蒼穹の剣

まつこ

第1話

かつて大きな戦があった。

ほんの20年程前のことだ。地上の豊かさを妬んだ地下世界の住人、「魔族」達が、人の領域に侵攻してきた。今まで人々の知らなかった不可思議な魔術を使い、人々を追い詰める魔族達。もはや人に抗う術はないと誰もが諦めかけていた時、現れたのはたった4人の剣士達だった。剣士達は「聖剣」と呼ばれる力持つ剣を用い、今まで魔族だけのものだった魔術を剣技に乗せて使いこなす。彼らの伝えたこの技術によって、人は勢力を盛り返し、魔族を地下に封印した。

この世界の剣士という言葉は、聖剣持ちて超常の力を振るう、英雄達を指す言葉である。


夕暮れの山奥。そんな辺鄙な場所に建つ一軒家の庭で、木剣の音が鳴り響いている。訓練用と侮るなかれ。その木剣もまた魔力を剣技として放出する聖剣である。そう言われると聖剣という名から受ける印象の割に陳腐なのだなと笑われそうであるが、この世界では魔力の媒体になる素材が使われた剣はなんであれ「聖剣」と呼ばれる。

木製の物同士がぶつかり合う音がしばらく響いたが、やがて一際大きな音と共に片方が弾き飛ばされると、それは止んだ。


「今日はここまで。よく頑張ったな、ソラ」


そう目の前の少年に語りかけるのは、身の丈190センチはあろうかという偉丈夫である。力強い質の黒髪と、同色の瞳。しかしてその眼差しは彼の心の優しさを隠さない。隆々とした筋肉は、彼が優れた剣士であることを証明している。


「はい、ありがとうございました、父さん」


立ち上がり、頭を下げる少年の名はソラ。目前の父であるアスールとは対照的に体つきは細いが、その立ち居振る舞いは一人前の剣士のものだ。ただ、邪魔だとしか思えない左目を隠す前髪が、他者に不思議な印象を与える少年だった。


「今日の夕食の当番は俺だったな、ゆっくり休め、ソラ」


そう言ってアスールは家の中に戻り、ソラもそれを追う。玄関から少し進めば、ダイニングキッチンが2人を出迎えた。

その片隅の椅子の上に置いてある絵の前に立ち、2人は静かに、「ただいま」と言った。

その絵はアスールの妻であり、ソラの母であるマリンの姿を描いたものである。彼女は故人であり、この絵は生前の姿をアスールが描いたものだとソラは聞かされている。鉛筆だけで描かれた素朴な絵だが、優しげな瞳と微笑みは、彼女が良き妻であり母であったことを物語っている。

そんな彼女に帰りの挨拶を告げると、アスールは台所へ、ソラは中心のテーブルへと向かった。


「ソラ、何か食べたいものはあるか」


「特に希望するものはないかな、父さんの料理なら全部美味しいし」


「お前はもう少し欲を出したらどうなんだ」


「そんなこと言われても、僕は今の生活に満足してるしなぁ」


「まったく誰に似たのやら」


他愛のない親子の会話。だがこんな時間がアスールにとってもソラにとっても喜ばしいものだった。

暇を持て余したソラが昔父から教わった歌を小声で歌い出した時、家の入り口の扉を叩く音が聞こえた。


「客か?珍しい」


「僕が出てくるよ」


ああ、頼んだ。というアスールの返答を聞き終わらない内に、ソラは玄関へ小走りに駆けていく。ドアノブに手をかけて、笑顔と共に出迎えの言葉を告げようとした。


「こんばんは、どちら様で……っわ!?」


それを避けられたのは奇跡か、あるいは普段の訓練が実を結んだのか。

ソラの首の横数センチを、細身のロングソードが通過していた。


「いきなり何を……ひっ!」


刃を見据え、尻もちをついた状態から、ゆっくりと首を回し、客……とはもう言えないだろう侵入者の表情を確認する。そこにあったのは怜悧なる紅の瞳、冷徹なる純白の髪と冷酷なる白磁の肌だった。

魔人。数ある魔族の種類の中でも、特に人と同じ形をしたものをそう呼びならわす。最早歴史の教科書と、人々の記憶の中にしかいない存在が、ソラを見下ろしていた。


「悪運の強いことだ」


男の声はあくまでも平坦で無感動だった。剣が振り上げられる。夕日を浴びて魔人の瞳と同じ色になったそれを見て、ソラは生まれて初めて死というものを感じた。


「ソラッ!」


その死とソラの間に割り込んだのはアスールの剣だった。寝る時と風呂に入る時以外片時も離さぬ彼の愛剣が、魔人の凶刃を受け止めている。


「下がれ!」


父の指示でようやく我に返ったソラは、すぐさま飛び退り、魔人の剣の間合いから離れる。


「オォッ!」


息子の無事を確認したアスールが、裂帛の気合と共に魔人を家の外へと押し出した。


「衰えてはいないようだな、アスール」


「貴様もな、スカーレット!」


どうやら2人は知り合い……というより、因縁の相手であるようだった。アスールの瞳には、ソラには見せたことのない怒りと憎しみの炎が灯っている。そして魔人……スカーレットの瞳の奥には、それを受け止めて吸い込む闇があった。


「マリンは元気にしているよ、もうお前を愛してなどいないそうだ。お前を殺してくれと頼まれた」


その言葉を放った時、初めてスカーレットの感情が顔に現れた。嘲笑という形としてだ。


「貴様の妄言に付き合うつもりは無い!」


アスールの剣撃が飛ぶ。それを皮切りに、凄まじい剣技の応酬が始まった。

スカーレットの使う魔術によって家の前が一瞬で焼け野原になる。

アスールの一撃が外れ、剣は地面スレスレで止まったというのに、周囲数メートルが抉れ、クレーターを作り出す。

そんな凄まじい戦いが、どれほど続いたであろうか。数時間にも感じられたが、夕日はまだ完全に沈んではいなかった。

決着はあっけないものだった。

銀色の光が閃く。真紅の鮮血が溢れる。血溜まりの海の中倒れたのは、黒髪の剣士、アスールであった。

しかしスカーレットも限界のようで、白い髪も肌も瞳と同じ色に染まり、息は荒かった。


「父さん!」


家の中からソラが叫び、アスールに駆け寄る。そんな無防備な少年に剣を振るう力も、スカーレットには残っていなかった。


「本当に、悪運の強いことだ……」


掠れ声でスカーレットは呟き、親子に背を向けた。もしこの時ソラがアスールの剣を拾い上げ、スカーレットの背に突き立てれば、スカーレットを討つことが出来たかもしれない。しかしソラはそうしなかった。敵を討つことよりも、血に濡れた父と最後の言葉を交わす事の方を優先したのだ。


「ソラ……」


「父さん!喋らないで!血が……!」


心配する息子の言葉を、しかしアスールは首を横に振って否定した。


「ソラ、俺の部屋に手紙がある。それを持って、この山の頂上から見える街に行け。そこには俺の古い友人がいる。悪くはしないだろう」


「そんな!行かないよ!父さん、生きてよ!」


ソラの涙が、アスールの血と混じり、地面に吸い込まれていく。


「ソラ、お前の母さんは生きている」


「えっ……!?」


「お前の母さんは魔人だった。俺達は戦争の中で出会い、愛し合い、お前が生まれた。だが母さんはあのスカーレットに攫われ、地下の世界に帰されたのだ。大丈夫、お前はまだ1人ではない。しかし今はもう平和な時代だ。無理に仇を討つ必要も、母さんを追う必要も無い。自由に、幸せに生きろ、ソラ」


言い終わるとアスールは激しく咳き込んで喀血し、静かに目を閉じた。それが命の最後だと、ソラは理解する。

泣き叫ぶことはなかった。声を押し殺して、ただ、泣いた。昔父との試合に負けて声を上げて泣いた時、剣士がそんなみっともない泣き方をするものではないと叱られた。その叱責のせいで余計に泣いたが、その後アスールに優しく頭を撫でられて宥められた。

辛い鍛錬の思い出も、喧嘩した思い出もあったはずなのに、今思い出すのは、そんな美しい思い出ばかりだった。


アスールが死んで、数週間が経った。マリンの肖像画が置かれた椅子の横に、新たな椅子が置かれている。それはアスールが普段食卓につく時座る椅子だったが、今はその上にアスールの写真が置かれている。写真写りが悪い、似合わない、などと照れ笑いしながら撮られた写真で、撮影したソラの腕も良くなかったため、ところどころがぼやけているが、それがアスールを写した唯一の写真だった。


「父さん、母さん、行ってきます」


父母の写真と絵に一礼して、旅支度を整えたソラは慣れ親しんだ我が家を後にした。父の遺言に従い、山の頂上から見える街、王都へと旅立つのだ。

山歩きは幼い頃から何度もやっているし、目視でも王都はそう遠くはない。少しの不安を歩を進めるごとに踏み潰しながら、ソラは山を下りた。

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