの霊だの、そんなにやたらめったらいるわけ?」

「いるじゃない、ここに二人」

 信じがたい、という紅香の表情に、静馬が自分と雪乃を指差して見せる。

「いや、それはそうだけどさ……」

「まあ、紅香が疑問に思うのはもっともだな。だがな、この世界にゃ、人の知れないものってのは案外そばにあるもんだぜ。そこらにある神社だって、場所によっちゃ、ちゃんと神様がいるところだってあるんだ」

 真顔で翔悟に言われると、正直信じざるを得ない。そもそも、自分の中にも邪神がいるのだ。どちらかといえばそちらの方が信じがたい事態だろう。

「はあ、なんかもう驚かなくなってきたよ。とにかく、その気配が濃いって所を探せばいいんでしょ」

「そういうこった。雪ちゃん、この中で一番臭いのはどこだ?」

「にゃ」

 翔悟の問いに、雪乃が再び短く鳴きながら、工業地区を指す。

「ここか……ここから一番遠いとこだな。車出すか」

 翔悟がガレージを開け、古い型の軽自動車に乗り込む。それと同時に、雪乃がひょいと助手席に飛び乗った。

「さあ、二人も乗ってくれ」

 促されて、紅香は後部座席に乗り込む。静馬も後ろからふわりと続く。壁すりぬけは、意図的にしたりしなかったりを切り替えられるのか、普通に隣に座っている。

「よし、出発するぞ」

 エンジン音を響かせて、車が出発する。

「そういえば、街の北側に行くのっていつぶりだろ。あの辺ってほとんど工場ばっかりだから、ほとんど行ったことないや」

「ま、学生にはほとんど縁のない地域だからな。学校もないし、遊ぶような施設は大方、駅辺りに集中してるしな」

「翔さんはよく行くの?」

 紅香の問いに、翔悟はにわかに渋い顔になる。

「あの辺りは結構、色々とあってな。この街の北には山があるだろ? で、例の工場地帯はその山を削って作られた場所だ。本来、あの山がこの街の北の守りを担っていたんだ」

「鬼門だね。僕もこうなる時に通ったよ」

 静馬の表情も重い。確かに自分が死んだ時の話では、楽しい話題ではないだろう。

「鬼門?」

 一人目が点になる紅香に、翔悟が横目で視線を送る。

「陰陽道で、鬼が出入りすると言われてる方角のことだ。陰陽道においては北と西が陰、南と東が陽を、それぞれ現しているとされる。んだもんで、北東は陰と陽の境界線になり、双方のバランスが不安定になるんだ。それが通常の鬼門だ」

「つ、つまり……なんか危ない場所ってこと?」

 ますます顔中に疑問符が浮かんでいく紅香に、翔悟がうなずく。

「まあ、そういう認識でいい。だがこの街の場合、北の山を削っちまったせいで、鬼門の気がその工業地区に流れ込んじまってるんだ」

「そういえば、学校で一時期、あの辺りが心霊スポットだとかで有名になってたっけ」

「それもあながち嘘じゃないってわけさ。そういう場所なら、なんらかのタイミングで波長があっちまう人間もいる」

「わかったような、わからないような……んぐ……?」

 不意に、紅香が嗚咽と共に体を折った。

「どうした?」

「……気持ち悪い」

 絞り出すように紅香が言う。先ほどまで普段どおりだったのに、突然胃液が逆流するような不快感が体を襲う。と同時に、鈍器で殴られたような痛みが頭を駆けた。それらは相乗効果を以って、紅香の苦痛を増大させた。

「車に酔ったか?」

「違う、と思う……。体中痛いし、気持ち悪い……」

「翔悟さん!」

 いつもとは正反対の鋭い声で、静馬が叫んだ。言葉に出ずとも、その心に焦燥が浮かんでいるのは誰にとっても明らかだった。

「急いで! 早く工場地帯へ行かないとまずいことになる!」

「……みんな捕まってろ! 飛ばすぞ!」

 静馬の焦燥が声から伝わったか、翔悟がアクセルを踏み込む。

 体を折ったまま、顔を上げることができない紅香の意識は、タイヤが軋みをあげる音ともに、急激に遠ざかっていった。


「紅香……紅香っ!」

「うっ……ん……」

 静馬の声が聞こえる。頭もまぶたもひどく重い。まるで脳が石にでもなってしまったかのようだ。その重いまぶたを押し上げるようにして、ようやく目を開く。

「こ、ここは……?」

「気がついたかい? 紅香」

 紅香が辺りを見回すと、そこは見慣れた場所だった。

「学校の……教室? どういうこと?」

 そこは紅香が通う霧ヶ丘高校の教室だった。その自分のいつもの机に、紅香は突っ伏していた。

「僕にもわからない。車の中で紅香が気を失ってから、僕も気がついたらここにいたんだ」

 紅香は再び辺りを見回す。確かにここは自分の教室だが、どこか様子がおかしい。人の姿がないのは休日だからいいとしても……どこか、空気が普段とは異質だ。肌にねっとりとまとわりつくような、奇妙な不快感がある。

「なんだか空気が気持ち悪い。雨の日の満員電車みたい」

「うん。恐らくこれは、本当の学校じゃない。……敵が、何か仕掛けてきたと見た方がいいだろうね。なんとかして、ここから脱出を……」

「好都合じゃない!」

 腕組みしながら考え込んでいた静馬の言葉をさえぎって、紅香がばんっと机を叩いた。

「昨日、翔さんが言ってたけど、大規模な異変は遠くからじゃ起こせないんでしょ? だったら、もしかしたら探してた奴が近くにいるかもしれない! とっとと見つけ出して、ぶっとばすわよ!」

 静馬はしばらくの間、ぽかんと紅香の顔を見つめていたが、少し微笑んで一つ息をついた。

「……わかったよ。攻めよう。……やれやれ、君のそういうところ、僕は忘れかけてたみたいだ」

「そう、バスケとおんなじ。攻めなきゃ点取れない!」

 紅香がぐっと両手に握りこぶしを作ると、その腕が紅く輝いた。まばゆいその光が収まった頃には、その両腕は赤く染まったぼろぼろの布に覆われていた。普段は栗色のその髪は真紅に変わり、瞳は鋭い紅い色を帯びる。

「行くわよ!」

 気合の声とともに駆け出そうとした、その矢先。

 ぎぃぃぃぃぃん……ぼおおぉぉぉぉん……。

 突然、歪んだ音が響いた。

「なに、この音? チャイム?」

「いや……校内放送みたいだ」

 静馬の声に、紅香も耳を澄ます。確かに、歪んだ音に紛れて放送のノイズが聞こえる。

「……あー、あー……ただいまマイクのテスト中でーす」

 刹那、校内放送から声が流れた。どこか人を馬鹿にしているような含みを持った、緊張感のない女性の声だった。

「えー、2年B組、あたしの獲物さん、大至急、屋上まで来るように。あんたらを切り刻みたくてうずうずしてまーす」

「なによ、この声?」

「邪神の力で蘇るような悪い子は、人生から退学でーす。大大大至急、屋上まで来るようにー」

「……どうやら僕たちをここに連れてきた張本人が、屋上で待ってるみたいだね」

 静馬の瞳が、にわかに剣呑な色を帯びる。

「ただし、屋上に来るまでは色々と素敵な仕掛けが用意してあるので、そんなところで退学になって、あたしをがっかりさせないように。それじゃ、せいぜいがんばってくださーい。くくくくくくッ……」

「なに、このふざけた放送! 誰が獲物さんよ!」

「紅香、落ち着いて」

 すっかり頭に血が上っている紅香を、どうどうと静馬が抑える。

 その時、再び放送が響く。

「あーあー、一つ言うのを忘れてましたが、その教室にも早速、仕掛けちゃってありまーす。気をつけてくださーい。くくくッ……」

 瞬間。

 廊下側のドアと窓ガラスが、轟音とともに砕け散った。

 とっさに紅香は両腕で顔を庇う。刹那、交差したその両腕の間から、それが見えた。

「……あれだ!」

 見えたのは、白い刃。

「み、みみ、み……」

 片腕が刃と化した、人間だった。

「紅香、三人いる」

 端的に、静馬が言う。

 目の動きだけで、紅香はすばやく周囲を見る。確かに静馬の言うとおり、教室の前入り口側に一体。机をはさんで目の前に一体。右手側、すぐ手の届きそうな位置に一体。

 右手側の一体が声もなく刃を振り上げる。

 反射的に紅香は両腕で刃を止める。

「みいいいいぃぃぃぃっ!」

 その耳に、左から雄たけびが届く。机の向こうにいた奴だ。

 そちらを見ないまま、紅香は机を渾身の力で蹴り飛ばした。

「みぎゃぁっ!」

 机の向こうから悲鳴が聞こえたのを確認し、紅香は押さえていた刃を強引に差し戻した。

 強力な腕力で押し込まれ、目の前の異形が大きく体勢を崩す。

「こん……のっ!」

 そしてそのがら空きになった顔面に、大きく振りかぶって右ストレートをぶちかました。

 ばんっ、と火薬の爆発のような音が響き、血を噴き出しながら目の前の異形が倒れこむ。すでに、痙攣もしていない。

「みぎいぃっ!」

 刹那、背後から声が響く。

「やばっ、もう一体……」

 振り返った紅香の目に入ったのは、振り上げられた、刃。

 だが、それは振り下ろされることはなかった。

「紅香、背後が甘いのも、バスケとおんなじだね」

 静馬が怪物の腕をつかみあげ、押さえていた。

 微笑む静馬に、紅香もにっと笑って返す。

「それを、あんたがフォローするのもね」

 そう言って、紅香は残りの異形の腹に拳を叩き込んだ。

「……ふう、やるじゃん、私」

「ゴリラがチンパンジーをボコボコにしてる、って感じだったよ」

 天然なのか、やはり悪びれずに微笑んだまま、静馬が言う。

「その例え、今度使ったらあんたをボコボコにする」

 少々緊張が解けたのか、軽口を言い合う二人だったが、すぐにその顔は再び引き締まる。

「さて、それよりも先に……こんなふざけたことを仕掛けてきたサイコ野郎を、ボコボコにしないとね!」


「ヒュー! 大したもんだわ、あいつら。あたしのしもべ三体相手に、指先一本触れさせないたァね! あの瞬殺ぶり! いいねえ、シビれるねえ! まかり間違って惚れちまいそうだよ!」

 虚実の学校……その放送室で、ジル・エンジェルリッパーは楽しそうに、そして狂ったように、笑った。その細めた目は、教室に仕掛けたカメラからの映像を見ていた。

 もちろん、それは本物の教室には有りはしない。ジルが教室を模したこの空間に、自分の力で出現させたものだ。

「しっかし……おもしろい力を使うもんだ。まずはあのメスガキ……」

 ニヤニヤ笑いを崩さないまま、ジルはカメラからの映像を回想する。

 紅く染まった両腕、瞳、髪。人間の限界を越えた膂力はもちろんだが、あの立ち回り――――。その反応速度も人間のそれを越えていた。

「……目、か。動体視力も邪神の力の影響を受けてんだな。紅く染まった部分が主に強化されているってこと……かねぇ。いいねぇ……実にいいねぇ。その瞳を絶望一色に染めてやったら、どんな顔をするのか、考えただけでよだれが出そうだ」

 歯を見せて笑うジルは、笑顔という表情のみですら猟奇的であると言っても過言ではない。翔悟に『殺人鬼』と言わしめるにふさわしい姿が、そこにあった。

「紅い腕は単純に腕力、同じく紅い目は動体視力。……紅い髪ってのも、なにか力がありそうだな」

 カメラの映像を撒き戻し、その中の少女の動きを凝視する。

「頭が良くなってる……とかじゃねーよな。立ち回り方はともかく、攻撃自体はゴリラが暴れているみてーな感じだし……。むしろ馬鹿っぽいな」

 おもいっきり右腕を振りかぶり、己のしもべを殴り飛ばす画面の中の少女を見て、図らずもジルは静馬と同じ感想を漏らす。

「……まあ、いいさね。直接やりあえばわかるってもんさ。……それよりも」

 ジルの剣呑な瞳が、少女の側に立つ少年の姿に移る。

「マジに正体不明なのはこいつの方だな。こいつ……霊体のくせに、あたしの……実体のあるしもべを手でつかんで止めやがった。念やらで攻撃を止める霊体ならわかるが……体もないってのに物理的に止めるってどういうこった?」

 数秒、思考を巡らせるジルだが、すぐにフンと鼻を鳴らす。

「どうでもいいか。どうせすぐに、バラバラ死体になってもらうんだ。それに……手品のタネは、分からないほうが楽しめそうだ」

 椅子にかけていたコートを羽織り、ジルはゆっくりと立ち上がる。

「ククククク……早く来いよ、邪神の宿ったクソガキども。あたしは、あんたたちを引き裂くのが恋しくて恋しくてたまらない。切り裂き魔であるはずのあたしのほうが、心臓が高鳴って引き裂かれちまいそうだよ!」

 まるで舞台俳優よろしく、芝居がかった素振りで両手を広げ、切り裂き魔、ジル・エンジェルリッパーは、壮絶に笑った。


「翔様、まだ着かないのですか!」

 人間の姿になった雪乃が、握りこぶしを作って叫ぶ。

 紅香が意識を失ってすでに数分――――。翔悟は制限速度をぶっちぎりで車を飛ばしていた。

「急かすな雪ちゃん! 早くても後、十分はかかっちまう!」

 叫び返す翔悟の手は、じっとりと汗で濡れている。

「くそっ、静馬も消えちまうし、一体どうなってんだ!」

「鬼門ですよ……翔様。恐らく相手は、この街の歪んだ鬼門の流れの一部を取り込んで、己のイメージ空間を作り出し、二人の精神をそこに呼び寄せたのです」

「マジか……高度なんてレベルの術式じゃないぞ。野郎、いつから準備してたんだ?」

 黄色信号を豪快に突っ切った翔悟が呻く。さらにアクセルを踏み込もうとした時、その視線の先に、信号の赤い光が映る。さらに悪いことに、信号待ちの車の列が長い列を作っていた。

「そういや通勤の時間か! 雪ちゃん、目ぇつぶってろ!」

「え?」

 雪乃が一瞬青い顔をした刹那、タイヤが摩擦で悲鳴をあげる。急ハンドルを切った翔悟の車は90度近い鋭角を描いて、裏道へと滑り込んだ。後部座席で意識を失ったままの紅香が派手な音をたててずり落ちる。

「今……今、死ぬ覚悟したでしゅ……」

「安心しろ、俺もだ」

 ショックのあまり語尾を噛む雪乃に、翔悟は冷や汗を流しながらも、不敵に笑う。

「それより、静馬が言った通りに、このまま工業地区へ向かっていいのか? 二人は奴のイメージの世界にいるんだろ? そこから手出しできるか?」

「……い、イメージの世界……とは言え、鬼門の一部であることは間違いありません。それを流用している以上、完全に遮断された世界ではありません。鬼門を開けば、その世界へも通じるはずです……うぇ」

 急カーブと速度大幅超過のGで目を白黒させながらも、適確に雪乃が答える。

「なるほどな、鬼門が流れ込んでる場所からなら、こちらからでもその世界につなげられるってわけか。そんなら、着いちまいさえすれば、いつもとやることは大して変わらないってわけだ!」

 先が見えたとばかりに、翔悟が笑う。

「……問題は」

「な、なにか……?」

 嫌な予感に再び顔を青ざめる雪乃が、不安顔でつばを飲み込んだ。

「もしもこれで追いつかれたら、一発で免停間違いなしってことだな!」

 もはや声も出ない雪乃がそっと後ろを窺うと……100mほど後方をこちらに向かって走る、赤いサイレンに、白と黒のツートンカラーの車があった。

「ひゃ……!」

「おし、もういっちょ!」

 再びタイヤが大きく軋む音が響く。翔悟の軽自動車がぎりぎり通れる路地に滑り込み、パトカーを煙に撒くかのように、排煙を吐きながら駆け抜けて行った。


 教室を飛び出した紅香と静馬は、長い廊下を駆けていた。

 その行く手をさえぎろうと現れる怪物を、パンチの2発で吹き飛ばすと、足を止めることなくその上を駆け抜ける。

 さらに突然、天井から現れた2体の怪物も右腕の一薙ぎで撃退する。

「私、強っ! バスケ部、引退しちゃったし、空手でも始めてみようかな」

 ご機嫌で笑う紅香に、静馬は相変わらず後ろで微笑んでいる。

「プロレスなら、すぐにでもプロデビューできるんじゃない?」

「なんでプロレスなのよ!」

 と、先ほど倒したうちの一体がよろよろと起き上がり、刃を振り下ろした。

 反射的に紅香は左腕で刃を受け止める。次の瞬間には、強引に一歩踏み出しながら刃を振り払う。敵との距離が密着しところで、両腕相手を持ち上げ――――。

「だりゃあああああああっ!」

 逆さまに地面にたたきつけた。

「……やっぱり、プロレスのが向いてるよ」

「うぐ……」

 ごく自然に、プロレスで言うところのパワーボムを決めていた紅香は、後ろで無邪気に微笑む静馬に、返す言葉を失う。

「……あ、あー。このドアは、何かな?」

 完全に棒読みでごまかしながら、紅香が教室のドアを開ける。

「んん? なにこれ?」

 その途端、真っ先に疑問の声を上げた。

 そこにあったのは、大きな白い机が立ち並び、リノリウムの床が広がる部屋――――理科室だった。

「なんでこんなところに理科室があるの?」

 紅香の記憶では、理科室は一階だったはずだ。さきほど2年の教室を出てから階段を使った覚えはないので、ここは2階のはずなのだが。

「イメージの世界だからね。なんでもあり、ってことじゃないかな」

 紅香の後ろからふわふわと理科室に入った静馬が言う。

「なんでもあり……か。なにかありそうね」

 という言葉とは裏腹に、紅香はずんずんと室内を進んでいく。

「……紅香、ちょっと待って」

 その時、静馬の声が不意に、緊張感を帯びた。

「……なにか、来る」

「えっ?」

 紅香も耳をすますが、何も聞こえない。

「何も聞こえないよ?」

「いや……違う。この空間内にいるものじゃない。どこかから、ここに空間をつなげようとしてる」

 刹那、宙が突然歪んだ。その空間の歪曲とともに、閃光が室内を包んだ。

 紅香が身構え、静馬が光を凝視した。

 だが、光が消えたその時。

「……紅香、静間、無事ですか!」

「ゆ、雪ちゃん?」

 現れたのは、雪乃だった。

「どうやってここに?」

「詳しい話は後にしましょう。とにかくまずは脱出を……」

「まったぁ!」

 大声をあげながら、紅香は雪乃の目の前に手を広げて見せた。

「どっちにしたって、戦う相手なんでしょ! だったら、今日とっとと決着つけてやろうじゃない!」

「な……だめですよ! ここは相手の世界なのですよ。なにが起こるかわかりませんから! まずは脱出するべきです!」

 鼻息荒く迫る紅香に引きながら、雪乃が携帯を取り出す。

「翔様、合流できました……ちょっ、紅香さん首根っこつかまないでー」

『……なにやってんだ?』

 電話の向こうから、困惑半分、あきれ半分といった感じの翔悟の声がする。

「翔さん、私、あいつぶっ倒すまで帰らないよっ!」

 雪乃から携帯を強奪した紅香が、電話に向かって絶叫した。

『……っ! なにが、なんだって? 順を追って説明してくれ』

 絶叫に悶絶したらしい翔悟がやっとという感じで声を出す。

 このまま決着をつけようと紅香が説明すると、翔悟が呻く。

『実はだな、雪乃をそっちに送った途端、そちらとの接続が切られちまった。かろうじて電話は通じてるが……どっちにしろ、こうなった以上、やるしかない。電話はつないだままにしといてくれ。なにかしらアドバイスができるかもしれん』

「うん、わかった」

 翔悟からの指示を聞いて、紅香はやっと携帯を雪乃に返した。

「もう! めちゃくちゃしないでください! 猫づかみは絶対禁止です!」

「あははは……ごめんごめん」

 朗らかに笑う紅香に、雪乃がじっとりとした視線を送る。

「ところで雪乃。奴の居場所が分からないかな? 地図で気配を読めた君なら、分かるんじゃない?」

 その雪乃に聞いたのは、静馬だった。

「はい。恐らくはできると思います。……向こうも隠す気はないようですから」

 不意にまじめな顔に戻った雪乃がうなずく。

「え? そんなことしなくても、屋上に行けばいいんじゃない? 放送で『屋上で待ってる』って言ってたんだから」

「素直にそれを信じるのは危険ですよ、紅香」

「それに、この理科室も本来の場所とは違う場所にあったんだ。屋上もまともに上にあるとも限らない」

 二人に同時につっこまれて、紅香が頬を膨らませる。

「では、気配を探ります」

 そう言うと、雪乃は目を閉じ、集中し始めた。

「ここから……校庭へ出られるようです。そこから非常階段へ向かいましょう。それを上って行けば、屋上へ出られます。ただし、階段の空間に歪曲が見られます。なにかしら、仕掛けてあると見て間違いないでしょう」

「上等! 突破してやろうじゃないの!」

 言うが早いか、紅香は窓を破って外へ飛び出す。

「普通に開けていけばいいのに」

 のんきに頭を掻きながら後に続く静馬に、紅香はにっと笑って見せる。

「いいのいいの、異空間なんだから。一度やってみたかったんだー、アクション映画でよくやってるこれ!」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよぉ、もう!」

 さらにあわてて雪乃が続く。

 校庭は普段の様子とあまり変わった所はない。空が不吉な真っ赤な色に染まっている以外は。

「ここでも襲ってくるかと思ったけど、なにもいないね」

「見通しがいいですからね。奇襲には向きませんです。来るとすれば……」

 雪乃がちらりと視線を送った先は、校舎の端にある非常階段。

「逃げ場のない非常階段……か」

 三人はそれぞれ視線をかわすと、慎重に階段を上っていく。

「さて……上から来るか、下から来るか……。静馬、後ろ見ててよ」

「はいはい、りょーかい」

 一階、二階を上りきるが、敵の襲来はない。この学校の校舎は三階までだ。

 刹那、雪乃がぴくりと動いた。

「なにか来ます!」

「上!? 下!? どっち!?」

「下、です!」

 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、轟音が響いた。それとともに、先ほどまで上ってきた階段が突然吹き飛ぶ。コンクリートのかけらが舞い飛び、その砂塵の向こうからあの怪物が姿を現す。

「このっ!」

 三人のうちで一番早く反応した紅香が腕を振り下ろす。強烈な一撃が階段下へ吹き飛ばす。

 と、その轟音に紛れ、階段の縁に突然降り注いだ人間の腕が取り付く。まるで蜘蛛が這い上るようにして、同じ怪物が縁の上に現れる。

 その刃のすぐ側には、雪乃。

「みぎゃああっ!」

 怪物が刃を振り上げ咆哮する。

 その声でようやく紅香と静馬が振り返った。

「雪ちゃん!」

 雪乃は反応しない。ただ――――その瞳孔が、くっ、と猫のように細まった。

「氷の楔よ……」

 雪乃は最後まで動かなかった。ただ腕を交差させ、手のひらを背後の怪物に向けていた。

「ぎ……ぎ……」

 そして、怪物ももう動かなかった。いや、もう、動けなかった。その首には、雪乃の手から放たれた、氷柱のような氷が突き刺さっていた。

「貫けっ!」

 鋭く叫ぶ雪乃の声に呼応し、氷が怪物の首を貫きながら槍のように変化した。

 ゆっくりと、怪物は階段の縁から落ちていく。

「努々、忘るるな……。我は齢700年の妖猫。傀儡ごときがいかに奸計を巡らそうと、斃すことなど叶わぬ」

 普段の雪乃とはまるで違う、その名のごとく雪のような冷たさと美しさをその声にたたえ、雪乃が言った。

 ぽかんとする紅香と静馬。

「……あ」

 しばらくの沈黙の後、雪乃がはっと普段の顔に戻った。

「つ、つい本気で……あ、しょ、翔様には内緒でお願いしますですっ。本気出すなって言われてるんですっ。危ないからっ」

「あ、うん……わかった」

 未だ呆然としたまま、紅香がかくかくとうなづく。

「ほ、ほらっ、行きますよっ」

 とてとてと階段を上り、振り返って雪乃が飛び跳ねる。

「……紅香以上に、雪乃は怒らせないようにしよう……」

 女子二人に聞こえないように、静馬がこっそりとつぶやいた。


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