The beginning

THE BIGINNING



 その日、火ノ宮紅香は、普段下校に使っている電車よりもかなり遅くなってから、自宅の最寄り駅のホームへと降りた。

 時刻は午後九時半だが、この地域のターミナルとなっているこの駅では、終点ということもあって人通りはまだ多い。

 とはいえ、帰宅ラッシュの時間もかなり過ぎており、周囲はスーツ姿のサラリーマンが中心で、紅香のような制服の学生は少なかった。

 部活の皆と話しこんだせいで、すっかり遅くなってしまった。

 まあ、それも今日で最後だが。大好きだったバスケ部も、今日で退部届けが受理されたのだから。

ふう、と小さく息をつき、紅香はホームを上るエスカレーターへと乗った。

 とにかく、早く家に帰らなければならない。

 エスカレーターを上りきり、紅香は早足でバス停へと向かう。

 途中、やはり部活帰りらしい、男女とすれ違った。次の大会とか、練習などといった楽しげな声が耳をかすめた。

 ほんのまでは、自分たちもあんなふうにこの駅を歩いていたのに。

 ふと、寂しさが心をかすめた。

 ――――夏の大会、あいつと出たかったな。

 ついすれ違った男子に流れそうになった視線を、あわてて引き戻し、断ち切るように頭を振る。

 未練など引きずっている場合ではない。これからは忙しくなるのだ。

 駅からバス停への階段を駆け下りながら、紅香はぐっと奥歯を噛みしめた。

 後ろをあえて振り向かないようにしながら、すでに到着していたバスへと駆け込む。同時に、乗降口のドアが閉まった。ちょうど出発する時刻だったようだ。

 ついいつもの習慣で席を探して視線を泳がせる。が、探すまでもなく、乗客は紅香だけのようだった。

 視界の端に、横目でこちらを一瞥する運転手の姿が見えた。

 それに押されるようにして、あわてて紅香は手近な席についた。

「……発車いたします」

 濁った声で運転手が告げ、すぐにバスが走り出す。

 普段ならば部活の仲間たちとにぎやかに帰っていた紅香は、所在無く、窓から外を見つめる。

 この辺りでは最大の地方都市である、この前崎市の駅前は、この時間はまだにぎやかだ。それでもバスの中に他の乗客の姿がないのは、自家用車が交通の中心であるこの街の特色のせいだろう。

 にぎやかな外と静かなバスの中。その対比は部活に残った友人たちと、やめざるをえなかった自分との比喩のようで、なんだか切なかった。

 そのバスはすでに、駅前を離れ、住宅街へと入り始めていた。乗ってくる乗客もいなければ、もちろん降りる乗客もいない。

 ふと、違和感を覚えた。

 普段の帰り道の景色と違う。いつもならば比較的明るい通りを進んでいくはずのバスが、街頭のひとつもない真っ暗な中を進んでいく。さらに目を凝らしてみると、そこは見たことはあるが、このバスは通らない、人通りのほとんどない裏道だった。

「ちょっと、このバス――――――」

 運転手に声をかけようとしたその刹那。

「きゃ!」

 紅香は短く声をあげた。

 先ほどまで窓の外ばかりを覆っていた闇は、車内をもその手中に収めていた。突如、車内灯が砕け散ったのだ。

「ちょっ、どうなってるのよ!」

 自身の頭上から降り注いだガラスの破片を振り落としながら紅香が毒づく。

 その顔を上げて、更なる違和感に気がついた。

 運転手だ。車内で異変が起きているにもかかわらず、何も動きがない。突然明かりが消えたのだから、何かしら注意などがあってもいいはずだが。

 暗闇の中、紅香は恐る恐る目を凝らした。

 徐々に暗闇に目が慣れてくる。運転手は、ハンドルに手をかけた姿勢のまま、席に座っているようだった。

「……ちょっと、運転手さん……?」

 声をかけるが、反応はない。が、なにかつぶやいているのが聞こえる。

「……み、み、み……」

「え?」

 たしかに、そう聞こえた。

 刹那。

 耳をつんざくほどの大音量でタイヤが軋み、急激に足元が傾く。バランスを崩した紅香がひざをつくよりも早く、視界が狂った。目まぐるしく回転する身体の感覚――――――。それはかつて、幼なじみと行った遊園地のジェットコースターそのものだった。

 悲鳴をあげるよりも早く轟音と衝撃が紅香を襲い、痛みよりも早く感覚の麻痺が身体を支配した。

 気がつくとそこは変わらず、バスの中だった。だが、おかしいのは――――――床も椅子も天井も、横を向いている。横転している。

「なに……? どうしたの?」

 紅香が搾り出すように言った途端、消えていた感覚が戻った。

「づうっ!」

 その感覚は、痛覚。ハンマーで殴られたような鈍痛が右足に噛み付く。ほとんど反射的に痛みの元に視線を送る。そこには、普段とはつま先とかかとが逆を向いた、自分の足があった。

「う、うあああああぁぁぁっ!」

 苦痛に混乱しそうになる精神に、しかし紅香は顔を上げた。

 痛覚の次に戻った聴覚に、それが音を知らせた。

 それは、足音。引きずるような重い足音と、うめくような声。

「み、み、み……」

 暗闇にうっすらと浮かぶその姿は、制帽に制服姿のバスの運転手だった。いや、正確には、だったもの。

 引きずる足はあらぬ方向に曲がり、もう片方の足の枷となっている。制服は赤く血に染まり、どう見ても命に関わるように見えるが、こちらへにじりよる姿は意に介する様子はない。

 なによりも異様なのは、右腕。それは骨なのか、肘から先は刃状の白い奇妙な物体があった。

 普段見ている現実から遥かに逸脱した光景に、紅香は絶句した。

 自分は、きっとバスの中で眠っているだけに違いない。こんなことが現実にあるわけがない。こんなことは、マンガやテレビの中でしかないに決まっている。夢よ、覚めろ、覚めろ……。

 必死に祈ってみても、引きずる足音とそれがつぶやく奇妙な声が、現実へと押し戻す。

 やがてその足が目の前に迫った時、ようやくもう一つの感覚が戻った。

 触覚。

 頭をつかむ手の感覚。それはすぐに痛覚に変わる。同時に視界がほぼすべて、運転手の姿で覆われた。目の前のそれに、頭をつかみ上げられていた。

 まさか。おぞましい想像が悪寒となって紅香の全身を駆けた。その予感を肯定するかのように、目の前のそれが刃状の右手を振り上げる。

「うそ……」

 瞬間。

 首に何かが当たる感触。続いて、生温かい液体が流れ落ちる感触。温かさは徐々に温度を上げていく。すぐにそれは熱さへと変わる。

 思わず、視線を落とす。

 そこに見えたのは、ゆっくりと倒れ行く、首のない人間の胴体。

 声を出そうとして、出ないことに気づく。視界がだんだんと狭まっていく。

 ――――なんて、悪夢。

 早く目が覚めることを願いながら、その視界は闇に閉ざされた。

 真っ暗だった。

 まわりには景色はおろか、足元さえもただ暗闇があるのみで、漆黒に染まっている。

「……なに? どうなってるの? どこ、ここ?」

 困惑する紅香は、きょろきょろと辺りを見回すが、その瞳に闇以外のものが映ることはない。

 その耳に、かすかに物音が届いた。

 足音だ。ゆっくりと、だがまちがいなくこちらへ向かってくる足音。

「……誰よ?」

 少し怯えながらも、強い口調で紅香は言う。

 だが、答える声はない。とはいえ、たとえこの状況で答えがあったとしても、不吉な予感しかしないのだが。

「来ないでよ!」

 思わず、紅香は声のするほうと反対に駆け出していた。

 頭の中がぐちゃぐちゃだった。ここはなんなのか、今までどうしていたのか、どうしても思い出せない。あのバスに乗ったところまでしか思い出せない。

 体はひどく疲れていて、まるで石にでもなってしまったかのように重い。走る足は、今にももつれて転びそうだ。

 しかし、どれだけ必死に走っても、後ろから響く足音は徐々にその間をつめてきている。

「なんなのっ……なんなのよ!」

 怒気を帯びた叫びをあげるが、それは虚しく呼吸を苦しめるだけだった。

 息があがる。部活で鍛えた分、持久力には自身があったはずだったが、高山で走っているかのようだ。頭に酸素が回らない。

 息苦しさに、紅香は顔を伏せる。と、重心が前に傾いたせいか、足がもつれた。

「あっ!」

 あるとも分からない地面に、紅香は倒れこんだ。

「痛っ……」

 ずきずきと全身が痛む。その間にもゆっくりと、足音は迫ってきている。

 刹那、バスの中の記憶が蘇った。

 そうだ。あれがもしも現実だったら、自分は……きっと死んでいる。だとしたら、これは死後の世界なのだろうか。それとも、これもあれも、夢なのだろうか。だとしたら、自分はおかしくなってしまったのだろうか。

 混乱と痛みで起き上がることができない紅香の背後に、足音が迫る。

 だが、その時。

「紅香……」

 自分を呼ぶ声が聞こえた。声には、聞き覚えがあった。どこか懐かしい、優しい声。

 紅香は顔を上げる。

 そこには――――ドアがあった。二十メートルほど向こう、今までただの真っ暗闇だった場所に、木製のドアがある。声はそちらの方から聞こえている。

 反射的に、紅香は駆け出していた。

 あれは……あの声は。

 紅香の頭の中から、疑問や混乱は消えていた。

 あのドアの元へ行かなければならない。あの声の元へ。

 その思いだけが心中にあった。

「静馬……静馬なの?」

 ドアのノブをつかむと同時に、力任せに引き開けた。

 その先には、光があった。スポットライトを直接当てられたかのような、まばゆい光。

 まぶしさに目を細めた紅香の微かな視界に、人影が映った。声の主だろうか。

「……紅香」

 それは間違いなく彼の声だった。

 幼なじみ……神代静馬。

 ようやく光に慣れ始めた紅香の目に、少しだけその姿が垣間見えた。

 悲しみの表情だった。

 なぜ。どうして。なにが。そう、問いかけるような。

 なにを。どうすれば。どうやって。そう、戸惑うような。

「静……馬?」

 様々な感情が入り混じったその表情は、神代静馬そのものだった。

 一年前に、死んだはずの。

 彼はゆっくりと、紅香に向かって右手を差し出す。悲しみの表情はそのままに。

 戸惑いながら、紅香はその手を握る。その手に、ほのかなぬくもりを感じる。

 それを見て、静馬の顔はなおのこと深い悲しみに満ちていく。歯を食いしばり、目元には涙さえ浮かべて。それはもはや、悲痛、悲壮といった言葉さえも越えるような、悲しみの顔。。

 それとは裏腹に、手の暖かさはさらに増していく。

 なにもかもわからないままに、紅香はただ、押し寄せる切なさに任せ、静馬を抱きしめた。

 徐々に、眠りに落ちていくように。紅香の意識は薄れていった。

 そのわずかな間、彼女の体を静馬の顔をしたそれが抱きしめ返すことは、ついになかった。


 はじめに戻ってきたのは、音だった。

 チッ、チッ、チッという小さな音。

 秒針の音だ。

 ひどく体が重い。これまでに感じたこともない気だるさだ。まるで、自分の体ではないような……他人の体を自分の力で無理やり動かそうとしているような。

 ゆっくりと、紅香は瞳を開いた。

 そこは、どこかで見たことのある天井だった。

「お、目が覚めたかい」

 不意に、紅香の耳に声が届いた。快活ながら、落ち着いた感じの声。それは、聞き覚えのある声だった。

「翔……さん」

 やっとの思いで声を絞り出し、その相手を見る。

 黒いジャケットに黒いハットの背の高い男性。そこにいたのは、紅香の家のすぐそばに暮らす青年、須佐翔悟だった。紅香の家のすぐそばに探偵事務所を構える私立探偵である。以前、ちょっとした事件を解決してもらって以来、紅香とは家族ぐるみの付き合いをしている。どうやらここは、その翔悟の事務所らしかった。

「どうしたどうした、そんな死の淵から生還したみたいな声出しちまって。いつもの元気は野良猫にでもやっちまったのかい」

 そう言って笑う翔悟の声にも表情にも、暗いところはない。

 ぼんやりと霧がかかったような頭に、おぼろげに疑問が浮かんだ。

「私……どうして?」

 熱に浮かされたような声で言う紅香に、翔悟は再び微笑んだ。

「めずらしいこともあるもんだな。元気なのがとりえみたいなお前さんが、貧血でぶったおれるなんてな。こりゃ、明日は季節はずれの大雪か?」

「貧血……倒れて……」

 だんだんと頭の中の霧が晴れ、思考が明瞭になっていく。それとともに、バスに乗っていた時の記憶が蘇る。

「……翔さん!」

 神経に直接、電気が走ったようないやな感じに、紅香は飛び起きながら叫んだ。

「うおっ、ど、どうした?」

「私、首から下ちゃんとある? ねえ? ねえ?」

 翔悟につかみかからんばかりの勢いで、紅香は詰め寄った。

「はあ?」

 翔悟の答えは言葉ではなく、わけが分からない、という顔だった。

「おいおい、もしかして脳震盪だけじゃなかったのか?」

 困惑顔の翔悟をよそに、紅香は自分の腹や肩をさわりまくる。

「……ある」

 その様子を見ていた翔悟が、席を立つ。

「医者、呼んできた方がよさそうだな」

「あああ、だいじょうぶだいじょうぶ! おかしくなっちゃったわけじゃないから!」

 あわてて引き止める紅香に、翔悟はふりかえって笑って見せた。

「冗談だ。それだけ元気なら大丈夫だよ。気を失ってる間に変な夢でも見たんだろ。さっさと忘れちまうにかぎるぜ」

 夢……。やはりあれは夢だったのだろうか。

 バスの中でのできごと。怪物となった運転手。殺された自分。どことも知れぬ闇の中。迫る足音。そして……奇妙なドアの向こうから現れた、死んだはずの静馬。なにが現実で、なにが夢だったのか。

 ひどく重い体では長く考えることはできなかった。

「さて、立てそうか? 親は出張からまだ帰ってないんだろ? 送ってってやるよ」

 翔悟の声に、紅香は現実に引き戻される。

「あ……うん。ちょっとだるいけど、行けると思う」

 ゆっくりと身を起こす。少し頭がふらふらするが、歩けないことはない。紅香はベッドを降り、靴を履く。

「おし、じゃあ行くか」

 先に立って歩き出す翔悟の後ろを、紅香は歩きだした。


「……ふう。疲れちゃった」

 玄関で靴を脱ぎながら、紅香は一人ごちる。

 家の中は真っ暗で、誰もいない。

 当然だ。たった一人の肉親である母は、海外出張で数週間は帰らない。だがそれは幼い頃からよくあったことだ。別段、特別なことでもなく、紅香はそのような事態には慣れっこだった。

「……ただいまー」

 反射的に、紅香は家に上がりながら言う。言ってから、答えるもののいないことを思い出し、嘆息する。もう一年もたつのに、自分はまだ順応していない。

 静馬がいないということに。

 静馬の家は紅香とは隣同士で、あちらは逆に父子家庭だった。似たような境遇であることもあって、親が留守の時はお互いの家を行き来したものだ。夕食を差し入れたり、一緒に作ってみたり。もはや家族も同然だった。

 そこまで思い至り、紅香は気持ちを切り替えるように、足早に歩き出した。

「夕飯は……いいや」

 廊下の電気もつけず、紅香は二階の自分の部屋へ向かう。

 先ほど感じた体のだるさはまだ取れず、食欲もない。もうすぐにでもベッドに横になりたかった。

 重い足取りで階段を上り、自分の部屋へ入った。

 電気をつけ、ベッドに倒れこむ。

 なんとなく、紅香はそばにある机に目をやった。

 そこには、まだ元気だった頃の静馬と自分の映った写真が飾ってあった。

「静馬……」

 あの夢を思い出す。ひどく悲しそうな顔をした、静馬の夢。夢に見るほどに、自分はまだ彼のことを忘れられていないのだ。彼が死んでから一年たち、他の友人たちが静馬を忘れかけても、自分は忘れられない。これからも、忘れることなどできそうもない。

 多分……幼なじみという関係以上の想いが自分にはあったのだろう。でも、それがなんなのか知る前に、静馬はいなくなってしまった。

 紅香は気だるい体に鞭を撃ってベッドから下り立った。そして写真立てを手に取り、少しの間だけ見つめてから、机に伏せた。

 再び、ベッドへと横たわる。

 切なさを覆い隠すように体を支配し始めた疲れに、紅香の意識は眠りへと落ちていった。


 翌日、朝。

「……たく、ついいつものくせで……」

 午前七時。始業まではずいぶん時間があるにも関わらず、紅香は学校――霧ヶ丘高校の校門へと来ていた。昨日まで在籍していたバスケ部の朝練の時間だ。

 自分のうっかり加減に嘆息しながら、とりあえず教室へ行こうとした時だった。

「あれぇ? 紅香じゃん! なんで来とんの? 部活、やめちゃったんと違ったっけ?」

 少々訛りのある高い声が響いた。

 声のしたほうへ振り返ると、そこにいたのは同じクラスの風間あきらだった。明朗快活でさばさばした性格の彼女は、バスケ部と新聞部というまったく違う部活に属しながらもなにかと馬が合うのだった。

「それがさぁ……ついいつもの癖でこの時間に着くバスに乗っちゃったんだよね。母さんもまだ帰ってこないからつっこみいれてくれる人もいなかったし」

 紅香がそう言うと、あきらは両手を腰に当てて屈託なく笑った。

「あっはは! 紅香らしいわ。朝練で張り切って授業は居眠り、お昼を食べてまた居眠り、が紅香ちゃんの日常やもんなー」

「うるっさい! そっちこそ、文化部のくせにずいぶんお早い登校じゃない。あきらは万年遅刻魔のくせに」

 紅香が言い返すと、あきらはむっと口を尖らせた。

「どこが万年じゃ、四日に一度くらいだから、一年で五十日くらいや」

「十分多いし……」

 ツッコミを入れる紅香に、あきらは今度は鼻を膨らませる。

「ぬうう……そのどや顔、一ヵ月後には明かしたるわ」

「へー、遅刻の世界記録でも樹立するわけ?」

「ちゃうわ! 部活のことやけぇ、あたし本気やで」

 あきらとは仲のいい紅香だが、その大仰な発言に対する対応は厳しい。というのも、この将来はジャーナリストになるのが夢という級友は、その部活のこととなると行動に見境がない。テストの問題をある生徒にだけ漏らしていた教師を糾弾したり、嫌われ者の暴力体育教師の体罰写真を暴露したり。悪いことはしないのだが、とにかく行動が派手なのだ。

「一ヵ月後、全国の新聞部の発表会があってな、その格好のネタ見っけたねん。題して『疑惑の事故! 横転したバスの真実とは!』や」

 得意顔で胸を張るあきらの言葉に、紅香の緩んでいた神経に、ぴりぴりとした刺激が走った。

「事故……? 真実?」

「お? 知らんか? 昨夜、前崎町でバスの横転事故があってん」

 前崎町……紅香の家のある町だ。

「昨夜九時半くらいにあったらしいねんけどな、それが変やねん」

 九時半ごろ。紅香がバスに乗っていた時刻だ。場所も、時間も、昨日紅香が体験した事態と一致している。だが、あれは夢だったはずだ。でなければ、自分は昨日、あそこで死んだことになる。

「……どういうこと?」

 怪訝な顔つきになった紅香を、興味があると勘違いしたのか、あきらが得意げな表情になる。

「それがな、バスが半壊するほどの事故だったのに、誰一人、ブレーキ音やら衝突音やらを聞いてないねん」

 それはおかしい。もしあの事故が現実だったのなら、自分はその音は聞いている。

「それにもっとおかしいんは、そのバスに乗ってた人が見つかってないってこっちゃ。その時間やからお客さんはそんなに乗ってなかったと思うけど、運転手も見つからないって変やろ」

 運転手……。紅香の脳裏に、右手が刃物のように変形した運転手の姿がまざまざと蘇る。そもそも、人が見つからなかったというのがおかしい。自分はあの場で翔悟に助けられたはずだ。

 つじつまが合わない。事故が現実にあったと言われているのに、その事故の時には自分は死んでいる。だが、自分は生きている。

「あきら……その事故って、ほんとにあったの?」

「あたしがガセネタなんかつかんでくるとおもてん?」

 あきらが頬をふくらませる。

 だとすれば、翔悟がうそをついているのだろうか。

「紅香……どしたん? 顔色悪いで?」

「あ、いや……なんでも、ない」

 視線を下に落としながら、紅香はやっと答える。

 果てしなく嫌な予感がする。ずきずきと、胸が鼓動を打つたびにひどく痛む。昨日の気だるさが嘔吐感に変わったかのように、のどの奥にたまっているような気がした。

 もしも、あの事故も、静馬が現れたことも夢でなかったとしたら。現実ではありえないと分かっていながら、紅香は胸に芽生えた違和感を拭い去ることができなかった。


 放課後、夜、九時半。

 紅香は昨日と同じ場所にいた。夢とも現実ともわからない、あのバスの横転した場所。

 そこは、古びた商店街だった。昭和の頃からありそうな個人商店が連なっているが、閉店時間なのか、それとも営業自体もうしていないのか、どの店のシャッターも下りている。そのせいか通りは閑散としており、人通りはない。

「つい……来ちゃった」

 紅香は思わず嘆息する。

 今朝、あきらに言われたことが気になり、つい足を運んでしまったのだった。

 あれが現実だったとはとても思えないが、どこかしっくりとこない、胸のつかえが取れなかった。だが、昨日の今日だ。もしあれが現実だったとしたら、なにかしら痕跡が残っているだろう。逆に言えば、何もなければあれは夢の一言で片付けられるのだ。

 きょろきょろと辺りを見回しながら、紅香は通りを歩いていく。

 だが、事故の痕跡など見つからない。

 やはりあれは夢だったのだろうか。

 その時だった。

「……っと」

 何かにつまづいて、紅香はアスファルトにひざをついた。

「……え?」

 自然に地面に向かった視線に、それが映った。

 電信柱の裏にさかさまに転がった、制帽。それは間違いなく昨日のバスの運転手のものだった。その内側は、乾いた血の色で赤黒く染まっている。

「うそ……あれ、夢じゃなかったの?」

 血と、帽子。そして、この場所。それらは、夢と思っていたあの出来事を突如として現実に引き戻すには、十分すぎた。

 そして、背後から聴こえてきた声。

「み、み、みみ……」

 振り返った紅香が見たものは、先日の奇怪な姿と化した運転手と同じ姿をした人間だった。生気のない瞳。ぼさぼさになった髪。そして、刀のようになった右腕。それは、足を引きずるようにしてゆっくりと近づいてくる。

「う、うあああああっ!」

 反射的に駆けだした紅香のすぐ後ろを、その奇妙な声が追ってくる。

 どくどくと、心臓が不快に脈打つ。ともすれば過剰になりそうな呼吸をなんとか抑えながら走る。頭に酸素がまわらない。視界に入るものがその情報を伝えない。

「なんなのっ……いったいなんなのよ、あれっ!」

 息が苦しくなるだけと分かっていながら、言葉を吐き捨てずにはいられない。追いつかれれば、殺される。直感的に感じるそれは、生まれてこのかた味わったことのない、原始的な恐怖だった。もう、どこをどう走っているのかすらわからない。

 気がつけば、袋小路の行き止まりへと迷い込んでいた。

 言葉を失い、壁に手をつく紅香の耳に、あの奇怪な呟きが飛び込んできた。

「み、みみみ、み……」

 後ろ手に手をつく形で、紅香は振り返った。

 いた。あの化け物だ。間近で見ると、その異様さは際立ったている。こんなもの、マンガでしか見たことがない。

「く、来るなっ!」

 思わず叫ぶが、人間の形をしているはずのそれに、言葉が届いた様子はない。

 化け物が、紅香の目の前で右腕を大きく振りかぶった。

 殺される。

 頭ではわかっていても、体が動かない。唯一できた反応は、両手を顔の前にかざし、目をつぶることだけだった。

 だが、永遠にも思える長い一瞬が過ぎても、紅香の体に痛みは走らない。

 恐る恐る、目を開ける。

 そこにあったそれが、何なのか紅香にはしばらく分からなかった。自分のすぐ目の前で化け物の右手を受け止めているそれ。肘から先、本来なら自分の手があるはずの部分が三倍ほどに膨れ上がっている。しかもそれは血のように赤黒く染まった包帯でぐるぐる巻きにされ、どくどくと不気味に脈打っていた。

 呆けるようにそれを見つめる紅香は、やっとのことでつぶやく。

「これ……私の、腕?」

 しかし、それ以上、思考をめぐらせる暇は紅香にはなかった。

「みみみああぁぁぁ!」

 化け物が押し込んできていた右腕をもう一度振りかぶった。

「このっ……化け物!」

 反射的に紅香は膨れ上がった左腕を薙いだ。

 次の瞬間、左腕に覚えた感覚は、バットでなにかを殴ったような手ごたえだった。奇妙に変形した紅香の左腕は、化け物の右腕を弾き返し、その頭を壁に叩きつけていた。

「ぎいっ!」

 紅香の左腕はコンクリートの壁を破壊し、化け物の頭を熟れたトマトのように叩き潰していた。

 化け物はしばらくひくひくと痙攣していたが、やがて、動かなくなった。

 肩で息をしながら、紅香は化け物と自分の両腕を交互に見る。

 一体、なにがなんなのかわからない。あの化け物がなんなのかも、自分の腕がどうなっているのかも分からない。

 思わず、右手を壁に叩きつける。

「くそっ! わけわかんない!」

「そりゃま、そうだよな」

 紅香の怒号に答えるように、路地裏の暗闇から声が響いた。

「だれ?」

 身構えて問い返す紅香の前に、その人物はゆっくりと姿を現した。

「そう構えなさんな。俺だよ、俺」

「……翔さん?」

 そこに現れたのは、紅香の隣に住む探偵、須佐翔悟だった。

「翔さん……何か知ってるの? こいつは何? 私のこの手はなんなの? バスの事故は? 私は昨日……死んだの?」

 早口でまくし立てながら、紅香は翔悟に詰め寄る。

「やれやれ……知らずに済めば、と思ったが、裏目に出たか。まあ落ち着きなよ、こうなった以上、全部、説明するさ」

 翔悟が肩をすくめて見せる。

「さて……何から話したものか……」

「翔様、まずはあの人を呼び出してあげればよろしいのではないでしょうか」

 不意に、翔悟の背後から声がした。まさに鈴を転がしたという表現が似合う、少女の声だった。そして現れたのは、背の低い少女だった。まだあどけなさを残したその表情からして、中学生くらいであろうか。白い着物におかっぱの白い神、透き通るように白い肌と、まるでアルビノのようだ。

「雪ちゃん……そうだな、紅香にとっちゃ、それが一番重要だろうしな」

 雪ちゃんと呼ばれた少女から紅香に視線を戻しながら、翔悟が言った。

「紅香、いいか? お前が巻き込まれたのは、正直、突拍子もない話だ。だが……まずは受け入れてやってくれ。話は、それからだ」

 言い終わると同時に、翔悟が右手を紅香に向かってかざす。

 その刹那、紅香の両腕が紅く輝きだした。

「ちょっ……なに?」

 やがて、その光が紅香の視界を覆いつくした。

 それはひどく長いようにも思えたし、瞬きほどの時間のようにも思えた。

 光が収まった時、紅香の目の前に一人の少年が背を向けて立っていた。それは、忘れられない姿だった。たとえ忘れろと言われても、到底忘れることなどできない。忘れようと努力すればするほど、記憶に焼きついたかのように鮮明になっていく姿。

 それは、死んだはずの。

「静……馬……」

 紅香の幼なじみ、神代静馬だった。

 漏れた言葉に答えるように、彼はゆっくりと振り返り、微笑む。

「……やあ。ひさしぶり」

 生前と変わらぬ、優しい笑みだった。

「どうして……どうして、ここにいるの? 静馬は……一年前に……」

 思わず、紅香は静間に駆け寄る。恐ろしくはなかった。ただ、『なぜ』という言葉だけが、心の中をぐるぐると回っていた。

「うん、わかってる。一年前、僕は死んだ」

 少し悲しげに、静馬は言う。

「……だけど生きていた時から、僕は一つだけ、君に隠し事をしていた」

「隠し事?」

 油断すると自然にあふれそうになる涙を、歯を食いしばって瞳の奥に押し込める。

「……それだよ」

 そう言って静馬が指差したのは、紅黒く染まった、紅香の両手だった。

「……え? これって?」

「僕は、普通の人間ではなかった。人が言うところの霊感のようなものがあった。それも、恐ろしく強いね。怪物が相手であっても、逆に取り込んでしまうくらいの、普通じゃない、力」

 静馬が、紅香から瞳を逸らして、うつむく。

「でも、それを利用しようとする人間が現れた。どんな怪物でも取り込んでしまう力を使って、邪神を呼び出し、僕に取り込ませた」

 一度そこで、静馬は言葉を切った。

「その儀式は成功して……僕は内に邪神を持つ者になった。それを知った僕は、彼らにその力を悪用させないために……命を絶った。だけど邪神を抱えた僕は死んで消え去ることはできず、邪神と共にさまよっていた」

「なに? なに言ってるのかわからないよっ……」

 限界だった。紅香の瞳から、涙が流れた。わけがわからない。霊感だとか邪神だとか、それよりも、静馬の姿を目の当たりにして、うれしいのか、悲しいのか、それすらもわからなかった。

「……紅香。聞いてほしい」

 静馬が、肩をつかむのがわかった。死んでいるはずなのにかすかに感じるその温かさは、以前と変わらない。

「昨日、君は殺されかけた。本当だったら、死んでいたはずだった。僕には……見ていることができなかった。僕は……邪神の力を使って、君を生き返らせた。その代償が……その腕なんだ」

 うつむいていた静馬が顔を上げ、まっすぐに紅香を見た。

「邪神の力を狙うものたちは、まだいる。おそらく今度は、君を狙ってくる。僕は……こんなだけど、君を守りたい。君を死なせたくないんだ」

 静馬の言葉に、紅香は顔を上げる。その顔はすでに涙でぐしょぐしょに濡れている。

「……わかった」

 ぐずぐずと鼻をすすりながら、紅香は腹の底から言葉を絞り出した。

「……紅香」

 静馬の心配そうな顔に、紅香は首を横に振る。

「ほんとは、わけわかんない。邪神とかそれを狙うやつとか……。だけど、三つだけ、わかった」

 再び紅香は下を向き、ぐずっ、と一際大きく鼻をすすった。

「さっきみたいな怪物を倒す力が、今、私の中にあることと、それを狙う人間がいること……」

 ぐっと歯を食いしばり、異形と化した両手の拳をにぎりしめる。震える肩と膝を押さえつけるように腹に力を入れ、静馬を見返す。その瞳に、もう、涙はない。

「……そして、そいつらが……そいつらが、静馬を死に追いやったってこと!」

 刹那、紅香の怒りの声と共に、疾風が駆けた。

「私、そいつらを許さない! そいつらが私を狙ってくるって言うなら、相手になってやろうじゃないの! 私が一度死んだのなら、私の仇も、静馬の仇も……私自身で、討つっ!」

 紅く燃え上がる紅香の瞳を、穏やかに、静馬は見ていた。


「さて、大体の話は静馬がしてくれたけども……」

 不意に、所在なさげに立っていた翔悟が声をかける。

 その存在をすっかり忘れていた紅香は、思わず驚いて振り返った。

「あ、ああ。翔さんがいるの、忘れてたよ」

 泣いたり怒ったり叫んだりと激情を爆発させていた紅香は、恥ずかしさに顔を赤らめた。

「おいおい、そりゃないって。俺もこの件は一枚噛んでるんだぜ」

「一枚噛んでる?」

 オウム返しに返した紅香に、翔悟は頭を掻いた。

「ま、今お前さんの中にいる邪神とはいろいろあってね。俺もそいつをやつらの好きにさせるわけにはいかんのさ」

「翔様は、陰陽師探偵なのです。だから、邪神は止めなければならないのです」

 不意に、翔悟のそばに控えていた少女が口を開いた。

「私は翔様の式神、雪乃と申します。よろしくお願いいたします」

「え? あ、よ、よろしくお願いします」

 ぺこり、と頭を下げた少女につられて、紅香も頭を下げ返す。

「ちょっ、雪ちゃん、いきなりそれ言ったら混乱するだろ。そんなマンガみたいな肩書きさ」

「先ほどの静馬様のお話よりは理解しやすいと思いますよ?」

 さっきも掻いた頭をまたも掻きながら言う翔悟に、雪乃と名乗った少女は微笑む。

「ま、そりゃそうだが……ま、そういうわけだ。俺は元々陰陽師ってやつでね。静馬を呼び出せたのもその力ってわけだ。だがこのご時勢、幽霊だろうが邪神だろうが大抵、黒幕は人間でね。探偵の真似事もしてるうちに、そっちが表の仕事になっちまったってわけさ」

「陰陽師……探偵……」

 正直、私立探偵というだけでも十分に特殊な肩書きだと感じていたが、陰陽師となると、確かに現実離れしている。だが、昨日から非現実な出来事の連続だったせいか、妙にしっくりと来た。

「それで、ここからが本題なわけだが……」

「本題?」

 聞き返す紅香に、言葉を返したのは翔悟ではなく、静馬だった。

「邪神を狙う者たち……」

「そうだ。正確には、今回紅香を襲わせた奴……だな」

 不意に険しい表情になった翔悟に、紅香の目が突き刺すような色を帯びる。

「襲わせたって……まさか、こんなのを操る奴がいるって言うの?」

 その視線の先には、先ほどの怪物の姿がある。

「そのまさかです。これは、ある者が使役する、手先のようなもの」

 自己紹介した時とは別人のような鋭い声で、雪乃が答える。

「それはすでに、何人もの人間を殺している、私たちのような存在の間では第一級の危険な者として有名なのです」

「人間で言えば、殺人鬼のような奴だ。正直、お友達にはなりたくないな」

 視線を落とす翔悟に、しかし紅香の瞳は強い色を失わない。

「じょ、上等じゃない。私たちの仇は、私たちで討つんだから!」

「ま、そう鼻息を荒くしなさんな。で、そいつについてなんだが、本名はわかってない。ただ、『ミサ・ザ・ブッチャー』って呼ばれてる」

 聞きなれない呼び名に、紅香がまゆをひそめる。

「なにそれ? 何人?」

「それもわかってないのです。ただわかってるのは、死者を怪物と変貌させて操る力を持つ者ということと、その呼び名だけなのです。それどころか、人間であるかどうかも不明です」

「ちなみに、『ブッチャー』ってのは、肉屋って意味な。そいつがやったらしい殺しはみんな、鋭利な刃物で切り裂かれたことから来てる」

「鋭利な刃物……」

 紅香は、倒れている怪物に目をやる。その腕は紅香を襲った時と変わらず、片手が刀剣のようになったままだ。

「そう、あれだ」

「それで……どうすればいいの? それじゃあ相手は遠くからこっちにいくらでも仕掛けられるんでしょ?」

「それに……返り討ちにはできても、多くの人が犠牲になる」

 紅香と静馬のセリフに、翔悟がうなづく。

「そこで、だ。奴は、その行動の派手さのせいか、夜にしか動かない。幸い、明日は日曜日だ。昼間のうちに奴を見つけ出しちまおう。死人を動かすなんて派手な技だ。そうそう遠くからできるもんじゃない」

「そういうもんなの?」

 どことなく疑わしげに紅香が言う。

「そういうもんなのさ。俺らもそうだが、奴らは社会の表舞台には決して立とうとしない」

「なぜ?」

「それは、彼らや私たち……社会の常識を超えた者たちにとって、一番の天敵は人間であるからです」

 翔悟に代わって、雪乃が答える。

「人間が天敵、って……どうして? だって、人間を操るような力を持つ奴らなんでしょ?」

 目を丸くする紅香の様子に、翔悟は帽子を目深にかぶりなおす。その視線が隠れると共に、彼の表情が見えなくなる。その様子は、言外に彼自身の負ったものを暗に示しているようにも見えた。

「力を持っているからこそ、だよ。確かに、普通の人間一人であれば、力を持つものには到底適わないだろう。だが、もしも人間の社会にその存在がばれれば、そいつは抹消される。普通ではないものとしてな」

「人間とは、自分とは違うものを恐れる生き物です。人間同士ですらそうであるのに、それがすさまじい力を持つものならなおさら……。たとえ個としての力が勝っていても、社会という群体には適いません」

 とつとつと、感情の読み取れない声の雪乃の顔にも、暗い表情が下りていた。

「ま、そのうちお前らにも分かるさ。嫌でも、な」

 変わらず視線を帽子に隠したまま、翔悟が言う。

「それはとりあえず置いとくとして、だ。まずは明日だ。昼間のうちに奴を見つけられなければ、こういうのをまた相手にすることになる。できればそれは避けるべきだ。今夜返り討ちにあったことで、今度は向こうも本腰入れてかかってくるだろうからな。今夜はウチの事務所に泊まっていくといい。今夜のうちにまた来ないとも限らないからな」


 紅香は、その夜、翔悟の寝室を借りた。紅香は遠慮したのだが、寝室が一部屋しかなく、翔悟がレディーファーストだと言って聞かなかったのだ。

「で、なんであんたはいるのよ」

 その紅香の視線の先にいるのは、静馬である。

「なんでって?」

 とぼけたことを言う静馬の顔に、悪気はない。

「仮にも女の子が泊まる部屋に、なんでいるのって聞いてるの!」

 顔を真っ赤にして言う紅香に、静馬は小首をかしげる。

「何もしないよ?」

「あたりまえでしょ!」

 腰かけていたベッドを、紅香がぼふぼふと叩く。その手は人間の形には戻っているものの、普段よりは力が強くなっているのか、掛け布団が一部破けた。

「悪いけど、僕はあまり紅香から離れられない。君に僕の中の邪神の力を分け与えたことによって、精神的なつながりができてしまった。まあ、俗に言う守護霊ってやつかな。僕が離れると、君の体は今の形を保てなくなる」

 不意にまじめな顔になった静馬が言う。

「形を保てなくなる?」

「邪神にのっとられる、ってことさ」

 紅香の顔がはっとなる。

「君の中の邪神は、本来、人にとり憑いて、内側から支配してしまうものだった。だが大多数の人間はそれに耐えられない。紅香、君も恐らくそうだ。そしてその支配を、僕が押さえ込んでいる」

「私も……それって、つまり」

「そう。あまりに離れると、君も邪神の支配下にされてしまう」

 紅香は、自分の右手をじっと見つめる。この腕は……いや、体は、もう自分のものであって、自分のものでない。一歩間違えば、自分が邪神に取り込まれる可能性だってあるのだ。

「……ごめん」

 不意に、静馬が目を伏せた。

「えっ? 何が?」

「僕は……君を死なせたくない一心で、君の体に邪神を下ろしてしまった。本当は……僕が邪神と共に消えるべきだったのに」

 重い言葉が、紅香の胸に音もなく降り積もる。

「そんな……だって、そうしなかったら、私は死んでたんだよ? 静馬がこうしてくれなかったら……」

「でも、僕は助けたつもりで、紅香に重い十字架を背負わせてしまったのかもしれない。もしも、邪神が復活したら、死より辛い目にあうかもしれない」

 二人の間に沈黙が下りた。一年たっても静馬のことを忘れられなかった紅香と同じように、静馬も同じように苦しんでいたのだ。

「……よかったよ」

「え?」

 静馬が、困惑の表情で顔を上げた。

「よかったよ。静馬が、私を助けてくれて。おかげで、こうしてまた会えたんだから……」

 にっこりと、紅香が微笑んだ。

「紅香……」

 つられて、静馬の顔にも笑みが下りる。

 が、次の瞬間、紅香の表情がそれこそ邪神のように変わった。

「でもっ! 自分勝手に死んだりしたのは許さないっ! わけも言わずに一人で抱え込んで! いつもそう! なんでもそうやって一人で悩んで一人で解決しようとするんだから! 馬鹿じゃない? こっちがどんだけ……泣い……」

 頬を何かが伝っていることに気づいて、紅香はあわててそっぽを向き、ごしごしと顔を袖でこする。

「とにかくっ! 私は死にたくなかったんだから、これでいいの! 静馬が暗い顔して悩んだって、辛気臭くて迷惑なだけなんだから! あんたはいつもみたいにぼさっとした顔をしてればいいの!」

 涙と勢いよくこすったせいで真っ赤な顔の紅香に、思わず静馬がつられて笑う。

「……わかったよ」

 だがそこにある彼の笑みのどこかに隠れたかすかな闇に、紅香が気づくことはなかった。


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