第七十二話 疑問
あれから――前世の夢を見てから、もう三日が過ぎようとしていた。
日ごとに実感は増していく。昔、前世で何があったのか、大まかに把握することができていた。今やろうとしている劇の設定を、ありきたりな西洋ファンタジーに置き換えることでその全てが説明できる。
俺はとある国の辺境の村で暮らすただの農民だった。その世界には魔物がいた。その親玉を倒すために、俺は都に上り、旅に出た。そしてそれに成功して、褒美代わりに国王の娘と結ばれた。瀬田脚本との違いは、敵が魔法使いか否か、ということだけ。
……嘘みたいな話だが、不思議と俺の中には疑う気持ちは一つとしてなかった。思い出そうとすれば、脳内にあの頃の日々が蘇る。確かにあった出来事なのだ、これは。
当たり前だけど、現代に魔物はいないし、魔法もない。きっと淘汰されたのだと思う。それくらいにこの記憶は、古いものなのだということだろう。あるいは違う世界の過去の話なのかもしれない。
とにかく。俺は俺でしかない、それだけは変わらない。白波幸人は何の変哲もない普通の家に生まれたただの人間だ。前世の出来事を知った今でも、身体に変化があったわけではない。
しかし、それが全てではない。記憶が欠けている。あいつと――雪江と瓜二つの王女様と結婚したまでのことはばっちりと覚えている。その後しばらく、退屈な生活を過ごしたことも。
それ以降が、きれいさっぱりに欠けているのだ。そしてもう一つ、重要な事が――
「お前は、お前は、いったい誰なんだ!?」
つい、立ち上がって、俺は叫んでしまっていた。また夢を見ていた。しかし、それは何度も見た光景だった。さすがにうんざりした。俺が知りたいのはそんなことじゃない。そんな苛立ちから、身体が勝手に動いていた。
しかし――
「ほう、面白いことを言うなぁ……」
こちらに背を向けて教壇に立っていたぼさぼさ頭の中年男の手が、ぴたりととまった。白いチョークが落下して、ポトリという音を立てる。中途半端な文字が黒板には残った。そして彼はゆっくりとこちらを振り返る。
全ての音がやんだ。クラス中の視線が、俺とその男の間で行き来しているのがわかる。静寂の中に、次第にヤバいことをした、という実感が胸の中に広がっていく。
「俺は溝口廉也。この二年一組の担任だ。そして現代文を教える教師でもある」
その声はとても抑揚が効いていた。低くダンディだと女生徒から評判なそれは、今や地獄の底から響いているような感覚すらある。室内によく響き渡って、強く空気を震わせた。
そして、担任の表情といえば。一言で言えば、怒りに満ちている。
ぴくぴくと眉毛が動き、その顔はやや引き攣っている。こういうのを青筋が立っているというのだろう。この四時間目の現代文の時間において、それが初めて俺が学んだことだった。
「授業中に居眠りとはいい度胸だなぁ、しらなみぃ?」
映画の悪役じみた凄みがあった。
「えっと、それは、そのすみません……」
もはや弁解の言葉はなく、俺には俯いて謝罪するしかできない。
そのまま緊迫した雰囲気が教室を支配する。溝口先生がギリギリとこちらを睨んでいるのがわかる。口の中がからからと乾く。俺の今までの人生において、ここまでの失態は初めてのことだった。
だが――
「先生!」
「……なんだ、大力?」
剛の声が一層強く教室に反響した。いったん上方にぴんと伸ばした腕が、彼の隣の席の人物の方を指す。そいつはこの異様な空間の中でも、絶賛机に突っ伏していた。
「小峰君も寝てます」
「……おう、知ってる。はあ。二人まとめて職員室な」
ようやく担任は仕方ないという風に笑みをこぼした。
すると、こだまするように教室が笑いに包まれる。現代文の教師に座っていいぞ、と言われたから俺は静かに腰を下ろした。身体が異様に熱い。そんなに室温は高くないのに、全身汗びっしょりだった。
顔から火が出るような羞恥心にそれ以上堪えることができなくて、ふと窓の方に顔を向ける。それはアリスがいる方向でもあって――
彼女は心配そうに俺を見つめていた。その瞳は、恋人の身にどんな異変が起きたのかを何とか探ろうとするかのように、鈍く輝いていた。
それはこっちのセリフだった。この女はいったい誰なんだ。まだ、前世の彼女は俺の夢には出てきていなかった。
*
失礼しましたー、と気の抜けた風に呟きながら、俺は一人職員室を出る。
しかし、あいつはそうではない。その前科は恐ろしいほどに積み上げられている。だからか、溝口さんはいい機会だから、ととても張り切っていた。その剣幕は、周りの教師たちも苦笑いをするくらいに。
ゆっくりと廊下を歩きながら教室を目指す。昼休み特有の喧騒が、あちこちの教室からこぼれ出ていた。それが酷く俺の中の孤独感を煽る。
さっきからずっと落ち着かないのは、決して高校生にもなって居眠りをかましたあげく、先生に怒られたせいではない。少しずつ前世の自分のことがわかってきたのに、そこにアリスの姿がないことに疑問が募っていく。
あいつは俺の前世の恋人じゃあなかったのか? 思い出した限りでは、あの王女以外にそんな人物は見当たらない。じゃあ、あいつの言っていたことは何だったんだ? ここまで来て人違いだなんてことがあり得るだろうか。
ここ最近、いつも同じ問いが頭の中をぐるぐるしている。答えは出ることはない。結局のところ、どっちだっていいんだ。前世のことは。そういう風に結論付けたはずだ。あの時に。
気になっているのは、いきなり前世のことを思い出したからにすぎない。一時の気の迷い、そう結論付けて、これまた騒がしい自分の教室の
いつものように――といっても一人足りないが――窓際後方でみんな集まっていた。アリスが真っ先にこちらに気が付いた。すると嬉しそうな顔をする。
「はい、幸人さん。おべんとうです!」
「サンキュー」
席に着くと、可愛らしいピンクの包みを渡された。
「……アリスさんはいつも二人分用意して疲れないの?」
「いえ、全く! 幸人さんのことを思うとこれくらいなんともないです!」
「……相変わらずだね、アリスちゃん。いいなぁ、そんな愛を剥き出しにできる相手がいて」
「愛を剥き出しって……なんだか生々しい表現ね、唯さん」
女子たちが盛り上がるのを、俺はどこか遠い想いで眺めていた。
とりあえず、包みを開く。二段重ねのそれは、元々俺が使ってたものだ。アリスのやつ、いつの間にか俺の母さんからそれを譲り受けたらしい。
すると、大男が一人俺の目の前の空席に座りだした。
「で、どうだった、初めて呼び出しを食らった感想は?」
「別に期待してたほどのことはなかったよ」
おおよそ、とういうことには縁遠いだろう友の問いかけにすげなく答える。
「もう一人は?」
「まだ絞られてる」
俺はぎゅっと雑巾を捻る仕草をした。
「ははっ、溜まりに溜まってってやつだな。学のやつ、近頃ろくすっぽ起きてやがらん」
「仕方ない、あいつの全勢力は泳ぐことに傾けられてるから」
「いや、最近も一つギャルゲークリアしたとか自慢してたぞ?」
それが原因で寝不足とかじゃあないだろうな……。と一瞬不穏な考えがよぎったものの、授業中寝るのは年中通してだから、関係ないと結論付けた。
気を取り直すようにして、とりあえずだし巻き卵に手を付ける。
「どうですか、幸人さん」
「ああ。とっても美味しい」
「そうですか、よかったです!」
手を合わせると、彼女はぱぁっと表情を明るくする。
「はあ。そろそろこのバカップルを目の当たりにするの、きつくなってきたなぁ」
「奇遇だな、吉永。俺も同じだ」
「……えっ! そ、それって、まさか」
「あらぬ想像をしていそうね、この娘……」
そんな変わりない日常風景を前にして、俺はようやく気分が落ち着いてきた。結局、過去がどうであれ、俺の現実はここにしかない。あれは、ただの物語。全てを知る必要はないじゃないか。
恋人の作ってくれた弁当に舌鼓みをうちながら、そんな想いに浸る。俺が生きているのは、昔ではなく、今なのだから。
「……あの、幸人さん。最近どうしたんですか? どこか変ですよ」
まだ少し騒いでいる三人(主に吉永だが)をよそに、アリスが耳元で囁いてきた。
「ああ、大丈夫……とは言えないか。心配かけて悪い。ちゃんと話すから」
優しく告げると、彼女は何度か瞬きを繰り返した。そして、落ち着きのある笑みで「わかりました」と静かに頷くのだった。
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