性奴隷は金剛石の夢を見る

エノコモモ

性奴隷は金剛石の夢を見る


叩きつけるような雨音、怒声に悲鳴、鎖の音。

この世の穢れ、その全てを押し付けられたような場所だった。


「出ろ!」


乱暴に背中を押され、シャールカが荷車から下ろされる。けれどこの悪天候に、ろくに舗装もされていない道。当然、ひどくぬかるんだ地面に足を取られ、体勢を崩した。

そのまま、後ろ手に硬い手錠で拘束された彼女は、体の前面から泥の中へ落ちる。


「あ…」


その衝撃で、首から下げていた装飾品が、ぱりんと呆気ないほど軽い音を立てて割れた。父にねだって買ってもらった、硝子細工。彼女の心を支える大切な物だった。けれど、今のシャールカには粉々になった宝物をかき集めることはできない。自慢の金糸が土に汚れ泥が口に入ろうとも、自力で起き上がることも拭うこともできはしなかった。


「おい。こんな上玉、どうしたんだよ」

「っ…!」


その場に居た男のひとりが、シャールカの金糸を無遠慮に掴み、無理矢理顔を上げさせた。堪らず痛みで顔を歪ませるが、彼らの瞳には映らない。まるで物でも扱うかのように、男達は商談を始める。


「残りの遊牧民の隠れ家が分かったじゃないですか。けどあそこはもぬけの殻で、追い掛けようかと思ったらコイツがひとり残ってたんですよ。結構良い品だし、先に売りに来ました。取り逃がした奴等は、また後日にでも捕まえにいきますよ」

「ひとりで…ああ」


合点がいったとでも言いたげに頷く。シャールカを覗き込んで、嘲笑を浮かべた。


「お仲間から、捨てられたのか」


その一言に、彼女の瞳が動く。蒼空と同じ、美しい色だと皆から褒められたものだった。けれどもう、青い空など見えやしない。


「…私は、」


大陸の侵略者、男達はそう呼ばれていた。シャールカ達のような小さな部族や家族単位で暮らす者達を狙い、圧倒的な武力で何もかも根こそぎ奪っていく。

シャールカの属していた部族にも、その所業は耳に入って来ていた。男は殺され女は捕まったが最後、死ぬまでその性を売り物にされるのだと。


「俺が買おう」


その場にいた誰の声でもなかった。雨音も喧騒も、ものともしない声。一瞬、時が止まった気がした。男達がそちらに視線を配り、ぎょっと目を見開く。


「こっ、これはどうも!閣下!気付きませんで…」

「その女、俺が買う」


ここの男達は誰も彼も体中から不純物の匂いを立ち上らせていたが、その声の持ち主だけはそうではなかった。仲間ではない、それだけは把握した。そしてその男のそばに付いていた別の不純物らしき小柄な男は、提案に首を振った。


「旦那。アレは仕入れたばかりでさ。仕込みも済んでませんし、お勧めはできませんて。他の商品も紹介しますよ」

「構わん」

「はあ。では今夜の寝所に連れていきますか?」


顔を上げたシャールカの目に飛び込んできたのは、黒い男だった。髪も瞳も鎧も、全てを飲み込みそうな黒。彼女の部族に古く伝わる悪魔のような出で立ちだなんて、呑気にも思った。


「一夜ではない。その女、丸々ひとりを買う」

「え…!?」

「……」


彼は無言で、黒い瞳だけを動かし威圧する。それに負けた彼らが何事か準備を始めるのを、シャールカはただ見ていた。何が起こっているのか分からなかったが、自分の“持ち主”が予定と変わったことだけは理解した。


「クルハーネク閣下か…。あの人に掛かりゃ壊されちまうよ」

「ああせっかく、目玉になりそうな女だったのにな」


そして背後の彼らの嘆きに、予定だった行き先も、これから実際に行く先も、然して変わらぬ地獄なのだと知った。


シャールカを買った男は、この国の者ではなかった。隣国の、もっともっと大きな国の、途方もなく高い地位の男。そしてその強さから近隣諸国からまさに鬼神と恐れられる男であると知ったのは、もう少し後の話。


こうしてシャールカは、バルトロメイ・クルハーネクの性奴隷となったのだ。











「はあ…」


ため息を吐くと、目の前のつるりとした柱が白く滲む。


「はあああ…」


その場所を布で拭おうとも、後から後から姿を表す憂慮には追い付かない。


「はあ、」

「シャールカ。ため息が大きい」

「エステル…」


更に深い息を吐こうとしたところで、遮られた。シャールカが顔を上げると、同じく雑巾を手に持ち床を拭く女性の姿。名をエステル。この屋敷の使用人で、シャールカとは違い正式に雇われた勤め人である。奴隷のシャールカに対しても、分け隔てなく接してくれる大切な友人だった。

エステルは振り返らずに、シャールカに声を投げ掛けた。


「旦那様のこと?」

「それ以外に、こんなに深く悩むことなどありはしません…」


梯子を抱え次の柱に移りながら、シャールカは力なく返す。

彼女の“持ち主”の名は、バルトロメイ・クルハーネク。ここは彼の屋敷であり住居であり、同時にシャールカの勤め先である。


「私、聞いたのですよ。クルハーネク閣下の奴隷ともなれば、間違いなく壊されるとか、正気を保っていられる者などいない、とか何とか」


そんな鬼神と名高い主人は、シャールカにはあまり馴染みのない、“将軍”という地位に就く男だった。多数の国と隣接する大国で、数少ない要職だと聞いている。そしてその中でも、彼はひとたび戦場に出れば八面六臂の活躍を見せ、その名を聞くだけで近隣諸国は震え上がる豪傑であるとも。この家も、バルトロメイの功績を称え、皇帝から賜ったものだそうだ。


「旦那様。噂が一人歩きしてるところあるからなあ。勝手に恐れてくれるなら好都合だって、放っといてるみたいだけど」

「ええ…」


エステルの言葉通り、バルトロメイは噂されるような非情な男ではない、のだと思う。分かりやすく優しい人物ではないこともまた事実だが、シャールカに寝所を与え、食物を与え、衣服を与えてくれた。奴隷としては、この上ない厚待遇だろう。

けれどそんな予想外の幸せも、今のシャールカには負担であった。


「私に…働いてもいない私めに、このような待遇を受ける資格はないのです…」

「働いてはいるでしょ」


ため息をつきながらもせかせかと柱を拭く彼女を見て、エステルが呟いた。けれどシャールカは首を振る。その勢いで、肩まである金糸がぶんぶん揺れた。


「いいえ!私は性奴隷として買われたのです!ならばその責務を果たさねばならないと思いませんか!?」


雑巾を片手にそう叫ぶ。あまりにもすることがないので、確かに掃除婦の真似事のようなことは始めたが、シャールカの本業は掃除ではない。


「ほんの1度も性行為をしたことがない性奴隷が、一体全体世界のどこにいると言うのです!」


そう、シャールカは未だ、バルトロメイの夜の世話をしたことがなかった。


これは大いに誤算、誤算であった。そもそも、何の仕込みも済んでいないシャールカを買ったからには、相応の目的があると思っていたのだ。例えば口にするのもおぞましい行為をさせられるとか、いちから自身で開発するのが好みだとか。何せ、恋人にはぶつけられない偏った性的欲求を解消する対象こそが、性奴隷と言うものだろう。


「なのに旦那様は、ほんの少しも私に触れられない…」


シャールカが買われた日、初めての夜。寝所にやって来たバルトロメイは、彼女を一瞥した後で、寝具へ向かった。そして彼を追いかけるシャールカに対し、ほんの少しも表情を変えずに、重低音の声を出した。


『今日は疲れただろう』

『は、はい…』

『休め』

『…え?』


そう言って、彼はこちらに背を向けて寝てしまった。


(……え?)


思わぬ事態にシャールカは呆然とその場に立ち尽くす。だがすぐに、首を振り緊張感を引き戻した。

これで終わる筈がない。きっと疲労状態では満足に致すことのできないような、それはもう苛烈な技があるに違いない。バルトロメイは肉人形が回復するのを待っているのだ。万全の状態で性行為を行うつもりなのだこの持ち主は。


明日こそ本番である――。


『寝るぞ』

『は、はい…』


(いよいよ…!)


翌夜の寝室。言い渡された宣言を前に、シャールカはごくりと唾を飲み込む。


さようなら貞操、さようなら愛に溢れた初体験。心に微かに残っていた憧れを捨てて、シャールカは瞼を閉じる。


『……』

『……』


だがしかし、バルトロメイがこちらに手を伸ばしてくることはない。こちらを振り向くこともない。そうして長い時が経ち、目を閉じていたシャールカはそのまま眠りの妖精に誘われて、文字通り、寝た。


(これは、罠…!)


それでも尚、シャールカは油断しない。


(隙を見せ、幸せの絶頂へと導いたところで絶望を与えるのが、我が主のお好みに違いありません…!)


明後日こそ本番である――。


『……』

『……』


明明後日こそ本番である――。


そして半年が過ぎた。


「どう考えても、おかしいでしょう…!」


シャールカが柱をせっせと磨きながら、手の中の雑巾を強く握る。雑巾がみちりと悲鳴をあげた。

純潔を守れて良かったね、なんてそんな呑気な話ではない。シャールカは性奴隷なのだ。決して安くはない金を積み上げて買った商品なのだ。それなのにただ家畜の豚のように太らせるだけなんて、そんな馬鹿な話があるわけがない。


「ま、まさか…!」


ある事実に気が付いた彼女が顔を上げる。エステルと目が合った。何か言いたそうな友人に対し静かに頷き、シャールカは疑惑を口にする。


「これが噂の…童、貞…!?」


手から雑巾が滑り抜ける。ぺしゃりと音を立てて床に落ちた。






バルトロメイが実は女性経験のない生息子である――その結論に辿り着いたシャールカは思った。


(どうにか、どうにかしなくては…!)


バルトロメイは良い男だと思う。常に眉間に皺を寄せ滅多に口角を上げることはない鉄仮面ではあるが、彫りの深い顔立ちは女性からの人気も高い。その地位に甘んじることなく、日々の鍛練を欠かさぬ努力家な上、皇帝からも部下からも固い信頼を置かれている。


年齢もまだ若く、きっといつか、どこか立派な家のご令嬢と、それはもう祝福に満ちた結婚をする筈だ。そして彼のその硬骨漢な性格や筋肉質な体格から、新妻が夜の営みに関して大いなる期待を抱くであろうことは目に見えている。


ところがどっこい、実は童貞で女の扱いなど露程も分からぬだなんて問題が発覚すればどうなるか。期待と違った――妻は思うだろう。思ったついでに夫婦関係に亀裂が入るかもしれない、そして彼女が性欲魔人だった場合、欲を持て余し別の男に走る可能性もある。そしてその先できっと広めるのだ。旦那の悪評を。あの男は見かけは将軍だけどシモの方は一兵卒よ、だなんて。


「くっ…!許せません…!」


シャールカは未だ見ぬ妻に怒りを覚えながら、目の前のバルトロメイに視線を移した。


「……?」


眉間に皺を寄せた、真っ黒な虹彩が訝しげに揺れる。そんな主人を視界に捉え、シャールカは心を決めた。


(やはり性奴隷たる私が、旦那様の童貞を卒業させなければ…!)


バルトロメイは主人である。シャールカの持ち主なのだ。彼にそのような恥をかかせるわけにはいかない。


(あの時拾って頂かなければ、今頃私はどうなっていたか分かりません…。ここで、ご恩を返さなければ!)


来るべき初夜に向けて、今自分にできることを。シャールカは茶器を乗せた盆を手に持ち、彼にそっと近付いた。


「旦那様。どうぞこちらを」

「あ、ああ……?」


いつもの通りバルトロメイが茶器に手を伸ばして、ふとその手を止める。現在ふたりが居る場所は、バルトロメイの寝所である。毎晩就寝前に、ふたりで花茶を飲むのが通例であった。が、今日その盆に乗っているのは、茶ではない。


「今日は趣向を凝らしまして…お酒など、いかがでしょう?」

「……」


しばし考えたのち、バルトロメイは盆の上の茶器を取った。それを口に運ぶ彼の前で、シャールカは心の内で勝利の雄叫びをあげる。


(このシャールカ!一計を案じます!)


バルトロメイから手を出さないのならばこちらから向かうまで。けれど彼は見た目も中身も、それは厳つい成人男性である。野生児シャールカと言えどもそうそう簡単に手を出せるものではない。体力面に関しても言えるが、何より重大な問題がひとつ。


シャールカは生娘であった。性行為のいろはなどとんと分かっていない。棒を穴に射すぐらいのことならもちろん理解はしているが、場に応じた誘い文句や雰囲気作りはもちろん、男性の持つおしべの形状さえイマイチよく分かってないのだ。これではバルトロメイを誘導し目標を達成するなど到底不可能。


そこで酒の出番だ。もうお分かりだろう。バルトロメイを酒に酔わせてへべれけになったところを、襲おうという計画なのである。犯罪である。


「では私も失礼して…」


バルトロメイに続けてシャールカも、茶器の中身をぐいと飲み干した。甘苦い感覚に首を傾げつつ、酒器から新たに液体を移す。


(バルトロメイ様とて、目の前でか弱い女性が飲んでいる以上、付き合わないわけにはいかないでしょう)


この男主人が、見た目通り酒を嗜むことは知っている。しかしそれでも、自称か弱いシャールカには勝算がある。


(私は大地の民!酒は日常的に飲んでおりました!気違い水に関しては、子供の頃から一族の誰よりも強いのです!)


前後不覚になったが最後、バルトロメイの貞操はシャールカの手中。何をとは言わないが、握ったり撫で回したり、好きにし放題なのだ。さあその未来が現実となるまで、目の前の男が酩酊するまであと少し――。






「…もう、そのぐらいにしておいたらどうだ」


約1時間後。無表情で、バルトロメイは口を開いた。


「な、なにを…まだまだれございまひ!」


彼の目の前には酩酊状態のシャールカの姿があった。金の髪を振り乱し、真っ赤な顔で叫んでいる。

反面、バルトロメイは涼しい顔のままだ。新しく、酒が並々入った大きな陶器を開ける余裕さえある。


(な、なぜ…)


さて、彼女は知らなかったことだが。遊牧民のシャールカが主に飲んでいた酒は、馬の乳から作る醸造酒。子供から年寄りまで飲めるほど、度数は非常に低い。

対してバルトロメイの国で一般に出回っている酒は、同じく醸造酒ではあるものの、糯米から作られる全く違う酒。単純なアルコール度数に関しては10倍近く差があった。


(ま、まだまだれす…!ばるとろめい様の、性っ、奴隷たるもの…!)


シャールカは必死だったが、既に視界は周り足元は浮き、頭の中は花畑が見えている。ここまで、根性だけでしがみついていたようなものだ。彼女の意識は限界を迎えていた。


「くっ…!む、無念…!」


歴戦の猛者のようなことを言いながら、ずるんと机に突っ伏す。


「……」


酔い潰れたシャールカを、バルトロメイはしばしその場で見つめていた。






(これは、どういうことでしょう…)


翌朝、シャールカは寝具の上で固まっていた。ほんの少し前に眠りから覚めたばかりである。意識を取り戻したなら起きて活動し出せば良いと言う話なのだが、何だかそういった雰囲気じゃないのだ。


「……」


薄目を開けて、目の前で起こっていることを把握する。まず目に入ってきたのは、黒髪と黒い瞳。


(バルトロメイ様…)


昨夜椅子の上で意識を失った自分が、寝具の上に寝そべっている。おそらくは彼が運んでくれたのだろう。奴隷にあるまじき結果に大いなる自責の念が込み上げるものの、今の最たる問題はそこではない。いつもシャールカに背を向けてばかりの彼が、こちらを見つめていたのだ。


(これは、やはり…)


そしてさわさわと動く髪の感触。シャールカの頭を撫でるのは硬い手のひら。そう。起きたら、バルトロメイが寝ている彼女の金糸を、撫でていたのだ。


「……」


これは起き辛い。何よりも彼のその表情。うっすらぼける視界に見えている、バルトロメイの顔。眉間に常駐していた皺は跡形もなく消え、僅かに緩んだ口元はどこか微笑んでいるようにも見える。


(で、できればもう少し、見ていたい…)


けれど長く同じ体勢をとっていたシャールカは限界である。睫毛が震えてきた。そろそろ狸寝入りも終わりにしなければならないだろう。


「あ、あの…」

「!」


心を決め、話しかけた。すると瞬時に彼の口元は直ぐ様引き締まり、その眉間にも皺が戻った。そして我に返ったように、手のひらを離す。


「……」

「……」


しばらくの沈黙の後、バルトロメイは口を開いた。


「二日酔いは」

「え?え、ええと、平気です」

「そうか」


聞くが否や立ち上がる。身支度もそこそこに、扉を開け出ていった。そして彼の消えた廊下からは、どん、がらがら、ぱりんと音の3拍子が聞こえてきた。


「……」


その様子を見送って、残されたシャールカは寝台に仰向けに転がる。そして天井を見ながら、息を吐いた。






「はあ…」


屋敷の庭。せかせか手と箒を動かしながら、シャールカはため息をつく。そんな彼女の深い深い憂慮で、枯れ葉がかさりと動いた。そしてシャールカの頭をこんなにも悩ませる原因は、やっぱり主人以外に有りはしないのだ。


「性奴隷、失格です…!」


何が性奴隷か。何が夜のオトモか。昨夜は一切合切、手を出すことなどできはしなかった。


「ですがこのシャールカ!諦めの二文字など知りはしません!」


ぐっと拳を握り、彼女は晴天を仰ぐ。


「必ずや旦那様の童貞を卒業させる所存です!そして、未だ見ぬ奥様との幸福に満ち溢れた結婚生活を…」


(結婚、生活を…)


その先を言おうとして、握った拳を静かに下ろした。心臓がぎゅうと締まるような感覚に、焦燥を覚える。


「……」


(旦那様が、一言。お前はただの道具に過ぎないと、宣言してくだされば…この想いも、断ち消えるのに…)


最初から、欲望の赴くまま、抱いてくれればそれで良かったのだ。金で女を買う酷い男だと、仕事だから相手にするが大嫌いだと、そう諦めが付いた。なのにバルトロメイは途方もなく優しくて、まるで大切な人でも扱うかのようにシャールカに触れる。それが募る度に、勘違いしてしまいそうになるのだ。


「……」


彼女の碧眼が暗く沈んだ。空は雲ひとつない晴天だと言うのに、その瞳は海の底のように深く翳る。それを隠すように、箒の柄に手を置いて、さらにその上に自身の額を置く。


バルトロメイが、少なからず自分に情を移してくれている。そのことは理解している。


それでも、シャールカは奴隷だ。国籍も戸籍も市民権もなければ、人権もない。彼女の存在は、物と何ら変わりはしない。いつか現れるバルトロメイの結婚相手と同じ土俵に立つこともなく、ただ捨てられる、それだけの話である。


「いけませんね…」


一粒、こぼれた涙が柄を伝って地面に落ちていく。持ってはいけない希望だと、奴隷と言う身分をこの日初めて、悔しく思った。


あの日壊れてしまったシャールカの宝物。硝子細工は粉々に砕けて、彼女の元から消えてしまった。それと同じだ。いくら美しい未来を描こうとも、所詮は奴隷の夢。硝子のように脆く繊細で、簡単に壊れる。そして一度砕けたら最後、二度と元に戻りはしない。






「……」

「おはようございます、旦那様」


肩で風を切り廊下を闊歩していたバルトロメイが、足を止めた。深く下げられた使用人の頭に、声を掛ける。


「シャールカは何処か」

「裏庭におりましたよ」


エステルが顔を上げた。雇い主の固い表情と、持っている物を見て、少しばかり寂しそうに微笑む。


「あらいよいよ…。シャールカと敬語無しでは話せなくなってしまいますね」

「……」


彼女の一言に、バルトロメイはほんの僅かに口角を上げる。そのまま、裏庭に向かって歩き出した。




戦場とは違う血の匂い、全体を覆い尽くす翳、絶望の足音。

この世の穢れ、その全てを押し付けられたような掃き溜めだった。


(いつ来てもここは、最悪だ)


バルトロメイが息を吐く。濁った空気を吸いたくない余りに、自然と浅い呼吸に変わった。


『さあさあ!どうです?我が国が誇る市場ですよ!』


そう胸を張るのは、隣国の要人だったか。背が足りず、彼が差し向けた傘がバルトロメイの頭に当たる。

案内された場所はその国の王都の一角だった。けれど王の都とは名ばかりで、中央の道を外れれば底のない貧困が広がっている。

この場所も、表向きは否定されていたが、実態は国主導で行っている闇市に相違はない。まともな市場では扱えない商品が立ち並ぶ。薬に盗品、そして、人間。


『上等な女も揃っておりますよ!閣下もどうですか!貴国ではそうそう買えないでしょう!』


吐き気を覚える。とうに破綻している癖に未だ一人前の王国を気取るこの国にも、その汚点を自慢げに紹介する案内人にも。これが本当に来賓の接待になると、信じて疑わない目だ。とんだ見当違いの案内をしていることに気が付かない。


(皇帝陛下から勅命を受けた暁には、ここから真っ先に、滅ぼしてくれる…)


それでも当時、バルトロメイは国賓として招かれていた。小国から大国に対する、ご機嫌伺いのようなものだ。こちらが上の立場とは言え、万が一にも外交問題に発展させるわけにはいかない。怒りを抑え、バルトロメイは大人しく男の後につく。


『出ろ!』


ふと、荷車が目についた。“仕入れ”の瞬間だろう。手枷を付けた女がひとり、無理矢理下ろされていた。


『あれは僻地の遊牧民ですよ』


普段見ない毛色に目を奪われていると、案内人の男が説明を始めた。


『住居も学も持たぬ下賎の民ですが、見目が良い者も多いですからね。ああして捕まえて売り捌くと、そこそこの値が付くのです』

『……』


バルトロメイが無言を返す。彼の属する国とは違い、この国は経済も財政も限界を迎えている。特権身分の者が無分別に尽くす贅沢に、四方を国境に囲まれているが故に掛かる巨額の軍事費。それらは全て増税によって支えられている。だから弱者は、より弱者から搾取するしかない。


(…まるで掃き溜めだ)


『ほら、あの女など、まさにその良い例でしょう?』


男が示すのは、先程泥の中に落ちた女。確かに美しい女ではあったが、闇に浮かぶ白い肌と金の髪は、ひどく儚く見えた。そう言う印象だった。


『残りの遊牧民の隠れ家が分かったじゃないですか。けどあそこはもぬけの殻で、追い掛けようかと思ったらコイツがひとり残ってたんですよ。結構良い品だし、先に売りに来ました。取り逃がした奴等は、また後日にでも捕まえにいきますよ』

『ひとりで…ああ』


彼女のすぐそばに居た男のひとりが、合点がいったように頷く。雨の中だったが、次に出した言葉ははっきりと聞き取れた。


『お仲間から、捨てられたのか』


嘲るような憐れみ。けれど、彼女の置かれた状況はそれ以外に考えられない。少しでも追っ手が来る時間を稼ぐため、部族の生け贄として捧げられたに違いない。


(…可哀想に)


同情はしたが、それだけだ。同じような境遇の者は、ここにはいくらでも居るだろう。バルトロメイとて異国のよく知りもしない女に与える情など、持ち合わせてはいない。


『…私は、』


けれど次の瞬間、彼女から放たれた一言は、その場の誰もが予想だにしていないものだった。


『私は選んで、ここに来ました』


雨の音が止んだ。


『貴方がたが私で足を止めている間に、他の者は逃げました。今ごろは国境を越え、協定を結んだ安全な区域に入っていることでしょう。もう、彼らを捕えることはできません』

『何だと…?』


場の空気が変わる。彼女は髪を持つ男の手を振り払い、今度は自力で顔を上げた。そんな彼女を前に、男は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。


『嘘をつけ。それに本当だったとしても、お前は結局のところ生け贄じゃないか。また強がりを…』

『私を誰だとお思いですか』


その碧に貫かれた男が、びくりと身を震わせる。彼女は口を開き、はっきりと宣言した。


『私は第1族長が娘!シャールカ・ハンゼルコヴァーです!父亡き今、部族を導く長はこのシャールカを置いて他には居ません!』


そう叫ぶ顔は泥に塗れている。空には分厚い雲が掛かり、まともな光源も無い。けれどその暗闇の中で、シャールカの瞳だけははっきりと見えた。まるでそこだけ陽が射しているかのように、光り輝く。


『例え奴隷となろうとも、地獄へ落ちることになろうとも、そこにただひとりでも民がいる限り!私は最後まで彼らの長です!』


決して砕けぬ王の意志。何者にも穢せぬ色彩。あの日、掃き溜めの中で、バルトロメイは金剛石を見た。




「……」


あれから半年が経った。あの小国は、バルトロメイの国の傘下へ入った。問題の多い王政は解体され、例の市場もいずれ無くなる。国が豊かになれば、追いやられた遊牧民も、故郷へ戻れる日が来るだろう。


(喜んでくれるだろうか…)


そして現在、バルトロメイにも転機は訪れている。庭に向かって進む彼の手の中には、書類。あれこれ手を尽くし、半年を掛けて得たシャールカの市民権だった。


(今朝の一件…。関係が変わるまで決して触れまいと思っていたのに。俺も修行不足だな…)


そしてもうひとつ、百戦錬磨の将軍を緊張させる問題の品はもう片方の手に握られている。女性に贈る為の装飾品である。中央には宝石が嵌め込まれ、裏にはクルハーネク家の家紋が刻まれている特注品。彼の国で、婚姻の際に相手に渡す物だった。


(断られたら、どうしよう…)


バルトロメイの視界が、庭に佇む金糸を見つけた。碧い瞳がこちらを捉え、僅かに歪む。


「バルトロメイ様」

「…シャールカ」


彼女の夢が、硝子細工から唯一無二の金剛石へと変わるまで。あとほんの、少しだけ。

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