第五話

「ただいまリリィ」

 ダベンポートは夕方遅くに帰宅した。

 クレール家は魔法院から馬車で一時間半くらいの場所に位置している。

 クレール家を五時すぎに出ても家に着くのは七時頃。魔法院でペーパーワークに追われている時と大して変わらない。

「お帰りなさいませ、旦那様」

 ドアの音に気づき、トタトタとやってきたリリィがすぐにインバネスコートを脱がせてくれる。

「…………?」

 ふと、ダベンポートは良い匂いがキッチンから玄関にまで漂ってくることに気づいた。

「今日の夕食は何かね?」

 鼻を動かしながらリリィに訊ねる。

「今日はフィッシュパイにしました」

 ダベンポートの前で、手を後ろで組んだリリィがニコニコと笑う。

「上手にできたのでちょっと嬉しいんです。お魚はオヒョウハリバットにして、ちょっとエビも加えました。ソースは隣国風のホワイトソース、マッシュポテトにはチーズを練り込んだのですが、これが良かったみたいです」

 聞くからに美味しそうだ。

「それは美味しそうだ」

 自然と顔が綻ぶ。

「スープはグリーンピースのポタージュにしました。パイとよく合うと思います」

…………


 駅前の魚屋フィッシュショップ辺鄙へんぴな場所にある割には品揃えが良い。オヒョウハリバットコッドスケソウダラポラックなどの白身魚の他、北から運ばれてきたサーモンや巨大なカニ、ハサミが大きなエビが並ぶこともある。

 サー・プレストンの一件以来、料理好きなリリィのためにダベンポートも熱力学呪文を使ってときおり氷を作るようになっていた。

 氷を冷蔵庫の中に入れておけば食材の鮮度を長く保つことができる。今までは氷室ひむろに保存する氷は魚屋フィッシュショップで買っていたのだが、自分で作ってしまった方がはるかに効率が良い。

「うんリリィ、これは美味しいね。チーズが良く合っている。このポテトには玉ねぎも入れたのかい?」

「はい」

 リリィは微笑んだ。

「しばらく炒めてきつね色になった玉ねぎを練りこみました。隣国の技法だそうです」

「隣の国の連中の食べ物に対する情熱は異常だからなあ」

 ポテトと白身魚を口に運びながらダベンポートはリリィに言った。

「でも、とっても勉強になります。王国のお料理は焼くか煮るしかしないですけど、お隣の国では野菜以外を蒸したりもするみたいです」

「へえ」


 食事が終わってから、ダベンポートはリリィを誘ってリビングでお茶を楽しむことにした。

「今日はお魚だったのでお茶は東洋の碧螺春ピールオチューンにしてみました」

 リリィが丁寧にお茶をティーカップに入れてくれる。紅茶と違って色が薄い。

 すぐにリビングが甘い芳香に満たされる。

「ふむ、良い香りのお茶だね」

 お茶の香りを楽しんでいると自ずとリラックスする。

「このお茶は紅茶とは違って何回も同じ茶葉で淹れる事ができるんですって。しかも毎回味が違うようです」

「ふーん、面白いな」

 ふとダベンポートは気になっていた事をリリィに訊ねてみることにした。

 騎士団を入れてクレール邸の捜索を初めてもう三日経つ。

 だが、それらしい手がかりはまだ掴めていなかった。

 もう三階まで捜索はし尽くした。クレール夫人の居室にも不審な形跡はなかったし、無くなった持ち物も特にはない。

 本当に、ただ本人だけが影の様にいなくなってしまったかの様だ。

「リリィ?」

 ダベンポートはリリィに話しかけた。

「はい」

 リリィがすぐに姿勢を正し、ダベンポートの方に身体を向ける。

「今扱っている事件は夫人の行方不明事件なんだ」

 まあ、家族になら多少事件の事を話したところで問題にはならないだろう。

「……殺人事件なんですか?」 

 リリィは心配そうに眉をひそめた。

 魔法院がいつも血生臭い事件を扱っている事はリリィも噂話で聞いていた。

 そしてダベンポートがいつもその中心にいることも。

「いや、それがそうではなさそうなんだよ」

 ダベンポートはリリィに説明した。

「もう随分と屋敷の中を捜索したんだが、それらしい痕跡が見つからない。どうやら誘拐の線もなさそうだし、今は蒸発なんじゃないかと疑っている」

「蒸発……」

「リリィはたまに女性雑誌を読んでいるじゃないか。そういう雑誌に何か蒸発に関連したゴシップとか載っていないかい?」

「わたしが読んでいる雑誌はお料理の記事の方が多いんですけど」

 顎に人差し指をあて、宙を仰いで考える。

「蒸発ではないですけど、出奔しゅっぽんのゴシップならたまに載っています」

出奔しゅっぽんでも構わない。どんな事が書いてあるんだね?」

 ダベンポートは先を促した。

「たいがいは身分違いの恋愛沙汰です。メイドが誰かと駆け落ちしたとか、どこかのご夫人が使用人と逃げたとか」

 思い出しながらリリィはダベンポートに言った。

「いなくなったのは屋敷の夫人なんだよ」

 ダベンポートは少し情報を補足した。事件の背景がわかった方がリリィも話しやすいかも知れない。

「結構よくあるみたいですよ、使用人と連れ立って奥様が旦那様の元から逃げてしまうってこと」

「へえ」

 案の定、リリィの答えが具体性を帯びてきた。

「お屋敷からいなくなった人は他にはおられるんですか?」

 やる気になったのか、リリィは逆にダベンポートに質問した。

「いや、いないね。いなくなったのは夫人一人だ」

「そうですか……」

 再び考える。

「じゃあ、お金や宝石がなくなったとかは?」

「それもない」

「不思議ですね」

 リリィは顎に手をやると顔を伏せた。

 長いまつ毛がリリィの白い頰に影を作る。

「ご夫人が一人で家を出るとしたら、絶対にお金は必要だと思うんです。身一つでいなくなるってなんか不思議」

 リリィがそんな考え方をするとは思わなかった。リリィは意外とリアリストなのかも知れない。

「あっ」

 リリィはふいにパチンと手を合わせた。

「この前セントラルに遊びに行った時にブラウン・カンパニーのお芝居に出たお話はしましたよね」

 リリィはブラウン・カンパニーで歌劇に出演した顛末もちゃんとダベンポートに報告していた。もっとも、都合がいい部分だけだが。拉致された方の話はうまくはぐらかせた。

「ああ、舞台で歌をうたったって話だろ?」

「はい。あの時、本当の主演だったレーヴァさんはテントの中に隠れていたんです。でも、劇団の人たちは外ばっかり探していたから……」

「見つからなかった」

「そうです。そのご夫人も同じなのではないでしょうか?」

 リリィの頰は少し紅潮していた。

「どういう事だね?」

 ダベンポートはリリィに訊ねた。

「どういう事情かは判らないですが、お屋敷の中に隠れているのであればいくら他を探しても見つからない事の説明にはなります」

「うむ……なるほど」

 確かにそれは考えなかった。

 失踪偽装か。それが殺人ではなく狂言なのだとしたら、確かに男爵や使用人達の妙に悠長な態度も頷ける。何も慌てる必要はない。ただ隠れているだけなのだから。

 誘拐でも、殺人でも、蒸発でもない。

 第四の可能性。

 ただ、理由が判らない。

「リリィ、それは面白いね」

 ダベンポートは頷いた。

「それはとても面白い。明日はちょっとその線で調べてみよう」

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