第四十九話 成長
「隣、失礼するぞ」
一応、その真直ぐに伸びた背中に声をかける。
雪江はたぶん頷いてくれた……と思う。かすかにその頭が上下して髪が揺れた気がするが自信はない。彼女は相変わらずこちらを一瞥しようとすらしない。
教室内はやはり昨日と変わらず、いくつかのグループが集まって勉強していた。今日は見覚えのない顔もある。他のクラスのやつもいるらしい。……未だ、クラスメイトの顔と名前が一致しないから、誰が誰やらだが。
「何してたんだよ、白波。アリスちゃんと二人で」
「いや別に」
席に座るなり、左斜め前にいる柳井の鋭い声が飛んできた。それを適当に受け止めつつ、鞄から勉強道具を取り出す。生物でもやろう、そう決めた。
どの科目も周回するのが基本線となっている。新しく学ばなければいけないことはほとんどない。教わったことを定着させれば、まあテストも大丈夫だろう。……現時点で手応えはないが。
「あっ、生物ですか? なんでも聞いてくださいね、ユキトさん。昨日の分、挽回させてもらいます!」
「アリスちゃん、私のことも見捨てないでね~」
「はい、大丈夫ですよ、唯さん」
微笑みを俺と吉永に振りまく明城。絶好調だな。
「アリスちゃん、俺も――」
「柳井さんは大力さんにでも聞けばいいじゃないですか。ちょっと距離ありますし、わたくしでは役不足です」
その言葉になぜか剛が、ぷっと噴き出した。少し前屈みになって、口元を押さえる。それでもなお笑いが堪えきれてないらしく、プルプル震えている。
そして、雪江も一瞬ぴたりと動きを止めた気がした。しかし、次の瞬間にはまた淀みなく手を動かしている。……一体何がおかしいやら、さっぱりわからない。
そんな風に素っ気なく言葉を返して、明城はすぐに自分の手元に視線を戻した。心底、あの男には興味がないらしい。熱心に、謎の科目(たぶん地学)の教科書を読みこんでいる。
なお、冷たくあしらわれたイケメン殿は口をあんぐりと開けたまま、目を白黒させていた。なかなかに衝撃を受けているらしい。少しだけ気の毒になった。
「ま、まあ、柳井。俺でよければ力を貸すから」
「……アリガト。ってか、なんでさっきから笑ってんだ?」
「いや、わからないならいい。知らぬが仏ってやつだ」
その言葉に、ぴんと来ないのは彼だけでなかった。わかっているのは、さっき反応を見せた二人と、発言した当の本人だけ。……後で、教えてもらおう。
特に問題なく、時間が過ぎていく。時折、雪江を除いた例のグループの三人や吉永がわからないと悲鳴を上げる。それを俺以外が解決をするのだが――
「幸人、すまんが、真島の面倒を見てやってくれ。ちょっと柳井の方で手いっぱいでな」
「いいけどさ、何の科目?」
「化学だ、白波。悪いけど、よろしく頼むよ」
真島は顔の前で手を合わせている。
そういうことなら仕方ないか、俺は席を立った。しかし俺に何とかできるんだろうか。誰かに勉強を教えるだなんて、それこそ小学校の授業の時以来だぞ。少し不安に感じながらも、向かいの端の彼の元へ。
「ここなんだけど」
「うん、ああ。これなら――」
真島は指で該当箇所を示した。それは、昨日俺が剛に訊いたところでもあった。なるほど、これならわかる。だから、あいつは俺に任せたのか。
丁寧に解法を説明していく。手本にするのは、癪だが明城。全てを一から十まで話すのではなく、所々真島本人に考えさせながら。
すると、奴は見事にその問題に正解した。
「おおっ、できた。サンキューな、白波」
「いや、これくらいなんともないさ。わかってもらえたのなら、何よりだ」
「しっかし、お前、意外と頭いいんだな。知らなかったよ。それに教え方も上手いし」
彼が向けてくるのは純粋な眼差しだった。本当に心の底から感心しているみたいだ。わざとらしいところは一つもない。
「そ、そうか? そんなことないと思うが」
ちょっと気恥ずかしくて、俺はどぎまぎしながら言葉を返した。
「いいや、少なくとも大力――」
「なんか言ったか?」
柳井に向かっていたはずの剛は、鋭いまなざしをこちらに向けてきた。
「ハハハー、ヤダナーオオリキサン、ジョーダンデスッテ」
動揺が隠せていないぞ、間島……。出来の悪いロボットみたいな口調になっているし。その笑顔は引き攣っているし。
内心呆れながらも、同じことを思う。どうやら剛の教え方が下手なのは、俺の気のせいではないらしい。ちょっとわかりづらいところあるんだよな……。
「全く……って、柳井。また同じとこ、間違ってんぞ」
「え、マジで! あ、ほんとだ。……あれ、どうするんだっけ?」
「お前なぁ……」
少し苦戦しているのは、果たしてどちらのせいなのか。
「じゃあ、俺戻るから」
「おう、本当にありがとうな、白波。また頼むかもしれないけどいいかな?」
「俺でよければ」
話し込んでいる雪江と寒河江の後ろを通って自分の席に戻った。心の中は、謎の高揚感で満たされていた。胸の高鳴りを感じながら椅子に座る。
「凄いですね、ユキトさん!」
すると、奴がいきなり話しかけてきた。
「いつもお前や学が平気でやってることじゃないか」
「照れてるんですか?」
「うるさいよ。ほら、吉永が困ってるみたいだぞ?」
「え? ――あ、本当ですね。唯さん、どうかしましたか?」
「あの、ここなんだけど――」
俺の方を見てニヤニヤしていた明城は、今度は嬉しそうに自らの友人の方に向かった。
次から次へと忙しい奴だ。しかし、ちょうどいいタイミングで、吉永の手が止まってくれてよかった。そのまま、あいつに話しかけたそうにしてくれたし。
さて、俺も続きを。そろそろ、一週目が終わる。これが終わったら次の科目をやろう、そう思っていたら――
「ユキちゃんも、わからない?」
「ううん、ちょっと待って夏美。少し考えさせて」
どうやら雪江たちが困っているらしい。ちらりと、剛の方を見るがまだ柳井に何かを説明している。明城は言うまでもなし。
まあ少し待てば、どちらかの手が空くだろう。気にはなるが、さっきみたくうまくいく保証があるわけでもなし。一度目の成功で味を占めて、というのはよくある話だ。
「白波に訊いてみよっか。なんか頼りになりそうだったし。――ねえ、白波!」
「……はいはい、なんでございましょう?」
物騒な言葉が聞こえた時には遅かった。仕方なく立ち上がって、今度は寒河江の近くへ。
それは数学の問題だった。テスト前に出される対策プリント。これを完璧にすれば、テストは九割取れるという触れ込みになっているもの。
二人が悩んでいる部分は、どうやら相加相乗平均を応用する問題らしい。着眼点が難しいだけで、一度ひらめけば後はするすると解ける。
「ここほら、ちょっと見づらいけど――」
俺はなるべく寒河江の方を見るようにして、解説を始めた。先を促す質問をぶつけたところ、答えてくれたのは雪江の方だったけど。
「へー、なるほどね~」
「ほんとうにわかってるの、夏美?」
「ちょっとは」
その曖昧な笑い方は絶対しっくりいってない。
「悪い、教え方がよくなかったみたいだな」
「気にしないで、白波君。あなたには問題ないわ。夏美がそもそも基礎からわかってないのよ。だから、後回しにすれば、って言ったのに……」
「ごめんってばー、でもほら、気になっちゃって」
揉めている二人を横目に席に戻る。問題が解決したのなら、長居は無用。ちらちらと明城がこっちを見ていることに気が付いて、心穏やかではなかった。
「ありがとね、白波君。助かったわ。でも、あなたそんなに勉強できたのね?」
着席するなり、今度は雪江が声をかけてきた。しっかりとこちらの目を見据えながら。そして、驚いたように目を見開いて、少し首を傾げている。そこにいつもの氷のような無表情はなかった。
「ま、日々努力してるからな」
「そうです、ユキトさんは毎日頑張ってます。頑張り屋さんです! この前もい――」
「明城? ヒートアップし過ぎだぞ。ちょっと静かにしような」
その後に続く言葉が本当に物騒なものだと察しがついて、俺は慌ててあいつの声を遮った。唇に人差し指を当てて、きつくその顔を睨む。
「す、すみません。わたくしとしたことがはしたない真似を……。ごめんなさい、湊さん。この間のことも、申し訳ありませんでした」
明城は気まずそうな顔をしながら、少し肩を落とした。
「この間? 何かあったかしら?」
雪江の形のいい眉毛がちょっと歪む。顎に指を当てて、思い返しているようだった。
「……とぼけてるんでしょうか?」
耳元で囁いてくるのはやめて欲しい。くすぐったくて、恥ずかしい。
「いや、本気で取るに足らないことと思ってるんじゃないか」
同じく小声で俺は応じた。
「――まあ、なんにせよ、私は明城さんのことは嫌いじゃないから、問題ないわよ」
少しだけ優しい笑みを浮かべて、彼女は再び視線を正面に戻した。そして、自分の勉強に励んでいく。その涼しい横顔には、さっきの親しみやすさなど微塵にも感じられなかった。
しかし、こいつの笑う姿なんて久しぶりに見た気がする。ほんの微かなものだったけれど。少し不思議に思いながら、ペットボトルに手を伸ばした所、それが空っぽなことに気が付いた。
「ちょっと飲み物買ってくるよ」
「行ってらっしゃいませ」
深く腰を折る明城。
どこかふわふわした気持ちを胸に、俺は財布を持って教室を出た――
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