第五十話 転機

 廊下はいつもよりひっそりと静まり返っていた。きっと、中部活がどこもやっていないからだろう。ちょうど一週間前には聞こえていた音が今は何もしない。


 しかし、今日は何なんだろう。まさか、勉強会があんな大所帯になるとは。しかもあいつ……雪江までいて。しかも結構、普通な感じで話しかけてきやがったし。

 高校に入ってこれで二度目。しかもどちらも二年生になってからの出来事だ。かれこれ十年以上の付き合いだっていうのに、ほんと不思議な話。


 後、柳井も意外と真面目にやってたな。いつもみたく明城にぐいぐい迫ると思ってたが。本当に勉強がヤバいのか。そもそも諦めたのか。どちらにせよ、揉めないで済むなら越したことはない。


 特に一階は本当に静かだった。体育館も稼働してないらしい。大講堂も同様。グラウンドとプールくらいか、活発なのは。

 購買はもう閉まっていた。まあ別に開いていたところで、自販機を使うからいいけど。硬貨を投入すると、飲み物のボタンが光った。お茶にするか。そう決めて一番上のボタンに手を伸ばしたら――


「これにしよ」


 いきなり誰かの腕が伸びてきた。中段の列に。ピー、ガタン、ゴトン。飲み物が落ちる音。不思議なことに、俺の指はボタンに達していない。

 犯人は俺の腕の下を潜り抜けて屈みこむ。すると、さも当然といった感じに商品を取り出した。セミロングの黒髪、チェックのスカート、黒いタイツ……女子生徒だ。女装してなければ。


「……何してるんだ、お前?」

 とりあえず、腕を引っ込めてその背中に声をかける。 

「飲み物を買ったのよ。見てわからない?」


 彼女の声は少しも悪びれた様子はなかった。それどころか、そんな当たり前のことを聞くな、という馬鹿にしたような感じを含んでいる。そして、依然として屈みこんだまま。

 ふむ、確かに。その説明は至極納得できる。彼女がしたことといえば、赤い光が灯ったボタンを押したこと。そうすれば、飲み物が出てくるのは小学生以上なら余裕で知っている。その行為の名前は買い物、だ。


 しかし、一つ問題があって――


「人の金だぞ」

「相変わらずケチね」

 相変わらずの意味が分からなくて、眉間に皺を寄せて俺は首を傾げた。

「そういうの、窃盗って言うんだぞぜ」

「なにその言い方。大力君の受け売り?」

 奴は小馬鹿にするように、ふんと鼻を鳴らした。


 そこでようやく彼女――湊雪江は立ち上がった。左側に一歩ずれながら。スカートの裾をぱんぱんと払うと、ついに顔を上げた。

 軽やかに言葉を紡いでいたくせに、なぜかいつも通りの無表情だった。つんとした、少しきつめの顔。すらっとしたスレンダーな体型。明城とはまた違う系統の美人だとは思う。意外と、男子からの人気は高い。


「受け売りも何も、れっきとした事実だろ」

「じゃあ通報でもしますか、白波君?」

「金を返すという発想は?」

「ありません。財布持ってきてないもの」

 しれっとした顔で奴は首を振った。


 何言ってんだ、こいつ? こんなキャラだったか、湊雪江という女は。記憶にある姿は、おてんば娘。元気いっぱいでお節介、甲高い声も合わさってうるさい奴だ。


 しかし、中学以降に限るとあまり喋らない女子。大人しいというわけではなく大人っぽい。クールで、ちょっと陰のある感じは、クラスの中でも一目置かれている。だから、柳井グループなんだろうけど。


 とにかく、今のこいつがこんな悪戯めいたことをしているというのが、いまいち信じられないでいた。そもそも、避けられてたと思ってたけど。


「で、何の用だ、いったい?」

「だから飲み物を買いに――」

「それはさっき聞いた。というか、じゃあなんで財布を持ってこないんだ!」

「そこにあるからいいかな、と」

 びしっと彼女は俺の左腕を指さした。

「俺の財布だ!」


 なんだってんだ、本当に。調子狂うな……。とりあえず、その落ち着いた声のトーンと、恐ろしいまでの無表情をやめて欲しい。行動との違和感が本当に凄まじくて落ち着かない。


 そのまま睨み合うこと数秒。どこまでも澄んだ瞳は果たして何を考えているのやら。なんだか不気味すぎて、俺の方から視線を外した。

 仕方ない、もう一個買うか。この間今月のお小遣いが入ったから、財布にはまだ余裕がある。百五十円は溝(どぶ)に捨てたと思えば惜しくない……わけないけれど。これ以上、話したところでお金が帰ってくる気配はない。


 ピッ、ガタン、ゴトン。するはずのない、二度目の音が鳴った。今度はちゃんとお茶を選んだ。取り出し口からそれを手にする。


「ありがとうね、奢ってくれて」

「そんなつもりはなかったんだけどな。もう一回聞くけど、何だ一体?」

「……ねえ、どうしていきなり勉強なんかしてるの?」


 なんと、びっくり。質問に質問が返ってきた。こんなにコミュニケーションが取りにくかったか、この女は。

 しかしまあさっきよりはましか。真面目に話すつもりではあるらしい。まあ、こっちは自販機に身体を向け、向こうは正面を向いているから、視線が交錯することはないが。俺はまたしてもあの澄ました横顔を見る羽目に。


「学生の本分だからな」

「中学の頃は全然そんなことなかったのに? あなた、努力は嫌いじゃなかったかしら?」

 薄い笑みを浮かべながら、氷の女王は首を傾げる。


 こうしていると、あの時のことを思い出す。水泳部を辞めた一週間後くらいだっただろうか。うちの中学校には購買なんて大層なものはなくて、何の変哲もない教室前の廊下だったけれど。

 あいつもまた、その時のことを思い浮かべているんだろうか。だとしても――いや、、なぜこうも食って掛かってくるのかよくわからない。


「別に。考え方が変わるってこともあるだろ」

「……明城さんのせい?」


 途端、彼女がくるりとこちらを向いた。突然なにかひらめいたみたいに。ひらりと揺れるスカート。明城といい、こいつといいその着こなしは完璧だ。

 すかさず二三歩こちらに近寄ってくる。後ろに下がろうにも、残念ながらそこには壁。ある種、目の前にいるのも壁みたいなもんだが――じゃなくって。


「近いんだけど、雪江」

「そんなことないわよ、幸人」


 昔のように名前を呼び合う。あいつの顔は鼻先にあった。つま先立ちして、目いっぱいその身体をこちらに向かって伸ばしているから。少しでも妙な動きをすれば、きっと色々な場所に身体がぶつかる。

 しかし、美人になったもんだ、改めて思う。昔は男勝りで、クシャっとした笑い方が特徴的な、垢ぬけていない女子だったんだけど。

 その大きな瞳に見据えられて、たちまちに心拍数が跳ね上がる。早く何とかしなければ。ちょっとどぎまぎしていると――


「あっ! ちょっと何してるんですか!」


 ――突然、誰かの叫び声が聞こえてきた。いや、誰か、じゃない。その主を俺はとてもよく知っている。そして、それが今一番見つかりたくない人物でもあった。

 ゆっくりと、慎重に顔を横に向ける。年季の入ったカラクリみたいに。心臓はもう破裂してしまうんじゃないかと思えるくらいに躍動ていた。


 そこには案の定、明城がいた。目を大きく見開いて、顔を真っ赤にしてプルプルと震えている。怒ってる、というか、今にも泣き出しそうな――


「やめてください! 前世の時みたいに、ユキトさんを独り占めしないで!」


 放たれた悲鳴は、とんでもないものだった。今度は、恐る恐る幼馴染の方を見る羽目に。彼女はとても怪訝そうな顔をしていましたとさ。

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