今宵の真珠は誰のもの

梅星

第1話

 その夜、万有引力までもが、彼に恋をした。


 艶やかなドレープを思わせる濃紺の空は、しっとりと肌を包み込む極上のドレス。

 時折髪を躍らせる風は、とっておきの機会に身に纏うベルベットのリボン。

 そして何より、私の肩を、腰を、熱く力強く抱き寄せる貴方の腕。

 それだけで私は、この世界の誰よりも可憐なヒロインへと一瞬で変わることができる。

 そのことを、たった今知った。


「怖いかい?」


 そっと、低く囁く声に、耳どころか首筋まで赤くなっていることが自分でもわかる。胸が甘く締め付けられて、思わず漏らした吐息は、私の知らない熱を帯びていた。

 そっとかぶりを振ると、彼は安心したように、私を抱く腕に力を込めた。それだけで、この内側に満ちる、私の知らない私の気持ちが溢れでてしまいそうで、私は思わずぎゅっと目を閉じた。

 そう、怖くない。

 先程まで、暗く狭い路地裏で、知らない男たちに取り囲まれていたことなんて、まるで遠い世界の出来事のようだった。薄汚れた感情を、ヘドロのように垂れ流し撒き散らす彼らに、私の悲鳴が飲み込まれそうになった時--


「女性をデートに誘うやり方としては、感心しないな」


 凛とした声が、淀んだ空気を一瞬で切り裂いた。そして軽やかなステップを踏みながら、長い手足が彼らを次々と撫でていったのだ。なぎ倒したのでも殴りつけたのでもない。ただ優雅に、時に気まぐれに触れるだけで、男たちは音もなく地に伏していく。そうして気がつけば、彼は--私の前に立っていた。


「もう大丈夫。君を傷つけるやつは、いないよ」


 旋風のように巻き起こった、突然の出来事の連続に、私はただただ目を見開いていた。けれど私は思い出していた。泉の底から水が湧き上がるように、この街に広がる不思議な噂のことを。

 誰かが助けを求める時--彼は現れる。

 何処からともなく、音も立てずに現れる。

 それは、誰もその素顔を知らない、正体不明の、正義の味方。


「おや、そんな噂があるのかい?」


 彼は小さく首を傾げて、そっと笑った。月明かりを背にしているため、表情はわからないが、微かに見えた口元は、優しく弧を描いていた。


「その噂は、概ね正しいけれど--何処からともなく、というのは、あまり格好良くないな」


 そう言って、彼はコートの裾を大きく広げた--ように見えた。

 夜の路地裏に現れた、眩しいほどに純白のそれは、翼だった。


「夜の遊覧飛行はお好きかな? お嬢さん」


 怖くはなかった。

 迷いはなかった。

 差し出されたその手の温かさを、私はもう知っているような気さえした。

 そう、今こうして、彼の腕の中で、街のはるか上空を飛んでいることだって--怖くない。

 貴方がいるなら、恐れも迷いも、みんなみんな、この夜空へ溶けていく。

 だって今は、今だけは--万有引力さえ、その法則を封じられた今だけは、私は貴方のヒロインなのだから。


 けれどそれは、ほんの一瞬のこと。

 今夜の満月が、少しだけ、余所見をしてくれていた間だけの出来事。

 柔らかな羽音とともに、彼はゆっくりと高度を下げていく。はるか下に散りばめられていた街の光は少しずつ大きくなり、微かに日常の喧騒が夜風に混ざり始める。

 終わってしまう。

 夢のような、最初で最後の遊覧飛行。

 ドレスもリボンも失って、ただの気なれた洋服姿に戻った私は--もうヒロインではいられない。


「今日は長い一日だったね」


 彼の低い声が耳朶を打つ。それだけで未だにこの胸は高鳴るのに、それでももう、あの瞬間は返ってこないのだ。

 ここはもう私の家のベランダ。すぐ後ろには、私の帰るべき日常が待っている。

 わかっている。わかっているけれど。でも、どうしても。

 貴方のことが知りたい。

 貴方に触れたい。

 貴方の瞳に映ってみたい。

 貴方だけの、私になりたい。

 ついに、私の溢れる思いは、私の瞳から、熱い眼差しとなって彼へ届いてしまった。


「……さようなら、名も知らぬお嬢さん。できればもう二度と、私と出会うことなどないことを祈っているよ」


 その時、初めて私は彼の瞳を見た。

 輝く翼を、澄んだ夜空に広げた彼の瞳は--今宵の月と同じ色をしていた。

 それは、誰のものにもならない、真珠色。


 そしてふわりと音もなく舞い上がった彼は、濃紺の夜空へと溶けていった。まだまだ灯りの絶えない街のどこかで、彼は再び、誰かを救うのだろう。

 そしてその誰かも、私のように、彼の腕に抱かれるのだろうか。

 そして一夜の儚い夢のあと--こうして一人、泣き崩れるのだろうか。

 白銀の羽根が一枚、涙を流して蹲る私のそばに、ひらりと舞い落ちた。

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今宵の真珠は誰のもの 梅星 @umehoshi

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